52 聖域へ
アバネシー領北の都市は工業が発達しているが、決してそこが最北の土地というわけではない。一般に聖域との境界は曖昧で、どこまでが国土であるかは時代ごとに解釈が異なっているが、常人は近づかないというのが通例であった。
しかし、例外はなんにでも付き纏うもので、アバネシー領北東には小さな集落があった。そこに住まう人はもちろん、「常人」ならざる者たちだ。
が、この日はそこに踏み込む者たちの姿があった。
「……これは、ひどい匂いですね」
そう呟いたのはクレセンシアである。口と鼻を布で覆っているにもかかわらずそう感じるのだから、いかに臭気が強いかが窺える。
発生源は特定のなにかというわけではなく、この土地に染みついてしまったものなのだろう。
マーロがずんずんと進んでいくと、彼の左右に控えていた兵たちも歩調を合わせる。
彼らはマーロが護衛として雇っている者ではない。皆が皆、ヤニクが「聖域は危険が多く、その護衛として」派遣した者たちだ。
しかし実際のところ、マーロを監視する役割を与えられているのだろう。この近くで揉め事があれば困るのは、南方のマーロではなくヤニクなのだから。
マーロが進んでいくにつれ、集落の者が彼らの存在に気付き始める。
ここに住まう者は一様に頭からすっぽりと布を被っており、遠くからでは見分けがつかない。そんな彼らはゆっくりとやってきて、緩慢な動作で頭を下げた。
何事かをぶつぶつと呟くも、声量が小さいだけでなく掠れているため、少し離れているだけで聞き取るのが困難である。そして彼らは数度、咳込んだ。
その動作から老人かと思いきや、外套から覗く素顔はまだ若く四十にすら満たない者ばかり。ここでは、年老いたものは誰一人いない。いや、そこまで生きながらえられないと言ったほうが正しいか。
通常と異なる性質を持つ聖域では、他の地では流行らぬ万病が存在している。それゆえに目ぼしい対策もなく、そこから離れることでしか被害を抑えることはできなかった。
だが、それすらも許されない者がいる。
ヤニクが派遣した者たちは明らかな不快感を彼らに向けていた。それをたしなめる風でもなく、マーロは淡々と告げる。
「俺はマーロ・アバネシーだ。直接、買い取りを行いたい。大した量にはならないが、買い叩きはしない。そちらとしても悪い取引ではないはずだ」
自信たっぷりに言うマーロ。おどおどしているよりは、そのほうがよほど頼りがいがあるように見える。商いに携わってきた経験が醸し出す雰囲気なのかもしれない。
この地に住まう者たちは、一斉に困惑の表情を浮かべた。なにせ、こんなところにアバネシーがいること自体、どうかしているのだ。
聖域の病もそうだが、それ以上にこの集落で行っていることが理由だ。聖域由来の資源を採取するのが仕事であるが、そこには動植物だけでなく魔物も含まれている。
魔物を解体するとなれば、血を浴びるなど嫌悪されるような行いだってせねばならないし、感染症の可能性も高くなる。
そうした仕事をする者を封じ込める意味もあったのだろう、彼らは賤民としてこの集落でしか生きることを許されなかった。
貴族がそんな者を訪ね、挙句自ら取引を行おうとしているのだから、もはや埒外の行いであったに違いない。
そんな訪問者に慌てふためいていた者たちであったが、とにかく言われた通りに作業場へと案内してくれることになった。
そこはとにかく血と腐敗の臭いがひどい場所だった。
運ばれてきた魔物の死骸が置かれており、衛生的なところはほとんどないため、あちこちに虫が飛んでいる。
劣悪な環境下で働いているのは、多くがよろめき手が震え、咳が止まらぬ比較的年を取った者たちだ。彼らはすでに死期が近いのかもしれない。
まだ若い者たちは聖域へと赴き、動植物や魔物を狩ってくるのが仕事であり、それができなくなればこうして解体に携わるのだろう。
ヴィレムはあたりをぐるりと見回して、壁に巨大な青緑色の皮があるのに気付いた。そちらに歩いていき、そっと表面を撫でる。
随分と懐かしい感覚に、ヴィレムは思わず頬を緩めた。
「これをいただくことはできないか」
ヴィレムの言葉に、彼らは難色を示し、
「それは邪を払う我らが盾ゆえに……」
と、ひどくくぐもった声を出す。ようするに、この血が飛び散る作業場は病にかかりやすいため、お守りとしてあれを掲げているということだ。
それに対してヴィレムは、すげなく返す。
「つまり、君らの病がよくなればあれは必要ないということだろう?」
