53 聖域にて
ヴィレムは深い森の中へと足を踏み入れていた。
生い茂る木々はそこらのものと異なっていて、葉は紫や青など、ノールズ王国では見られない色であった。ここ聖域では、あらゆる動植物が魔物に近い性質を持っており、常識では計り知れない現象が多々起こる。
そうして進んでいく中、クレセンシアが踏み出した足元から、粉末が舞い上がった。見れば、潰れたキノコがある。
「シア、大丈夫?」
「はい。これがヴィレム様のおっしゃっていた薬になるのですか?」
尋ねられたヴィレムは、しゃがみ込んでキノコを眺める。しかし、舞い上がっていた胞子は彼の口元までやってくると、吹き飛ばされていく。
常に発動し続けている風の魔術は彼の全身を覆いながら循環しており、微粒子などが体内へと入らないようになっているのだ。
そしてクレセンシアもその魔術を使っているため今は鼻が利かず、いつもと違う様子だ。ヴィレムと条件は同じなのだが、これまで頼ってきたものがなくなることで生じる差が大きく、慣れるまでは時間がかかりそうだ。
「このキノコは、病の主な原因だね。キノコが原因となるのは珍しいけれど、聖域での主な被害はこの菌によるものだったと記憶しているよ。さて、あれから千年も経っているから、まったく同じ薬が効くとは限らないけれど……おそらく変異があっても俺の掌握している範疇に収まるだろう」
「では、これで目的は終えたのですか?」
「いいや。長期的な目で見れば、こいつを用いて抵抗力を上げることはできるけれど……今優先すべきことは、体内に入り込んでしまったこの菌をいかにして無力化するかってことだから」
ヴィレムは言いつつ、背嚢からガラスの容器を取り出した。そこには芋と寒天、砂糖などを煮て作ったゼリー状の培地が入っている。
先ほどクレセンシアが踏み潰してしまったキノコのすぐ近くに生えている同種のものを手に取り、ヴィレムは風の魔術を持ちいて胞子を培地に蒔く。こちらはルーデンス領に持ち帰ってから、じっくり取り込むことにして、今はとりあえずすぐに使えるものを探すことにした。
そして容器のふたを閉めて背嚢に入れると、ヴィレムは歩き始めた。クレセンシアもその横を一緒についていく。
「そういえば、あの方々が掲げていた竜銀が蓄積した皮は、効果があるのです?」
「一応はね。竜銀は人体にとって無害だけれど、殺菌作用があるから。といっても、あの状態でどれほど効果があるのかと言われれば、疑問だけど」
だから持っていくのに問題はない、とヴィレムは結論付けた。
それから聖域内を探索していくと、向こうに動くものを見つけた。人よりも大きな全身は赤黒い毛で覆われており、尻からは細長く短い尾が伸びている。その猿の魔物は花びらを両手でがっしりと掴んだかと思いきや、次の瞬間には手が赤く染まり、手中から煙が上がってきた。
炎の魔術が使え、なんでもかんでもこのように掴んで熱してから食らうため、いつも真っ赤な手をしていることからアカテザルと呼ばれている魔物である。
「おや、案外早く見つかったな。あれが俺の探し物だよ」
「あのお猿さんですか?」
「いいや、あの花のほう。これ以外にも方法はあるんだろうけれど、俺はこれが一番手っ取り早いと思ってね。なんせ、加工の手順が少なくて済む。だから魔術師レムが一人でも大量に賄うことができたわけで――」
ヴィレムが話していると、二人の接近に気付いたアカテザルが勢いよく飛び掛かってくる。その勢いはすさまじく、余所の魔物とは比べ物にならない。
ここ、聖域の魔物はどれも強力であり、ひとたび遭遇すれば決死の覚悟で挑まねばならない相手だ。
だが、それも並の戦士に関した話だ。
ヴィレムは向かってくる相手目がけて風刃の魔術を発動させる。勢いよく飛んでいった風の刃は、敵が反応するよりも早く頭部を真っ二つにした。
