41 ディートの覚悟
吹き付ける風が強くなる。
風竜翼の魔術が命を奪わんと迫る中、ヴィレムは顔色一つ変えずに魔術を用いた。隣のクレセンシアも不安なんか浮かべない。彼の成功を信じていたから。
幾何模様が浮かび上がった地面がどろりと溶けて液体になり、後ろに続く少年らごと沈めていく。そしてあっと言う間に前面が厚くなり、彼らの姿を覆い隠した。
そして土の壁と風の刃が衝突する。
大きな衝撃はなかった。横を過ぎていく風の強さに対し、あまりにも静かな音が伝わってくる。すっかりやり過ごせば、もう残響が聞こえるばかり。
「二度も同じ手が通用するか。自分が使っている魔術のことすらわかっていないようだな」
塵埃の中から、傷一つないヴィレムが顔を出し、クレセンシアが邪魔な泥を振り払った。
すでに発動してしまった魔術に対して解除の魔術を用いることはできない。魔術自体にはなんらかの物理的な方法で防ぐしかないのだ。
しかし、大規模魔術が広域に甚大な影響を及ぼすのは、たんに出力が大きいから、という理由ではない。それだけならば、小規模魔術の出力を上げればいいだけの話だ。
大規模魔術の特徴は、広域に持続して猛威が続くことにある。
その理由は中間生成物が魔術とともに存在していることが理由だ。たとえ障壁があろうと、そこで減った分のエネルギーがすぐさま中間生成物から供給されるため、威力が減衰することはないのだ。
もちろん、その分魔力の消費は多くなる。しかし、離れた距離にある地域一帯への攻撃における威力の減衰を防ぐという観点では、効率がいいやり方だった。
だが、それは同時に、魔術が発動する前の中間生成物が無防備に曝け出されているということでもある。
解除の魔術を用いて、魔術の中に浮遊する幾何模様を砕いてやれば、もはやエネルギーの供給は停止する。そこらの中規模魔術となんら変わるものではなくなるのだ。
無論、大規模な魔術になればなるほど幾何模様はひどく入り組み、一瞬での判別は難しくなる。そしてそれに対応する解除の魔術も難しいものになり、生成に時間がかかる。
だが、ヴィレムは局所的に――自分に被害が出る可能性がある部分の幾何模様だけを読み取って、解除の魔術を用いた。それがどれほど技術を要することか。
一発目の魔術よりも距離が近く、ほんの僅か彼の見立てが異なっていれば、彼らは全身を血に染めていただろう。危険な賭けとも言える行いだった。
しかし、当の本人はまるで成功を疑っていない。不確定要素が、ヴィレム自身の精神的要因以外には存在していなかったからだ。ならば、失敗する可能性などない。ただ思った通りの行動を起こせばいいだけだ。
「次が来るまでは時間がある。一気に攻め立て、次は放たせるな! 接近すればこちらに分がある!」
ヴィレムが激励すると、少年らも答えるべく飛び出した。
まだ距離がある中、風刃の魔術を放つ。通常ならば、回避される距離だろう。
しかし、市壁の上に並んだ者たちは微動だにしない。躱す気などなかったのかもしれない。
彼らはそもそも戦闘訓練を受けていない。それゆえに、対応すらできないのだ。だから彼らも自らのところに攻撃が来れば死ぬことも、割り切っているのだろう。それでも、信じたもののためにここに上がってきたのだ。
志が同じならば、どれほど心強いものか。そんな詮無きことを思いつつ、ヴィレムも風の刃を放つ。
先ほど少年らが放った魔術はことごとく敵を断ち切っていく。そのたびに浮かび上がる幾何模様の数が減っていき、魔術の完成が遅くなる。
いよいよ、市壁が近づいてくる。三発目はまだ放たれていない。
ヴィレムが市壁の上へと移らんとした瞬間、飛び出してくる影があった。そしてヴィレムの前に降り立つと、すっと剣を突きつけてくる。
剣身は濁りのない純粋な黒で、柄から生じたひも状の物質が手の甲から手首にかけて絡みついている。
