73 帝国へ
ルーデンス領、東の山脈を越えた向こうには、広大な平地が存在している。
そのすべてを平定した帝国は、いまもなお領土を広げ続けている。もはやその勢いは誰にも止められることはなく、天災でも起きぬ限り変わらぬ流れと見られていた。
その帝国領、北西の小さな領地の主都にヴィレムはいた。
ここはアバネシー領と隣接しているため、常日頃、交易を行っているマーロに取り次いでもらい、ここの領主と話をつけたのである。現在は帝都への使いを出しているところであり、それが済むまで滞在することになっていた。
その一室で暇をつぶしていたヴィレムだったが、到着してまもないというのに、すでに飽き始めていた。
「帝国というから、まったく違う文化や風習があると思っていたのだけど、アバネシー領とあまり変化はないみたいだね」
「それはそうでしょう。帝国は複数の国からなっていますし、ここは帝都からずいぶんと離れていますから。別の文化があると捉えたほうが正しいはずです」
クレセンシアの指摘に、ヴィレムは口を尖らせる。
「わかってはいるけれど、それではつまらない。せっかく帝国に来たんだから、なにかノールズ王国ではできないことをしたいんだよ」
そうは言っても、町中を観光するような時間があるわけでもない。相手に時間を使わせておいて、自分が遊んでいるのはあまりにも印象が悪いから。
ちょうど、そんなときだった。
ドアがノックされて入ってきたのは、大きな黒い尻尾である。
「ヴィレム様、シアちゃん。えっとですね、小腹が空いたときのために、とお豆をいただきました」
ラウハは鍋の中身を見せる。どうやら茹でてきたらしい、綺麗な黒色の豆がたくさん入っていた。
「とてもおいしそうですね」
「はい。これはなんでも、すごい伝説があるお豆だそうです。聞いた話によれば……えっと……」
と、ラウハは聞いていないのに語り始める。しかも、彼女もよく覚えていないのか、うんうんと唸っている。そんなことなら言わなければいいのに、と思ったヴィレムであった。
やがて、ラウハの黒い耳が元気に立ち上がった。
「ある帝国の騎士さん二人がこのお豆を前にしつつも、戦いの中で両腕を失ってしまったため、お腹がぺこぺこなのに食べられない状況にあったそうです。そこで二人は考えました。足は口に届きませんが、相手のところになら持っていける、ならばお互いに食べさせあえばよいのだと。すぐ近くに棒があったので、それを使えば汚くもありません。そうして飢えを凌いだ二人の話は、助け合う美しさから、人々に受け入れられるようになったそうです」
ラウハは言い終わると、頭を下げた。そして今でもずっと続いている風習だとか、細かいことを告げるのだ。
用事はそれだけだったので、なにかと忙しいらしいラウハはさっさと退室していった。といっても、ほとんどマーロが雑用をやらせているだけなので――おそらく彼もラウハに重要なことを任せやしないだろうから――やらなかったり忘れたりしていても大丈夫だろう。
さて、残されたヴィレムはクレセンシアとともに、鍋の中身を見ていた。とても食欲をそそる匂いがしており、食間とはいえ少しくらいは口にしてもいい。
そこには、棒もちょうど一つ用意されている。
「ヴィレム様。頑張りましょう!」
「……本当にやるの?」
「先ほど、帝国らしいことをしたいとおっしゃったばかりではありませんか?」
クレセンシアは靴を脱ぎ、小さな足でひょいと棒を掴んでみせる。彼女は器用だから、特に問題なくできるかもしれない。
そう思ったヴィレムは鍋の近くに顔を持っていき、クレセンシアが豆を運ぶのを待つ。だが、一本の棒で豆を掴むなど、あまりにも荒唐無稽な話だ。
つるつると滑って、豆は食べられまいと踏ん張っている。
やがてクレセンシアが「えいっ」と声を上げたかと思いきや、豆はヴィレムのところへと向かっていき――頬にぶつかった。
「……ヴィレム様、惜しいです! 頑張ってください!」
「え、頑張るのは俺なの?」
「はい! 次は上手くいく気がします!」
