40 ルーデンス領主都
ディート・エデラーは額に汗を浮かべていた。ルーデンス領の主都に戻る最中である。
すでに戦いの余韻はなくなっていたが、底冷えする恐怖がびっしりと背中に張り付いていた。今も振り返ればそこにあるのではないかと思われる、死。形がないというのに、目で見えるものよりもはっきりと感じられる。
彼は逃げ切れたのではない。逃がされたのだ。
自身の生死すらも自由にさせてもらえない圧倒的な強さを前にして、なにもできやしなかった。
ただ強いだけならまだよかった。あの魔術師には、普通の者が抱く躊躇というものがなかった。
多くの人々は、常識に囚われ、そこから外れた行いをするときには少なからず戸惑いを覚える。そして一瞬の遅れが生じるはずだった。だが、あの男は必要とあらば、神だってまばたきの間に殺すだろう。
「……化け物め」
震える声で精いっぱいの罵倒を飛ばすと、聞かれていないかと怯える自分が嫌になった。
ディートがヴィレム・シャレットに会ったのはたった一度だ。三年前、平民が成り上がるために学園へと通うことを望んだ父からなけなしの金を貰って主都にやってきたとき、たまたま出会ったのである。
貴族の子弟というだけで偉ぶる連中に馬鹿にされても、それこそが希望への道だと信じて黙っていた。
それゆえにされるがままに魔導鎧へと押し付けられ、あのような事件を起こすことになった。
しかし、今ではそれでよかったと思っている。
魔導鎧に操られたことで、魔術の使用方法がはっきりとわかったのだ。もちろん、あのとき使われたのは身体強化の魔術くらいだから、今でもそれ以外の魔術はほとんど使えない。
だが、おかげで魔物を倒す力が手に入った。騎士にだって負けない力が使えるようになった。
けれど世は彼に優しくなく、いつしか父も母も病に蛮行に倒れていった。あのときの言葉が彼を駆り立て、未来を掴むために、略奪を繰り返す兵を切り殺した。捕まりそうになることだってあったが、しばらくすればまた支配者は変わって、誰も彼のことを気に止めなくなる。
ずっとそんなことを繰り返しているうちに、農民の乱が起こった。騎士でも貴族でもない者が頭になれば、なにか変わるかもしれない。
そんな一縷の期待を胸に戦いへと赴いたディートであったが、それでなにかが変わったとは思えなくなる。
農民は自分がやられた鬱憤を晴らすように略奪を働いたし、指揮していた司教も止めはしなかった。結局、立場が変われば、振る舞いも変わるのだろう。騎士がいなくなれば、誰かが騎士になる。貴族がいなくなれば、誰かが貴族になる。誰も手を差し伸べやしない。
だからいずれはこの身も自身が切り殺した騎士のように、誰かが首を取っていくものだとしか感じられなくなった。
それでも――。
ディートは拳を握る。貴族には負けたくなかった。奪われるのはもうこりごりだった。
呼吸を落ち着かせ、再び奴の姿を思い浮かべる。
三年前は才能の片鱗を見せていたとはいえ、あそこまで異質な存在ではなかったはず。
立場が人を変えていくのだとすれば、彼は一体、なにになろうとしているのか。
そこまで考えて、ディートは考えを打ち切った。たとえどのような事情があろうとも、倒すべき相手には違いない。
そうして顔を上げたときには、すでに主都が見えていた。
門番に合図することもなく中へと飛び込むと、逃げ込むように居館へと戻った。
農民らが彼の姿を見て慌てるも、ディートは気にすることなく一室へと赴く。扉を開けると、そこには佇んでいる司教の姿がある。
「……どういうことだ。あんなのが来るなんて聞いていない! 上手くいくと言ってたのは嘘だったのか!」
「ディート。落ち着きなさい。人の上に立つ者がそのような有様ではいけません。衣服も泥まみれになっており、人が見ればどう思うか」
「うるせえ、そんなことはいい。あれをどうやって倒すんだ。なにかあるんだろう?」
食って掛かる勢いのディートに、司教はまったく顔色を変えなかった。
が、そんなディートから仔細を聞くと、緊張した面持ちになる。彼にとっても予想外だったのだ。
司教はしばし悩んでいたが、近くの棚から真っ黒な塊を取り出した。
それをディートへと投げ渡す。
「本来、神への冒涜とも言える行いですが、あなたは教徒ではありませんから、今回は黙認することにしましょう。魔術師を打ち倒しなさい」
「これは……」
ディートは手の中の重みを実感する。
吹き付ける風の音を聞きながら、彼はヴィレムの姿を思い浮かべた。
◇
ルーデンス領の主都が見えてきた。
ヴィレムは魔術師たちに警戒するように告げ、自身は風読みの魔術を発動させる。先ほど攻めたばかりなのだから、よもやここに来ているとは思ってはいまい。
浮足立っているならば、すぐさま攻め込んでしまえばいい。そのほうがこちらとしてはやりやすかろう。
そんなヴィレムの思惑は、見事に裏切られることになった。