彼らは曖昧に頷くが、そんなことができるはずもないと思っている。なんせ、何十年、何百年と続いてきた運命が、急に変わることなんか想像できやしないのだから。
そうして彼らの立場や経歴等を考慮せずに問題点を突きつけるヴィレムもヴィレムだが、集落の者もこんな男と相対することがなかったためか、流されるがままに話を進められてしまうのだった。
ややあって客人に向けた小屋――といっても馬小屋同然の代物であるが――を与えられると、マーロは早速、ヴィレムに尋ねた。
「おい、あんな約束してよかったのか。まさか当てもなく言ったんじゃないだろうな。だいたい、なんであんなものを欲しがる」
「マーロくん、質問は一つずつにしてくれないかい。なんせ、俺の口は一つしかないんだからね」
おどけつつ、ヴィレムは荷物を確認し始める。袋の中には昨晩の内に準備しておいたものがいくつか入っていた。
「まず、俺は自分ができることとできないことくらいは理解しているつもりだよ。一時的なものでいいのなら、彼らの症状は緩和させることができるだろう。それから、君があんなものといったものこそ、俺が欲していたものなのさ」
ヴィレムは嚢中から小さな緑の指輪を取り出すと、マーロへと放り投げた。昨日、市中を走り回って見つけたものだ。
「……竜銀の指輪か」
「御名答。いい目をしているじゃないか」
「俺はアバネシーだからな。本物には本物が相応しいんだ」
そう言うマーロを、ヴィレムとクレセンシアは生暖かい目で見ていた。怪訝な顔をするマーロであったが、指輪をいじり始める。
「それはただの装飾品じゃないからな。竜銀は魔術的な可塑性を持ち合わせつつ、物理的な強度を誇っているのが特徴だ」
「こんな少量で役に立つのか」
「無論。薄く伸展させれば、万物を防ぐ盾にも切り裂く剣にもなろう」
ヴィレムに言われたマーロは、指輪をはめて、それから使用してみる。すると彼の意のままに指輪は形を変えていった。
「どうなってるんだ。ただの金属じゃないのか」
「意のままに変えるには、ある程度自動化する必要があるだろう? だから、そこには魔導鎧の仕組みを流用したんだ。君に合わせて調整したものだから使いやすく、誰かに奪われても発動しないようになっていて防犯性は高いよ」
マーロはそれまで遊んでいた竜銀を指輪の形に戻した。それから滔々と語っていたヴィレムを真っ直ぐに見る。
「……おい。昨日からなにを考えている? これではまるで――」
「念のためさ。なにかあってからでは遅いんだ。世の中、どれほど気を付けていても予見せぬ危害が襲い掛かってくる。うっかりすれば容易く足をすくわれる」
かつて魔術師レムは、自分の考えを信じ抜き、そして灼熱の最期を迎えた。もし、誰かと少しでも情報を共有していれば。後ろ盾となる者を得ていたら。すべて今となってはなんの意味もなさない仮定であるが、悔恨があるからこそ、ヴィレムはありとある可能性を疑わねばならない。
「さて、話を戻そうか。竜銀という名前の由来を知っているかい?」
ヴィレムの問いに、ラウハが狐耳を元気に立てて答える。
「金属の緑色が、竜の鱗の色に似ていたからですよね? 昔読んだ絵本に、書いてありました」
マーロが与えてくれたものなんです、とはにかみながら告げるラウハに、ヴィレムは首を横に振る。
「今じゃそう言われているらしいけどね。実際は少し違う。竜の色そのものなんだよ」
クレセンシアがヴィレムの隣で尻尾を振る。
「先ほど見た皮がそうなのですね」
「その通り。自然界に存在している物質が竜の体内に取り込まれ蓄積されることで、表皮があのような色合いになるんだ。生存の上でも、強固な外皮は役に立ったんだろう。もっとも、今ではその竜は絶滅してしまったようだけれど」
あれほど大きな皮があれば、この時代の流通量に比すとかなり多くの竜銀が得られることになる。ぜひとも手に入れたいところだ。
ヴィレムはすっくと立ち上がると、小屋を出ていかんとする。残されるのが不安になったのか、マーロが呼び止めた。
「おい、どこ行くんだよ。治すんじゃなかったのか?」
「そのためには材料がいるだろう? ちょっと聖域まで行ってくるよ。そんなに時間はかからないから」
「……危険だと言っていたのはお前じゃないか」
「俺を誰だと思っている?」
ヴィレムはマーロにそう返すと、揚々と歩き始めた。そして隣を誇らしげに行くクレセンシア。
ルーデンス魔導伯は、聖域を恐れはしなかった。