食べさせられる側なのに、なにをどうしろというのか。
ヴィレムはすっかり困り果てていると、ノックもなしに太っちょが入ってくる。
「おい、ヴィレム。お前――なにしてるんだ?」
すっかり呆れ果てた顔があった。
◇
「まさか、本当にやるやつがいるとは思わなかった」
心底困った者を見るような視線を向けてくるマーロ。
ヴィレムは釈然としないものを覚えて、彼に反撃する。
「君のところの狐が言ったことじゃないか」
「騙されるほうがどうかしているだろう、そんな話。だいたい、その話の騎士は魔術が得意で、風の魔術も使えたから自分で食うことなどわけもなかったはずだ」
「詳しいんだな」
マーロはここぞとばかりに鼻を鳴らしてふんぞり返り、ふくれた腹を突き出した。もしかすると、普段は自慢する相手がいないのかもしれない。たった一人の従者を除いて。
「当然だ。相手のことをなにも知らずに交易などできるか。これくらい、知っていて当たり前だろう」
「それほど貴重な知識を惜しげもなく分け与えてくれるなんて、いよっ、マーロくん、太っ腹!」
ヴィレムは褒めつつ、マーロの腹をぽんぽんと叩いてみせる。思わず顔をゆがめたマーロだったが、陽気なヴィレムを見てため息をついた。
「まったく……お前といい、あの竜丁の魔術師といい、ルーデンス領はいったいどうなってるんだ。ろくな者がいない」
竜丁の魔術師というのは、ヘイスのことだ。帝都までは竜に馬車を引かせて行くため、扱いに長けたヘイスを連れていくことにしたのだ。今頃はきっと、竜の面倒を見ているだろう。
彼は女性関連には問題があるようだが、仕事はしっかりやるほうである。だからマーロが言うことはよくわからなかった。
「なにかあったのか?」
「食われかけたんだよ、お前の馬車を引く竜に」
「そりゃあ、おいしそうに見えたんだろう。無理もないんじゃないか?」
ヴィレムはまじまじとマーロの姿を眺める。肉付きがよく、脂肪もたっぷり乗っている。もちろん、彼の発言は冗談である。竜とて、人を食らわないようにしっかり教育されているのだから。ちょっと戯れてみたくなったのだろう。
「まったく……どうしてお前のところの奴らは皆、お前みたいのしかいないのか」
「いやはや、そんなに褒められると面はゆいな」
「褒めてねえよ」
ますます呆れるマーロだったが、そんな二人にクレセンシアが小首を傾げた。
「ところでマーロさんはなにをしに来たのです?」
そこで彼ははっとしたようで、ヴィレムに真剣な顔を向けるのだ。そんなところだけを見ていれば、しょうもない貴族の印象は受けない。
「前にも言ったと思うが……帝国では魔術師の育成が進められているという噂がある。そして今、帝都で持ちきりの噂は、皇帝の跡継ぎ問題だ」
「武力による帝位の奪い合いが起きてもおかしくない、と」
「可能性の一つに過ぎん。油断はしないようにしておくだけでいい。なんせお前ときたら、いつも脳天気だからな」
偉ぶって言うマーロだが、結局のところは心配してやってきただけである。クレセンシアはそんな彼の姿を見ながら、幸せそうな狐の少女を思い浮かべるのだった。
◇
それから数日と経たないうちに帝都からの使いがやってきた。ヴィレムがルフィナのところに赴く許可を携えて。
ヴィレムはすぐさま出発することにして、竜の引く車に乗った。
帝国ではまだ珍しい竜が、どんどんと南東へと進んでいく。山脈を迂回していくため、平地ばかりでそれほど揺れることもない。
ますます勢いづいた竜は、驚くほどの早さをもたらしていた。けれど帝都は一向に見えてこない。それほど大きな土地なのだ。多くの国を併呑したのだから、当然だろう。
ヴィレムはその距離と時間の長さによって、今後向き合っていかねばならない相手の大きさを実感するのだ。それだけでも、ここに来た価値があったと言えよう。
それから数度日が昇り始める頃、ようやくヴィレム・シャレットは帝都に到着したのである。
ここで失敗すれば、誰もかばってくれる者などいやしない。
ヴィレムは気を引き締めていくのだった。