43 ルーデンス魔導伯
西の諸侯は、たった数日の間にルーデンス領のすべてが押さえられたという話を聞いて困惑を隠せなかった。あの土地は争いが絶えず起こっており、誰かの元に完全に平定されることはここ数十年なかったからだ。
そして土地を治めたものがどの諸侯かと言われれば、誰もが信じられないと首を振る。ただの一介の騎士が行ったというのだから。
そのヴィレム・シャレット、執務室で机の上に広がっている資料と睨めっこしていたかと思いきや、体を椅子に投げた。
大きくため息を吐き瞼を閉じると、なんとなくこの都市の様子が浮かぶ。
「ヴィレム様。お疲れですか? そんな疲れも吹き飛ぶ美味しいお菓子を用意いたしましたよ」
目を開ければ、そこにはクレセンシアがいる。
いつものことだが、ヴィレムは安心してしまう。彼女がいてくれるのが嬉しくて、ヴィレムはつい飛び起きた。
「これは美味しそうだね。しがない貴族の末っ子のために、美しく気高い君が作ってくれるとは、なんという僥倖だろうか。俺はこの日を忘れられないよ」
「ヴィレム様、では普段はお忘れになっていたのですか?」
クレセンシアが小首を傾げると、ヴィレムは首を振る。
「いいや。君のことならば、なにからなにまで覚えているよ。例えばそう、君がうちに来て初めておねしょをしたときのこともね」
「そんなことは忘れてください!」
頬を膨らませるクレセンシアを見て、ヴィレムは幸せを実感するのだ。
「ところでヴィレム様。もう貴族の末っ子ではありませんよ。貴族そのものになったのですから。ね、ルーデンス魔導伯?」
そう呼びかけられて、ルーデンス魔導伯は肩をすくめた。
「あくまでも、俺の考えを広げるためのものに過ぎないよ。怯えて物も言えないより、少しくらい大きなことを言っているほうが、大人物らしく見えるものだからね」
「少し大きすぎやしませんか?」
「それくらいでいいのさ。それに、これは魔術の普及にも一役買ってくれるはずだから」
「……レムの申し子、というやつですか」
ヴィレムはルーデンス領を取ってから、自身がレムの申し子である、という噂を流していた。本気でそんなことを思っているわけではないが、そのほうがやりやすいことがあったのだ。
レムを崇めている宗教を取り上げてやることで、神魔教の勢力を弱めることができる。こちらはレムの申し子とでも言っておけば、簡単にヴィレムの意思を通すことができるものであり、さらには魔術を魔術として取り扱っているものだから、都合がよかったのだ。
今はこの都市のあちこちで、司教が民の生活のため魔術を用いていることだろう。
ヴィレムがそんな穏やかな時間を過ごしていると、オットーが入ってきた。手にはドラゴンの子供を抱えている。
「ヴィレム様、最後の一匹がかえりましたよ」
「そうか、全部うまくいったな」
「ええ。……どうですか、可愛いでしょう?」
オットーが笑う。
今度は彼が、ヴィレムにドラゴンのことを尋ねる番だった。
「すっかり板についているじゃないか。竜丁も悪くなかろう」
「天分って言うんですかね。ようやく失っていた半身を取り戻した気分ですよ」
そういうオットーには、弟への引け目もなければ、どこかずっと抱えてきた不満のようなものも消え去っていた。
それから、ドミニクが入ってくる。ヴィレムが二人を呼んでいたのだ。
ヴィレムは改めて、サイクス兄弟に向き直る。
「これで俺は、土地を得たことになる。シャレットの土地ではなく、ルーデンスの土地をね。大した距離はないけれど、大きな隔たりはあることだろう。向こうは父が治める由緒ある土地で、こちらは右も左もわからぬ子供が治める小さな荒れた土地だ。魔術隊の少年らは俺に付いてくると言うが、お前たちはセドリックの息子でもある。これからは騎士として、セドリックの跡を継ぐことだってできよう。今後どうするのか、それを決めてほしい」
オットーもドミニクも、ヴィレムにとっては信頼できる相手だ。できることならいつまでも手元に置いておきたい。しかしだからこそ、強引にこのまま引きずり込むわけにもいかなかった。
先に答えを出したのは、いつも弟に引け目を感じていたオットーのほうだ。
「私はもうヴィレム様の竜丁になってしまいましたからね。ドラゴンもこちらに全部連れてきてしまってるんですから、置いていけるはずもないでしょう」
腕の中のドラゴンを撫でながら、彼は言う。
そしてオットーの決意がドミニクの決断を促した。彼は悩んでいたが、ヴィレムの目を見たときには迷いも消えていて、はっきりと答える。
「私は父の跡を継ぎたいと思っています。そしてできることならば、ヴィレム様と治めたあの土地を、今後も守っていきたいと思います」
「そうか。きっといい騎士になることだろう。達者でやれよ」
