71 それぞれの思いを胸に
キリのいいところまで……と思っていたら長くなってしまいました。第八章最終話です。
ルーデンス領主都の市外では煙が上っていた。
魔術師たちが居並び、煙の行く末を見守っている。
「かの魂が安らかならんことを」
一人の男がそう言った。レム教の司祭である。
それを皮切りに、すすり泣くような声が漏れ始める。そこには魔術師のほかに、一人の少女がいた。トゥッカの妹ミシェリーである。
ルーデンス領の襲撃があった日、魔術師たちの奮戦もあって、都市への被害は一つもなかった。
だが、初めて魔術師隊の者がなくなった。これまでが上手くいきすぎていたというのもあるが、ルーデンス魔導伯は極力無理な争いをしないように心がけてきていた。しかしそれが通用しない相手だったのだ。
有無を言わさず襲い掛かってくる相手は、力で退けるしかない。そしてそこには少なくない犠牲が付き纏っていた。
彼らもそうなることを覚悟していなかったわけではない。戦うということは死が身近にあるということ。けれど、そうした事実も少しだけ忘れかけていたのも事実だ。
貧民街の出自である者がほとんどである彼らは、いつ死ぬかもわからぬ生活を続けてきていた。それが今では魔術師として多くの給与をもらいながら、温かなスープを啜りながら、生きている。ただただ生きながらえるだけでなく、将来に希望を持てるようになった。少しだけ遠い未来を考えるようになった。
だから忘れかけていた。こうして唐突にやってくる理不尽な死があることを。
「……どうして、兄さんが死ななければならなかったのですか」
ミシェリーが捻り出すように、声を上げた。隣にいたクリフは、なにかを言い掛けては止め、何度か答えようとするも上手くできず、大きく息を吸い込んだ。そしてようやく、口から出てきたのは、なんとも情けないものだった。
「すべては、俺の責任だ。あのとき、あいつが行かなければ――」
行かなければ、どうなっていた? 決まっている。代わりに誰かが死んでいた。もっと多くの人々が犠牲になっていた。
あれから何度も何度もクリフは考えた。考えて考えて、それでも答えなんか出てくることはなく、自分の決断が間違いだった、失敗だったと懺悔することはできなかった。そうすることができたなら、まだ楽だったのかもしれない。
あの選択は最良だった。いまだにその結論が変わることはなく、それはトゥッカが死ねばよかったと言ってるのも同然で、そのたびにクリフは唇をかむことしかできなかった。
「あのとき、兄さんを止めていればよかったんです。私が、兄さんを」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
なにを言ってももう変えられることはない。誰だって、そのときそのときで正しいと思う道を選んできたのだから。
けれど、なにかを言わずにはいられなかったのかもしれない。誰かを偲び、そして自らの行いを省みるためにも。
クリフはぐっと拳を握った。そして覚悟を決めると懐に手を入れ、中にあったものを取り出した。トゥッカの遺品である緑色の腕輪だ。
「……トゥッカの遺品だ。受け取ってくれ」
ミシェリーはそれを見て大きく目を見開いて、それから手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。
「クリフさんが使ってください。私には、兄さんの思いは継ぐことができませんから」
「しかし……」
戸惑うクリフにミシェリーは首を横に振る。
「きっと、それが手元にあったら、私はずっと憎んでしまうでしょう。それが兄さんの命を奪ったんだって。私には兄さんが目指したものは、最後までわかりませんでした。このまま毎日がずっと続けばいいのに、これ以上なにも必要ないのにって、そう思ってたんです。けれど兄さんは笑うばかりでした」
都市の中で生きる者にとって、そこは変わらない場所なのだろう。外には多くの危険があり、魔物や敵対者で溢れている。
ただ平凡な毎日を送る人を守るために、莫大な費用と人員を費やさねばならないのだ。トゥッカはそれがわかっていたから、戦いに挑んだ。ただ平凡な毎日を送る人が、平凡な明日を望めるように。
