55 それぞれの道
からから、と心地好い一定のリズムが刻まれていた。
ヴィレムは木箱に腰かけたまま、風車を回している。
最近はあれやこれやと忙しく、こうしてゆっくり過ごす時間もなかったから、久しぶりのことだ。彼の隣にはクレセンシアがいて、狐耳をそよそよと揺らしていた。
穏やかな時間がゆっくりと過ぎていく。そしてピタリと音が止んだ。
ヴィレムはさっと立ち上がると、熱していた鍋の中身を見る。そこには薄紅色の液体と、底に沈んだ残滓がある。聖域から取ってきた花を煎じたものだ。
ヴィレムが幾何模様を浮かべて水中へといくつも投入すると、力の魔術が発動して残りかすがすべて浮き上がり、近くの廃液を入れた桶に移される。得意の風の魔術を使わなかったのは、空気に触れる影響を抑えたかったからだ。こんな作業は手でやってもよいのだが、ここではそんな道具もないから、なにからなにまで魔術に頼り切りである。
さらに別の小瓶に毒の魔術を用いて、鍋の中に投入する。軽く鍋を揺すって、混じり合ったらそのまま放置。
クレセンシアは再び隣にやってきたヴィレムに風車を手渡した。
からから、と再び乾いた音がなる。もう回転数の感覚は掴んでいるため、これだけで時間を正確に測ることができた。
自然と二人の距離は近くなる。クレセンシアはそっと、ヴィレムの膝に尻尾を置いてみた。彼はどうするだろうか、と思ってのことだ。
ヴィレムは風車を置いて、彼女の尻尾を軽く撫でる。
「お時間のほうは?」
「大丈夫だよ。何遍も繰り返してきたんだから」
「……とうとう、ここまで来たのですね」
「聖域に行ったのは、数日前だよ」
「そういうことではありませんよ。……それでもやっぱり、ヴィレム様とこうしているのが一番幸せです」
クレセンシアがヴィレムに甘える。
シャレット領にいた頃には、よく二人で戯れたものだ。騎士領を得て、そしてルーデンス領を治めるようになって、数多の争いを潜り抜けてきた。そのうちに、こんな時間はどんどん減ってきたが、彼女は文句ひとつ言わなかった。
だからヴィレムは彼女の言葉を思い出さずにはいられない。
(私が戦いなどしたくない。ずっと一緒にお菓子を嗜んでいましょうと頑なに言い張れば、どうなさるのです?)
その言葉をヴィレムは頭の中で反芻する。
もちろん、それはクレセンシアの本音ではない。けれど、彼女がそうした日々を望んでいるのもまた事実。
だから、ヴィレムはこのままなにも告げずにいることなどできなかった。
「シア……えっと」
「はい、なんでしょう?」
彼女は微笑む。いつだって、彼女はそうだ。
そこに甘えてばかりはいられない。はっきりと形にしなければならないことだってある。
「ああ、うん。俺は君と一緒にお菓子を食べようと思う」
「はい? ……ええ、そうしましょう」
「これから先、忙しい日々が続いてしまうけれど、その時間だけは取るようにするよ。すべてが終わったとき――美味しいお菓子をたらふく詰め込んで、たっぷり午睡して、夜は星を眺めていつしか眠っている――そんな生活にはまだ時間がかかってしまうけれど」
「楽しみにしております。これからの日々も、輝かんばかりの未来も」
ヴィレムはクレセンシアの笑顔に心を奪われていたが、カタカタとなる鍋の音ではっと我に返った。
そして慌てて駆けていき、沈殿した物質を取り除き、そしてまた毒の魔術を用いた別の溶液を加えた。面倒な作業だが、いまやこの魔術を使えるのも、製法を知っているのも、ヴィレムただ一人。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、やがて白色の粉末が得られた。ヴィレムは魔術を用いて薬包に分けていく。
作業中、ドアが荒っぽく叩かれると、太っちょと真っ黒な尻尾が入ってきた。
「おいヴィレム。いつまで寝てる気だ。もう昼になるぞ」
「まったく、働き者の俺を捕まえてなんて言い草だ。君は自分の腹をよーく見るといい」
ヴィレムがマーロの太った腹を指し示すと、ラウハが胸を張り得意げに人差し指を立てる。
「どうですか、最近は随分と痩せたんですよ! ちゃんと苦手なお野菜も食べるようにむぎゅっ!」
高らかに宣言していたラウハの口はマーロに押さえ込まれる。
「ったく、このアホ狐。黙っていろ。……で、なにかわかったのか?」
話を振られたヴィレムは、肩をすくめる。
「あの化け物は、人間だよ。どこまでが人間で、どれほど違えば人間ではないのか、なんて哲学的な話は抜きにして。禁術が用いられていたんだ。なにやらこれまでとは違って、魔物の遺伝子を埋め込まれたわけではなさそうだけど」
