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37 動乱のルーデンス領

 まだ朝日の昇らない早朝、ある居館のほんのりと薄暗い一室に、二人の男が佇んでいた。しとしと降りしきる雨だけが、物寂しげに声を上げていた。


 一人は老齢に差し掛かった、黒のローブの男だ。この大陸ではもっとも多く見られる魔術師の姿であった。


 これを正装としているのは、魔術を神の奇跡として信仰している宗教で神魔教と呼ばれている。彼らはありとある魔術の研究を禁止し、あらゆる理論を神の奇跡の名のもとに封じ込めた。それゆえに神魔教が有力となったこの千年の間に魔術の知識は失われ、大幅に衰退した現状がある。


 けれど、人々はそのような事実に気が付かない。いや、人々はごく一部を除き、自ら考えようとはしなかった。そのほうがなによりも楽であり、そして自身にも責任がなくなるのだから。


 そうして長らく続いた神魔教の司教は、皆が皆魔術師でなければならないと規定されているが、その力はいかほどのものか。


 もしレムの時代の魔術師がこの世に存在すれば、魔術などというのもおこがましい子供だましであったと言うだろう。


 その司教、ゆっくりと視線をもう一人の男に移す。

 まだ少年と言っていい幼さであり、大雑把に切られた髪やボロ布と言っても差し支えないほど薄汚れた外套を纏った姿からは、このような屋敷に相応しい気品はまったく見られなかった。どこかの野犬すら思わせる鋭い目つきは、やさぐれていると見える。


 彼は腰に差した二つの短刀以外、なにも身に付けてはいなかった。


 司教が彼のところへと一歩踏み出すと、少年は野生の獣を思わせる仕草で警戒を強める。


「ディートよ。我らがこうしてこの場にいられるのも、すべては神のおぼしめしである。そうは思わないか」


 抑揚のない声で伝える司教に対し、ディートと呼ばれた少年は顔も上げずに返した。その声は幼さゆえにまだ高い。


「いいや。俺たちがここにいるのは、俺たちが武器を手に取り、戦い抜いたからだ。そしてあいつらを追い払ったから、ここにいる。俺たちが俺たちの力で取り戻したんだ、この土地を!」


 その答えに司教は嫌な顔をしつつ、僅かに距離を取った。


「いけませんね、あなたは。人の上に立つということは、導かねばならないということです。人が気に入るような振る舞いをしなければならない。人が付いていこうと思う仕草を身に付けなければならない。そうして大勢の人を操るのが我々に課せられた使命なのです。そうしなければ、人は好き勝手に動き、バラバラな無秩序な状態となってしまう。だから、我々には力が与えられたのです。魔術という、誰もが目を疑うほどの奇跡を」


 ディートは男のほうを見ることもしなかった。代わりに視線を窓の外に向ける。

 そこには人々の小さな営みが見える。人々が身の丈に合った、精一杯の幸福を掴もうともがく様が見える。その中には、自身が壊してしまった幸せがあることも、ディートは理解していた。


 今やこの都市は、農奴であった者や、貧しい者たちが勝手に占拠した状態になっている。戦力の差があるとはいえ騎士の寝こみを襲って、偶然都市を落とせたことに端を発したこの状況は、その後も次々と快勝を収めてきたことによる。


 だが、それまでに幾度も卑劣と言われるような行為も行った。虐げられる存在であった農民が蛮行に及ぶさまも見てきた。糧食の確保のために、戦いの後は略奪だって見て見ぬふりをした。


 そうして得たこの地位が、どれほどの意味を持つのだろう。いつまで意味を持ち続けるのだろう。

 ディートは窓の外から視線を外すことができなくなった。


 が、慌ただしい足音が消えてくると、そちらに鋭い目を向ける。もはや先ほどまで僅かに残っていた子供らしさは消え、血の匂いさえ漂わせている。


「司教様! 南の騎士が恭順を拒み、兵を挙げる準備を始めた模様です! いかがなさいますか!」


 駆け込んできた男もまた、みすぼらしい身なりであった。彼はついこの前まで農具を握っていた手で剣の鞘を強く握り、応戦すべきであると主張する。


 目上の者のいる部屋で取るべき態度ではないが、礼も知らぬ彼に、いや、彼らに、そんなことを教え諭す者もいなかった。


 司教は無表情でディートに意味ありげな視線をくれる。

 少年はすっくと立ち上がった。


「ディート。わかっていますね。ただ勝つだけではいけません。勝って、そして土地を奪うのではなく、自ら差し出させるのです」

「俺には俺のやり方がある。あんたにはわかんないだろうけど、戦いはなにがあるかわからないし、悠長なことを言っていられる時間はない。気に食わないのであれば、あんたが剣を取ればいい」