そしてほんの少しだけいい明日にするために、ルーデンス魔導伯がもたらす未来をともに見ようとした。
なにも大層なものじゃない。その日のおかずが一つ二つ増えるような、そんな幸せを願ったのだ。
「トゥッカは……ミシェリーの幸せをずっと願っていたよ」
「そう、ですね。だから、私の我儘を一つ聞いていただけませんか?」
ミシェリーはクリフを見る。その眼差しの妙な強さに、クリフは戸惑わずにいられなかった。子供だとばかり思っていた少女がいつしか大人になっていた。
環境が人を変えるのだろう。そして悲劇もまた、いつまでも幼いままでいることを許してはくれなかった。
「なんでも聞こう。俺ができるのは、それくらいだから」
「とても迷惑だとは思っています。ですが……兄さんが求めた未来を、追ってはいただけませんか?」
「もちろんだ。……ここの魔術師たち一人一人が願ったものは同じじゃない。それぞれ違うものだった。でも、皆で同じほうを見ていたのだと、俺は信じているよ。そしてトゥッカも。進む先は同じだと」
上った煙が消えていく。ゆっくりと風に吹かれて消えていく。
ミシェリーはなんとか笑顔を作った。笑って兄を見送れるように。
クリフもまた、竜銀の腕輪をはめた。その思いがいつまでも消えないように。未来に続いていくように。
まだ、思い描いた未来は見え始めたばかりだった。
◇
吹き付けてくる風に、灰が混じっている気がした。
ディート・エデラーは都市の外を眺めていた。魔物の襲撃を警戒しているのだが、あの日以来、半ば八つ当たり気味に狩り尽くしてしまったため、そのような気配はない。
彼は魔剣リーズを握る。
この力は日に日に強くなっている。その実感があった。
そして先日、竜をも切り裂き、数多の敵を切り裂いてきた。都市には傷一つ付けてはいない。彼はかつて、切って切られて、守るために殺して、生きるために誰かを犠牲にしてきた。そんな自分が守ったものの大きさを考えると、とても信じられない気がする。
魔剣リーズを掲げると、ひゅうひゅうと風が吹き抜ける音がした。
それはきっと、彼に纏わりついた怨嗟の声なのだろう。ともに過ごした者が騎士の槍に貫かれるのを見ながらなにもできなかった日。騎行を止めるべく兵を返り討ちにするも、それを遥かに超える軍勢で村が蹂躙された日。都市が諸侯の侵略に遭って陥落するのを見捨てて逃げた日。
彼の周りでは、数えきれないほどの死があった。
そうして奪わればかりだった彼がルーデンス魔導伯の元で働くようになって一年。都市は一度も落ちていない。
貴族に奪われるばかりだった彼が、今やそれと大差ない身分まで上り詰めている。しかし、一度だって平民に刃を向けたこともなければ、誰かに恨まれるようなこともない。
だからディートは今回もまだ夢を見ているような気分にすらなるのだ。ほかの少年らが貧しかった日々を忘れていく一方、彼の心はまだ当時に置いてきたままだった。
「ディートくん。お昼ご飯、一緒に食べよう?」
声が聞こえたほうに視線を向けると、そこにはオデットがいた。そもそもディートにはこれといった趣味もないため、彼女が誘うものといえば、だいたい飯関連になっていた。
そしてディートも貰えるものはとりあえず貰っておく、という性格をしていたので、こんな習慣はなんだかんだで続いている。
そろそろ飯が支給される時間だったので、ディートは丁度いいと思うのだ。隊で支給されるものはあまり量が多くないし、まとめて作るようなものだからかなり大味で物足りないから。
それにオデットが作るものはなかなかにぶっ飛んだ食材だったりするが、料理の腕は悪くなく、結構な手間暇と金をかけているようで、ディートにとっては御馳走なのである。
「いつもありがとう。しかし俺は君に返せるものはない」
ぶっきらぼうに言うディート。この素直なところは美点であり、一方で年頃の少女を悩ませるところでもあった。オデットは慌てて両手を振る。
「そ、そんなものいいよ! それに……助けてもらったから、そのお礼」
「あれは君が主力の作戦だったから。飛竜を減らしてもらったのは助かった」
「そうかな……? ディートくんの役に立てたならよかった。あ、そうだ。あの竜のお肉、焼いてきたんだよ」
オデットは箱を取り出すと、そこに焼きたての肉が入っているのを見せた。非常に香ばしい匂いが漂ってきて、ディートは思わず喉を鳴らした。