たったその一点だけが異質な剣士が、ヴィレムを睨み付けている。
「これが答えだ。俺はお前を倒して、お前が奪ったものを奪い返す」
ディートの目に迷いはない。
ヴィレムはクレセンシアに一瞥をくれる。彼女は頷き、少年らを率いて市壁の上へと向かっていった。そちらは彼女に任せれば大丈夫だ。この戦いに邪魔が入ることはない。
ヴィレムは一人、ディートを見る。
「どうした。たった一人とは舐められたものだ、とか随分な自信だ、とか言わないのか」
「あんたの力は知ってるさ。ここにきても、いまだに思うよ、一人で挑むなんてどうかしているってな。……でも、戦わなきゃ勝てるはずがない。俺は未来を諦めない」
ディートは大きく息を吐く。
引くという選択についてヴィレムは言わなかった。すでに覚悟を決めた顔をしていたから。
「お前の決心はわかったが、遠慮はしないぞ。俺とて目的があるのだから」
すっと剣を抜くと、ヴィレムは幾何模様を走らせる。硬化や斬撃強化の魔術が施されると、剣は眩く輝いた。
安物の剣から変わり果てた凶器をディートへと突きつける。
なんのことはない動作であったが、剣先を見たディートは生唾を飲み込んだ。そして勢いよくヴィレムへと切り掛かる。
初手は腕を狙った小振りな一撃だ。確実に手傷を与えていく策なのだろう。
ヴィレムはさっと剣を空振りさせると、素早く踏み込み剣を振り下ろす。
対して、ディートは引かなかった。そして躱すことも引くこともなく、ヴィレムが振り下ろした剣ごと彼を叩き切らんと、漆黒の剣を振る。
剣と剣がかち合うや否や、ヴィレムは飛び退いた。
音もなく、剣身が半ばで断たれていたのだ。
「驚いたな、魔剣か。いやはや、それっぽいとは思っていたが、まさかこの時代に残っているとは……。どこで手に入れた?」
「俺を倒して奪ってから、調べりゃいいだろう。俺はなにも知らねえ」
「お前が知らぬということは、司教のほうか」
ディートは答えない。曲がりなりにもあの男の下で働いている自覚があったのだろう。幼き忠誠心にヴィレムは感心する。そして彼の返事を肯定と見て、あとで直接聞こうと思うのだった。この勝負に負けるつもりなんかなかったから。
ヴィレムが折れた剣を投げ捨て、魔術を使わんとすると同時、ディートが飛び込んでくる。
接近戦ならば、相手に分がある。
どうやらあの魔剣は解除の魔術によく似た幾何模様を破壊する能力が備わっているらしく、切れ味もナマクラの比ではないため、剣を持たないヴィレムはろくに打ち合うことすらできない。
土の魔術により地面から剣を作り上げることは造作もないが、それこそ完全に魔術で維持しているため、非常に相性が悪い。
そうした能力を持つ魔術師殺しの魔剣であるが、同時に当代では神の奇跡の破壊と取られかねない。そんな神魔教の教義に反するものを、司教が大事にしていたとも考えにくい。
そんな呑気な考えを断ち切るディートの一撃を躱すと同時に、ヴィレムは風刃の魔術を放つ。
至近距離から放たれた躱せぬ一撃に、ディートは剣を振ることで応えた。
剣は幾何模様を打ち砕くも、すでに生じてしまった風の刃まで掻き消すことはできず、ディートの鎧ごと、胴体を浅く薙いでいく。
そして距離を詰めたディートが剣を振り上げる。あまりにも大きな動作で、見切ってくれと言わんばかりだ。
彼は怒号とともに叫ぶ。
「この怨嗟を糧に嘆け! 風の魔剣、リーズ!」
漆黒の剣が膨れ上がり、吹き抜ける風の音が奏でられる。それは一瞬の間に高まっていき、物寂しげな音が吹き荒れる。彼の剣は一気に黒い風を纏い、巨大な形を作り上げていた。
ヴィレムが距離を取り、ディートが剣を振り下ろす。
魔剣から放たれた斬撃は風の刃となり、空気を裂き大地を割りながら、ヴィレムへと襲い掛かった。