すでに市壁の上部に控えている男たちの頭上には、幾重にも絡み合った幾何模様が浮かび上がっていた。
準備は万全、なんてものではない。すでにこちらが来ることを想定し、迎撃の準備すら整っている。
「散開しろ! 魔術が来る!」
ヴィレムが告げ少年らが一斉に四散し始めると同時、迫ってくる風の刃が見えた。無数の幾何模様が幾重にも重なり合いながら作り上げた風の刃は、付近の空気を巻き込んで大きさを増していき、舞い上がった草の葉を切り刻みながらなおも速度を上げていく。
咄嗟にヴィレムは地面を踏みつけて土の魔術を発動して盾となし、さらにいくつもの解除の魔術を込めた幾何模様を放った。
クレセンシアとともに陰に潜むと、二人で丸くなって身を寄せる。クレセンシアをぎゅっと抱き寄せると、彼女が尻尾をくるりと巻いて、クッションの役割を果たすべく壁との間においた。
そして一瞬の後、衝撃がやってきた。横を通り過ぎていく風の勢いだけで吹き飛ばされそうになる。
暴威が過ぎ去ると、ヴィレムは改めて付近の様子を確かめる。
木々は薙ぎ倒され、土は鋭い爪痕を残していた。そして泥と血にまみれた少年らの姿があった。
彼らは魔術の基礎を押さえているとはいえ、瞬時に相手の魔術を読み対策を取らねばならない解除の魔術まで使うことはできなかった。
予測でもしない限り必ず後手に回るその魔術は、卓越した魔術師でも確実性に欠けるため、躊躇することも少なくない。それゆえにヴィレムですら、上手く機能しなかったときのために土の魔術で壁を作っておいたのだ。
それゆえに、少年らの頼りになるのは物理的な壁のみ。
「お前ら、無事か!」
「こちらはなんとか動けます!」
「回復に時間がかかりますが、死者はいません!」
次々と上がる報告によれば、大勢が怪我を負ったようだが、半数は軽傷で死人もいないとのことだ。
先ほど敵が用いたのは、風の大規模魔術「風竜翼」だ。かつて存在した空飛ぶ竜の王、風竜が過ぎ去った後の光景によく似ていたことから付いた名前だ。
幾何模様を見るに、レムの時代の魔術とよく似通っている。しかし、魔力が少なかったのか、威力はそれに劣っていた。
なぜ古い魔術を用いる者がいるのかは不明だが、あの熟練度では、そうそう何発も連続して放てそうにない。
ならば、その間に一気に攻めてしまえばいい。魔術師の隊を回復と進攻に分けると、ヴィレムは一気に飛び出し、、風刃の魔術を発動させる。こちらの居場所はすでに割れているのだ。もはや潜んでいる必要はなかった。
風刃は狙い通りに進んでいき、ヴィレムのほうを眺めていた市壁の上に立つ男の胴体を両断した。
相手は烏合の衆。同胞の死を見れば少なからず動揺し、集団に広がっていくはずだ。
そう踏んだヴィレムであったが、数名の男が倒れた血の海に、別の男たちがやってきた。彼らは一瞬、死体に祈りを捧げたが、もうあとは見向きもしない。
ただの農民ではなく、狂信者にほど近い者たちであったのだろう。目的のためならば、神のためならば命すら厭わない。
ヴィレムはその姿に眉を顰めつつも、周囲の少年らに指示を出して風刃による攻撃を放っていく。
敵は防御に徹することはなかった。その代わりに、ずらりと並んだ彼らの身体からいくつもの幾何模様を浮かべていく。一人、二人と倒れていっても、彼らの態度は変わることがなかった。
それら魔術の源は、頭上に寄り集まると、一つの魔術を練り上げていく。幾何模様をいくつにもわけて、後ほど組み合わせる術はよく使われる。それにより、どのような魔術を使おうとしているのかわかりにくくなるからだ。
しかし、複数人で一つの魔術を使うことは滅多になかった。まして熟練の魔術師でもない者が、協調して行動を行えるはずがない。
ならば、なんらかの方法で全ての狂信者を燃料にして、魔術を発動させている者がいるはずだ。その者は、ややもするとこの都市すべての民を犠牲にするかもしれない。
「やつらはもう次が撃てるらしい! これならばどこに隠れても、乱射されれば意味がない。全員俺に続け! 敵を討ち取る!」
ヴィレムは駆け出し、少年らがあとに続く。
接近してしまえば、あの攻撃は放てないだろう。どこにいても同じことなら、こちらから近づいてしまったほうがいい。
次第に敵の魔術が完成に近づいていく。
ヴィレムには続く少年ら全員の命がかかっていた。けれど震えることもなければ、失敗に怯えることもなかった。その責任の重みを実感していないわけではない。彼らの命を軽視しているわけではない。
それでも、彼には一つの思いがある。彼らの命を預かっている自分が、大勢の未来を委ねられた自分だからこそやらねばならない。
反省することと躊躇することは異なる。
やるべき行いが見えているなら、そのときが来たのなら、ただそれを信じて力を振るうのみ。
敵が二度目の風竜翼の魔術を放つ。
猛烈な勢いで迫ってくる脅威を前にして、ヴィレムは強く地面を踏み込んだ。