そんなところを見て頬を緩めでれでれするオデット。早速、かいがいしく世話を焼きながら、ディートを眺めつつ自身も食事にする。
「これは旨いな。餓死しそうになったとき、ネズミの肉を食ったのが忘れられないが、それに匹敵する」
褒めてるのか貶しているのかわからない感想を述べるディートだが、基本的に彼に悪意はない。それにオデットもディートに関してなにからなにまで良いほうに捉える少々困った性格だったので、嬉しそうに頷くばかり。
そうしていると、ディートは少しだけ魔剣リーズの声が聞こえなくなる気がするのだ。単に彼女の声があるせいかもしれない。けれど、それだけディートの孤独が慰められているということでもあるのだろう。
しばらくそうしていたが、オデットも仕事があるため、昼から晩まで食事を続けているわけにもいかない。
「もう行かなくちゃ。また、来てもいい?」
「俺はルーデンス魔導伯と違って暇だから、予約はいらないよ」
無愛想に言うディートを見て、名残惜しそうにオデットは去っていく。けれど、こんな機会はこれから何度もあるだろう。そう思うと、彼女は明日も頑張ろうと思うのだった。
それからずっと警備を続けていたディートだったが、市壁の外から竜の鳴き声が聞こえてきた。見下ろせば、そこには竜に乗ったヘイスがいた。
「ディート、ちょっといいか」
呼ばれると、ディートはさっと市壁から飛び降りる。以前なら「ああ」とか「構わない」とか言いつつそこから動かなかった彼だ。少しは変わってきたのだろう。
「トゥッカのところ、行かなくて良かったのか?」
「……俺が行っても仕方ないさ。魔術師隊はクリフの管轄だ」
「そういうことじゃなくてさ……俺たちはルーデンス魔導伯の元で働く仲間だろう?」
仲間という言葉を、ディートは頭の中で反復する。
自分は本当にそうなのだろうか。いまだにその実感はない。彼にとって仲間というものは、できたと思ったらすぐにいなくなってしまう存在だったから、長くいる者たちというのは、これが初めてのせいかもしれない。
「わかっているさ。悲しくないわけじゃない。……でも、俺はそれ以上に嬉しいと思ってしまっている。都市には被害がでなかった。誰も死ななかった。それにほっとしているんだ。……トゥッカの死を軽んじているんだろう」
ディートが言うと、ヘイスは竜から飛び降り、ディートの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。なにをするのだと恨みがましい目を向けたディートに、ヘイスはいつもの明るさを見せた。
「それはトゥッカが成し遂げたことを誇らしいって思ってるってことだ。あいつと同じ目的を持ってるってことだ。死んでいった者がこれからできなくなってしまうことを引き継ぐってことだ。恥じることじゃない。あいつの分も、お前が頑張ればいい」
ディートはヘイスをまじまじと眺める。
「……まともなことも言えたのか」
「お前なあ、俺をなんだと思ってるんだよ」
「冗談さ。ありがとう。……でも、やっぱりいいや。俺が警備をやれば、その分誰かが葬式にいけるだろ。そのほうがいい」
ディートは遠くを眺める。その先にはルーデンス領の主都があるはず。見えやしないが、そこではきっと魔術師たちが集まっている。
その顔はどこか晴れやかだった。
◇
ヴィレム・シャレットはノールズ王国首都にいた。
猜疑が晴れるまではここを立つわけにはいかなかったのだ。しかしようやく調査も大方済んだらしく、ヴィレムも帰って問題ない頃合いになっていた。
親愛なる魔術師隊の一人トゥッカが亡くなったと伝え聞いたとき、彼は珍しく感情を露わに怒り、今にも飛び出していって敵を討たんとするほどだったが、今ではようやく冷静になって、逆に沈んでいるくらいだった。
人の死がこれほどまでに重いとは。自分がこの四年間、ともにやってきた魔術師たちにどれほど強い思い入れがあったのかを思い知らされる結果となった。
しかし、だからといって歩みを止めるわけにはいかない。
ここで戦いをやめたとしても、ほどほどの結果として、誰も責めはしないだろう。だが、それで待っているのは緩やかな衰退だ。この戦乱の世では、その場に踏みとどまるだけでも相当に難しいことなのだから。