 ディートの言い方に司教は眉を顰めたが、やがて嘆息した。続く言葉がないことを確認すると、ディートは部屋を出る。


 あれほど腐心してようやく手に入れた環境は、こんなにも居心地が悪かった。手に残るどろりとした鮮血の感覚が、今も戦場にいる錯覚さえ抱かせる。


 ままならない現状に苛立ちを覚えながら、古びた皮鎧を見に着け、ディートは屋敷を出た。



    ◇



 ヴィレム・シャレットはルーデンス領南の都市にやってきていた。かつてここで強盗騎士の引き渡しを行ったこともあり、二度目の訪問となっていたが、今回は状況が違っている。


 今現在、この都市は彼の所有する土地となっていた。

 ルーデンス領内の動乱に感化された民が反乱を起こし、ろくに兵を鍛えず贅沢ばかりをしていた騎士はひどく呆気なく、屋敷への侵入を許してしまったのだ。


 兵と言っても、農民と比べればはるかに数は少ない。それゆえに、市民が本気で抵抗して屋敷を取り囲むことは珍しくはなかった。


 しかし、その先が問題であった。ここで通常ならば騎士は要求を呑み、税の引き下げなどを行うのだが、騎士は渋り、一方強気であった農民は弱気になった兵を打ち倒し、そのまま居館を奪ってしまったのだ。


 もはや無法地帯となったそこへ到着したヴィレムはごくあっさりと、都市を乗っ取ることに成功したのである。


 となれば市民からの反発が強いかと思いきや、ヴィレムが敵愾心を向けられることもなかった。その理由はシャレット領は歴史ある領地であり、ここルーデンス領の領民はなにかと比較の対象にしてきた。


 ルーデンスでは豚のえさを投げれば乞食が食らいつくが、シャレットでは豚が人の餌を食っている、などといわれる有様だ。


 これはシャレット領がとりわけ優れた政治体制であったということを示しているのではなく、シャレット領の家畜の餌すらルーデンス領では与えられないという事情を皮肉めいて言ったものだ。


 それゆえにこのままシャレット領になってしまったほうが、よほどましなのではないか、そんな期待すら抱いている者もいた。それに、ヴィレムが治めている土地の噂も影響していたのだろう。


 ヴィレムもてきぱきと戦後の処理を行っていく。そもそも農民は税の引き下げを目的として乱を起こしたのであり、それを認めてやれば文句が出ることもなかった。これは土地の収益が低いわけではなく、賦役や重税が重なっていたため、ヴィレムにとっては通常の状態に戻しただけ、という認識が強い。


 彼にとって収益を上げる術と言えば、税率を変えるなど、すでにあるものの取り分を変えるような細々とした変化ではなく、技術的な革新をもたらすことで丸ごと変えてしまうようなものだったから、余所の民からすればひどく無欲に見えることかもしれない。


 もちろん、それだけでは上手くいかないことをヴィレムは知っている。大きな変化には大きな代償も付き纏うのだから。


 ともかく、そうしたわけでヴィレムは都市をまず一つ手に入れていた。ほかの誰のものでもない、ヴィレム・シャレットが所有する土地を。


 そのヴィレム、居館の中を見て回っていたが、倉庫に到着するなり辟易していた。


「食料の備蓄がほとんどないな。その割に、嗜好品がとにかく多い。いったい、この都市のどこにこんなものを買える金持ちがいるんだろうか。俺とてこんな高そうなワイン、飲んだことはないというのに」


 そもそもヴィレムはワインの良し悪しなどよくわかっていないくらいだ。そんな彼の隣にいたクレセンシアは、尻尾を振りながら答える。


「ではこの都市はさぞ、裕福なのでしょう。やりましたね、ヴィレム様!」

「この都市が裕福だとするなら、人は草の根を食っているのが一番の幸せってことになるね」

「食べてみますか?」

「都市にあるのは、家畜の糞で汚染されているから、口にしてはいけないよ。疫病の原因にもなるだろうから、対策がいるね。それから……」


 と、ヴィレムはクレセンシアの冗談にも真面目に返していた。そんな姿に彼女は、


「ヴィレム様は随分と騎士らしくなりましたね」


 なんて返すのだった。どこにいても、二人でいるときの調子は変わらない。

 ヴィレムは簡素な鎧を軽く叩いてみせると、馴染んだ音が響いた。


 この土地はシャレット領とは違う。そのことを念頭に置きながら、ヴィレムは今後の予定を立てるのだった。


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