飛散する血はヴィレムに付くこともなく、吹き飛ばされていく。
クレセンシアはその花を眺めていて、狐耳をピンと立てた。
「なるほど。ここにいる動物たちも、病に陥らぬよう対策が必要ということなのですね」
「そういうこと。もちろん、種が違えばそもそも感染しなかったりもするけれどね。この花は、そこで転がっているお猿――割と人に近い動物が食べているように、人も摂取できないことはない。といってもそのままだと毒性が強く、抗菌作用も期待できないんだ」
「では、どうなさるのですか?」
クレセンシアは小首を傾げた。
ヴィレムは口の端を上げ、花が咲き誇る大地に無数の幾何模様を浮かべた。
「人はほかの動物に力が及ばぬゆえに、知恵を磨いた。そうして道を切り開いてきたのだ。これまでも、これからも」
風が吹き荒れ、根こそぎ花が持ち上げられていく。そして一部分は裂かれて粉末状になり、ヴィレムが取り出した瓶の中へと納まっていった。そして種は分別されて別の小瓶へと収まる。
「力が及ばぬ、とは説得力がありませんね」
「いかに魔術が優れようと、所詮は人の身。一人でできることなど限られていよう。でも、君とならなんだってできる気がしてならないよ」
ヴィレムが言うとクレセンシアは微笑み尻尾をぶんぶんと振る。
そんな彼女の姿にすっかり骨抜きになっていたヴィレムだが、突如表情が変わると素早く飛び退いた。
鋭い爪が眼前を通り過ぎていく。
見えたのは、肉がいびつに盛り上がった人型。獣と言うにはあまりにも人に近いが、かといって理性の欠片も見当たらない。強いて言うのなら、悪魔とでも言うべきか。
こんな魔物はレムの記憶にもヴィレムの経験にも合致するものはない。
ヴィレムが素早く剣に手をかけたときには、鋭い咆哮が上がっていた。繰り出される腕は、彼の首目がけて進んでくる。
が、絶叫とともに相手の肉体が宙に張りつけられた。胸部を貫く槍が赤く染まっていた。
目の前に伸ばされた手は、ヴィレムに届くことはない。剣を抜いたヴィレムはその勢いで腕を切り落とし、返す刀で首を断った。
聖域ではなにがあるかわからない。それゆえに警戒を強めていたが、無駄ではなかったようだ。
「ヴィレム様、これはいったい……」
クレセンシアも今は頼みの嗅覚が使えず、聖域の異様な環境で接近を見逃してしまっていたようだ。
ヴィレムはごろりと落ちた頭を見るも、そこからはなにも感情が窺えなかった。そうした訓練を受けていたのか、あるいはそもそも知性を持ち合わせてもいないのか。
外見を見れば異様に膨れ上がっており、人とは程遠く見えるが、風読みの魔術を用いて反響具合などから骨格や筋肉などを確かめんとすると人とよく似ていることがわかる。
ならばこれは人間であるのか。前にも人が魔物と化した事件に遭遇したヴィレムとしては、そのあまり考えたくない可能性を吟味せざるを得ない。
もしかすると、ここに足を踏み入れていた者が、ほかにもいたのかもしれない。
そうした思案を素早く行ったヴィレムだが、面を上げてクレセンシアに告げる。
「さて、こやつらの目的はわからないが、生かして返してくれる気はないようだ」
クレセンシアが狐耳を立てて、それに合わせて視線が動く。木々の向こうから近づいてくる存在があった。
ヴィレムは荷物をすべてしまうと両手で剣を構え、幾何模様を付近に走らせる。
そしていくつもの影が飛び出した瞬間、電撃が走った。硬直し倒れる者もあったが、まるで感覚でも失ったかのように、不自然な動きで近づいてくるのがほとんどである。
「お前たちに恨みはないが、こんなところでくたばるつもりはないんでね」
クレセンシアが放つ炎を合図に、ヴィレムは敵へと飛び込んだ。