それに、目指したところはそんな近いところではない。その期待をまだ誰も失ってはいないし、ヴィレムもクレセンシアと交わした約束があるのだ。
聖域を取る。
その目的は見えたばかりであり、だからこそ遠く感じられるものだ。そしてちらちらと障害の影も見えてきている。なにもせずにいるわけにはいかない。
ヴィレムは王城の一室を訪ねたところであり、待ち人はもうすぐ来るところだった。浮かない顔のヴィレムをクレセンシアが覗き込む。
「大丈夫ですか? 具合がよくない場合は言ってくださいね」
「問題ないよ。ここのところ、ずっとこんな調子なだけだから」
「そんなに不調ならば、すぐに帰らないといけませんねっ」
クレセンシアはヴィレムを「えいっ」と頭上に抱える。まるで荷物のような扱いにヴィレムは苦笑していたが、彼女が本気で帰らんとすると慌てた。
「うわ、ちょっと待ってよシア。大事な話があるんだよ」
「そうですか。心配する私なんかより、女性との話が大事だとおっしゃるのですね」
「違うって、そうじゃない。えっと、機嫌を直してくれよ、シア」
ヴィレムが慌て始めると、クレセンシアは彼を下ろして微笑んだ。彼がほんの少しだけ、あのときのことを忘れていられたようだから。
「わかっておりますよ。ヴィレム様が少しでも元気になられたら、クレセンシアは満足なのです」
そう言われて、ヴィレムは頭をかいた。彼女に心配をかけているのは、自分の態度なのだ。
クレセンシアもトゥッカの死になにも感じていないわけではない。それでもしっかりして、ヴィレムを励ましている。
だというのに、皆を巻き込んで引っ張ってきた自分がへこんでなどいられるはずもない。
ヴィレムが顔を上げたとき、扉がノックされた。そうして現れたのは、ルフィナ・デュフォーである。
結婚を控えた女性に会うのはどうかと思われるものだが、案外そういうことはないようだ。あの事件で婚約の話はなくなったわけではないが、ひとまず中止になったらしい。
もともと気乗りしていなかったらしいルフィナは、第二王子の態度に呆れてしまったとのことだ。無理もないことだが、帝国と王国における外交問題としても繊細な部分であるため、慎重にことを進める方針のようだ。
というのも、結局のところ、あの襲撃がなんであったのか、誰が仕組んだことであったのか、はっきりしていないからだ。
もしかすると、王国だけでなく帝国も一枚岩ではないのかもしれない。そしてヴィレムもまた、そこに複雑に絡んでいくのだろう。
相手がこの襲撃をルーデンス魔導伯の仕業と見せたかったのは明らかだ。誰かを失墜させる際、責任を彼に押し付けたかっただけなのか、それとも邪魔な存在と見たのか、はたまたそれこそが目的だったのか。
いずれにせよ、魔術師としての力だけでなく、領主としての力をつけていかねばならない。すべての国を相手に戦ったとなれば、たとえ力だけでねじ伏せたとしても禍根が残り、領内は荒れに荒れるだろう。
だからどこと手を結び、どこと戦うのか。政治において辣腕を振るう必要があった。それはレムとしても、ヴィレムとしても初めての経験になる。油断なんかしていられない。
「ヴィレム様、お待たせして申し訳ありません」
ルフィナが優雅に頭を下げる。そんなところだけを見ていれば、あのやんちゃな姫君と同一人物にはとても見えない。
「いえ、こちらこそお時間をいただきありがとうございます」
これまで何度か会ってはいたが、こうして二人で話すのは初めてのことである。といってもルフィナの隣には従者が控えているし、ヴィレムの隣にクレセンシアもいるから、正確には四人なのだが。
そしてもっぱら話題と言えば――
「聖域には今も行っているのですか?」
「いいえ。なんせ、猜疑ある身でしたからね」
ヴィレムはおどけて肩をすくめる。そんな話もできるくらいに、ルフィナとは打ち解けていた。
「ですが、アバネシー家と協力して交易を行っていますし、帝国ともそうですね。私がいなくとも部下たちが上手くやってくれますよ。ああ、そうです、最近は眠り薬が売られるようになっていませんか?」
「そういえば、巷で流行っているという話がありましたが」