「難しい話はいい。要約するとどうなんだ?」
「なにがしたいのかわからなかったよ。失敗だな、あれは。けれど聖域で実験したってことは、聖域に関した目的があるんだろう」
そうした結果に反して、ヴィレムはなかなかに陽気である。
「さあ、うかうかしていられなくなってきたぞ。こういうのは先んずれば権利や利益が大量に手に入るし、後手に回れば旨味が残らなくなるものだ。さあさあ、どうなんだいマーロくん」
「お前はまったく……こういうときだけ調子のいいやつめ。ほら、手に入れてきたぞ。お前のものだ」
マーロは信書をヴィレムへと投げ渡した。
ヴィレムはさっと手に取ると、中身に目を通す。クレセンシアは彼の肩越しに視線を辿っていく。
この集落に関して、マーロが交易を行うというものだ。ヤニクはあの失態があまりにも大きいせいで人々から相当に嫌悪されているだけでなく、彼自身もこちらに来たがらない(もちろん、常人では病にかかって短命になるのだから当然である)こともあったのは間違いないが、マーロが健闘したのは確かである。
彼は数年ぶりに、直々にアバネシー公を尋ね、この交易による利を説いたという。そしてヴィレムは技術的な協力者として、少々かかわることになった。
それがことの顛末であり、ヴィレムが得た結果である。
クレセンシアは狐耳をぴょこぴょこと動かして、疑問を口にした。
「それにしても、よくヴィレム・シャレットの名が通りましたね」
ヴィレムもそう思った矢先、マーロが鼻を鳴らす。
「当たり前だ、考えるまでもないだろ。戦争になったら、アバネシーに勝ち目はない。なんせ、都市ごと消し飛ばしてしまう化け物がいるんだからな。喉元にまで剣を突きつけられた人間は、賢い選択をするものだ」
ひどい言われようだとヴィレムは眉を顰めたが、ともかくマーロが上手くやったことに変わりはない。
もっとも、ヴィレムは実質的に聖域へと手を伸ばすことはなく、たまに調査に向かうくらいだろう。しかしそれでも、聖域は少しだけ近くなった。確かな一歩だろう。
「さて、それじゃあそろそろ、俺もルーデンス領に帰るとしようかな」
「なんだ、随分とあっさりしてるんだな」
「いつまでもルーデンス魔導伯が居座るのはよろしくなかろう。それに、俺を待っている可愛い部下たちがいるものでね。帰って、ここに届ける薬を作るとするよ」
マーロはもう少しだけ、ここに残る予定になっていた。今回は腕利きの魔術師も、しっかり彼の城から連れてきている。だから、ここでお別れとなろう。
ヴィレムは小屋を出ると、集落を見渡した。あちこちに家々が立てられている最中だ。あの襲撃で老いた者はなくなったが、若者は生き残りがそれなりにいた。そして、彼らの症状は緩和され、以前よりも活動的に動いている。外部から物資を運んでくる者も増えた。
しかし、差別はなくなりやしないだろう。根本的な考えが変わらない限り。
いずれはこの土地も、賤民が住まうところではなく、天下の魔導王が治めるお膝元になるのだろう。そうなったときこそ、彼らは呪縛から解放されるのだ。
ヴィレムは荷物を背負い、集落の者に軽く声をかけると、いよいよ移動し始める。
「なにかあれば、俺のところに使いを寄越してくれ」
「ああ。……あの指輪、ありがとうな」
「大したことじゃないさ。大事なのは物じゃない。大切なのは使う人間ということだ。……マーロくんとラウハくんに魔術師の加護があらんことを!」
「お前が言うか」
笑い合いながら、二人は背を向けた。
クレセンシアとラウハはしばし尻尾を振り合っていたが、やがてそれぞれの人の隣に行く。
「ヴィレム様、あれが男の友情なのですね。クレセンシア、憧れちゃいます!」
「俺はいったい、いつまでそうやってからかわれればいいんだい? でも、間違いではないかもしれないね。利益とか、それだけじゃなくて。そういうシアも、お友だちができてよかったじゃないか」
クレセンシアは嬉しげに尻尾を振る。
そうして二人はドンドンと速度を上げて南へ、慣れ親しんだルーデンス領へ向かっていく。
お土産もあるし、ディートたちは喜ぶだろうか。そんなことを思いながら、ヴィレムはアバネシー領に別れを告げた。
これにて第七章はお終いです。
ヴィレムが土地を治めるだけでなく、交流を持つまでの過程でした。
初登場からずっと出番がなかったマーロとラウハの見せ場が中心です。
この話でようやく20万字を達成ということで、随分書いたなあと思わずにはいられません。
次章は再びルーデンス領に戻って、話が進んでいきます。
今後ともよろしくお願いします。