「はい。ありがとうございます」
ドミニクは頭を下げ、それから少しばかり話をして退室していった。
オットーはドラゴンの子をヴィレムの顔に近づける。仰け反るヴィレムだが、オットーは止まらない。
「な、なにをするんだオットー」
「主人の顔を覚えさせようかと思いまして」
「だからといって、主人にこんな強引に近づける奴がいるか」
「ほら可愛いでしょう。とても可愛いですよね」
半ば無理矢理押し付けたことを今更になって仕返ししようとでも言うのか。
ヴィレムはクレセンシアに救いを求めたが、彼女はそんなヴィレムの様子を見てにこやかに尻尾を振るばかりだった。
ドラゴンの子供は舌を出して、ヴィレムの顔をぺろりと舐める。
どうしていいものかわからないヴィレムは視線を彷徨わせて、それから自身を見ているディートの姿を見つけた。
「取り込み中だったなら、後にするけど……」
「なにを言う。今は臣下の願いを聞いていたところだ。そんな良き主人になにか用かね、ディートくん」
取り澄ましたヴィレムの態度に、ディートはため息を吐いた。本当にこんな主人でよかったのかと。
「身代金を返せば自由だって言ってたけど、その金額を俺は聞いていない。いくらだ?」
「うーん。いくらだ、オットー」
ディートがヴィレムを見て、ヴィレムはオットーを見た。
オットーはペンを取ると、紙にさらさらと数字を描く。
「騎士ならばこんなものでしょうね」
「なるほど。では、これくらいにしよう」
ヴィレムはオットーからペンを取って、先ほどの数字の桁を二つ増やした。
「ふざけるな! 死ぬまで返せない額を吹っかけるなんて!」
「俺は本気だよ。俺がお前を買っていいというのなら、このくらい払おうじゃないか。もちろん、生涯忠誠を誓うという前提があるならね。……それだけの働きを期待しているよ」
ヴィレムは近くの棚から魔剣を手に取って、ディートに放り投げた。
「いいのか、捕虜にこんなもの与えて」
「構わないさ。お前はそれがなかったら使い物にならないしな。ああ、それからお前は今度から騎士に昇格させる。これでお前がなにをしようととやかく言うのは俺だけになるから、願いもかなえやすかろう。感謝するといい」
「……そこまでして、俺になにを望む。お前の目的はなんだ」
ディートはヴィレムを見る。
ヴィレムは司教から取り上げた杖を手に取って、くるくると回した。彼はなにも知らず、ただ偶然、占拠した都市にこれがあったのだと言っていた。しかし、どこか人為的にも感じられる。誰かが意図的に置いたものではないのかと。
ヴィレムが杖を放り投げると、クレセンシアがぱたぱたとやってくるが、それよりも先にドラゴンが飛び付いて遊び始めてしまった。
「聖域を取るのさ」
「本気だったのか、その噂。……そんな夢の跡になにが残っているというんだ」
「魔術師の遺産だよ。文明と言ってもいい。すっかり古びたものだが、あそこにあるものを使えば、新たな薬も作れるだろうし、農作物の生産性を高める肥料も作れよう。ただの夢だけが転がっているわけではないのさ」
ディートは視線を落とし、魔剣を眺めていた。
あとから彼の知り合いに聞いたところによれば、彼が告げた魔剣の名「リーズ」は、彼が住んでいた故郷からつけたものらしい。
数多の同胞の怨嗟の声が突き動かすのだと言っていたが、いつか応援の声になればいい。そんなことをヴィレムは思う。
ディートはゆっくりと顔を上げる。そんなところは少しばかり大人びて見えた。
「ならば俺の夢を預ける。……必ず、成功させてみせろ」
「言われなくても。さあ、これから忙しくなるぞ。さっさと力を使いこなせるようになってこい」
ヴィレムは言いつつ、退室するディートの後姿を見ていた。
そんな彼の隣で、オットーがちょっととぼけた調子で尋ねる。
「ところでヴィレム様、このお菓子、貰ってもいいですかね?」
「だめだ、やらん。これは俺の大切な大切なシアが作ってくれた宝物なのだから。お前はドラゴンの餌でも食っていろ」
ヴィレムがさっとお菓子の皿をオットーから遠ざけると、一方でオットーは嬉しげにドラゴンの頭を撫でる。
「よかったなー。お前、俺と同じ食い物を食わせてくれるらしいぞ。ほら、御主人にお礼を行ってこい」
ドラゴンがバタバタと走って、ヴィレムに飛び付く。
奪われまいとヴィレムがお菓子を口いっぱいに頬張る様を見て、クレセンシアはころころと笑う。
貴族の末っ子と騎士の息子の関係は、領主と従者になっても変わらなかった。
そして、大切な相方との関係も。
ルーデンス魔導伯の名が国中に、世界に広まるのは、そう遠い未来ではなかった。
これにて第六章はお終いです。
一介の騎士から爵位付きの土地を手に入れる成り上がりを果たしました。
今後ともよろしくお願いいたします。