「ええ。あれが聖域で採られたものを使った品ですね。従来の品よりすっきり起きられますよ。もし夫婦喧嘩などされて眠られないときはいかがです?」
などと言うと、ルフィナはくすくすと笑う。
第二王子とは喧嘩するほどの仲にすらなっていないし、はたしてこのまま婚姻まで到達するのかどうかもあやしかった。
「殿方の友情というものがあるのもわかりますが、あれでは困りますね」
第二王子ペールは友人であるライマーとよくいるらしく、その傾向はあの日以来強くなったようだ。そも、彼は父である王アルベールとの折り合いが悪く、あの場にいて父の兵がなにもしてはくれなかったことが決定的になったようだ。
どうやらアルベールの懐刀パーシヴァル・グラフトンがこの親子の仲を取り持つ意味もあって進めた婚約だったそうだが、皮肉にもそれが仲を引き裂いたとも言える。いや、遅かれ早かれそうなっていたのには違いないかもしれない。
一方でライマーはどうにも恥をかかされたと思っているのかヴィレムを嫌っているらしく、面倒なことになったと思うのだった。
「その辺り、クレセンシアさんはいいですね。ヴィレム様はもう骨抜きでしょう?」
「はい! ヴィレム様は、君をいつも傍に置いておきたいんだ、と言ってくださいます」
「シア、嘘ではないけれど、そうもあからさまにされると恥ずかしいんだけど」
頬をかくヴィレムと、にっこり笑顔のクレセンシア。そんな和やかな雰囲気の中、ヴィレムはふと思い出すことがあった。
「男性と言えば、ルフィナ様にもお兄様がおられると聞いております。どのような方だったのですか?」
「長兄のマーカスは温厚で、誰とでも上手くやるような人でした。次兄とはあまり面識がないのでなんとも言えませんが……近しい兄アスターは私に魔術を教えてくれました。接点はそれくらいなのですが、一番親しいと言えばそうかもしれませんね」
それがルフィナが魔術にはまった理由かもしれない。しかしアスターはなかなかに気難しい性格をしているらしく、社交的ではないようだ。
「ということは、帝国では魔術が一般的に教えられているのですか?」
魔法ではなく系統的な魔術が使われているのだとすれば、すでにあの時代の文献かなにかが解読されたということになろう。
「いえ、そのようなことはありませんよ。兄が魔術に没頭していただけですね。……そういうルーデンス魔導伯も、お詳しいのではありませんか?」
そう言われてしまうと、ヴィレムもなにも返せない。彼の知識はレムの記憶が蘇ったからであり、なにかを調べた結果というわけでもないのだから。
「そのようなことはありませんよ。……と、そうでした。近々領地に戻ろうと思っていましてね」
「そうですか。私も一度国に戻ることになりまして……今日お呼びしたのはそれを告げるためだったのですが、先に言われてしまいましたね」
お互いにこの城ではろくなことがなかった、などと聞かれては困るような冗談を言いつつ、別れの挨拶を済ませる。
この姫君の気性があっさりしたものだったせいか、別れはあっという間だった。
「では、いずれまたどこかでお会いしましょう」
「そのときを楽しみにしております。今度は、ヴィレム様にも負けないよう腕を磨いておきますね」
そう言うやんちゃな姫君と別れると、ヴィレムもまた城に用はなくなる。
長い廊下をクレセンシアと二人で歩いていると、彼女が笑う。
「なんだかすごいお姫様ですよね」
「そうだね。けれど俺には君ほど素敵なお姫様はいないと思っているよ」
「それも私の気を引くための手ですか?」
クレセンシアはヴィレムの言葉をもって彼に返す。もちろん、嘘偽りない感情でもあるし、彼女の言う通りでもある。
だからヴィレムはクレセンシアの手を取った。
「こうして君を引くための手でもあるのだよ」
嬉しげなクレセンシアとともに、ヴィレムは進んでいく。これから先、艱難辛苦が待ち構えていることだろう。
けれど今はひとまずの休息を求める。
「帰ろう、俺たちの家に」
ヴィレム・シャレットは、そうして王都における滞在を終えたのだった。
これにて第八章はお終いです。
色々な思惑が絡み合う中、それぞれの考えも変わってきました。
じっくり書いたせいか、当初の予定より、かなり長くなってしまいました。
次章からはもう少しあっさり進めていけるかと思います。
今後ともよろしくお願いします。