30 交わした約束を
立ちはだかるは、巨人であった。
クレセンシア・リーヴェは迫ってくる巨人を前にしていた。
ヴィレムが顔割れ族を襲撃しに行ってからしばらく何事もなかったのだが、先ほど地響きが起きた。そしていつのまにか、森の中から巨躯が現れたのだ。
どのようにしてあれほど大きなものを隠していたのかはわからないが、なんであれ、放置しておくわけにはいかない。都市を守るのが、ヴィレムと交わした約束なのだから。
クレセンシアは少年らを上手く使い、なんとか足止めをしてきた。が、それも時間の問題である。巨人の動きは速くないが、耐久性と再生力に優れており、このままではこちらの魔力が尽きるほうが早いのだ。
クレセンシアが跳躍すると、先ほどまで彼女がいた地面を大きな拳が叩いた。衝撃で地が揺れる中、彼女は巨人の腕を伝って駆けあがり、一気に顔面目がけて炎を放った。
業火が顔を焼く中、クレセンシアはぱっと飛び下りて着地。見上げてみれば、巨人は顔を数度撫でているところだった。
火は消え、顔には焼けただれた跡が残る。だが、これでは致命傷を与えることなどできそうもない。
「その程度か。ならば踏み潰してくれよう。貴様らに受け続けた屈辱を、今ここで返してやろう!」
巨人が足を振り下ろすと、クレセンシアは防ぎ切れないと見て、咄嗟に駆け出す。そして尻尾を丸めて勢いよく飛び込むと、すぐ後ろで衝撃が起きる。
ぎりぎりのところで躱すことができたが、これではいつまで持つかわからない。
「あなたは私が倒します。この炎がそれを証明してみせます!」
炎の魔術「炎弾」を何度も何度も放つが、目立った外傷はやはりできなかった。クレセンシアは出力を強めて、いつまでも体表に炎が残るよう仕向ける。だが、長く焼いたところで重傷には至らなかった。
内心の焦りを押し隠すように激しく尻尾を立てたクレセンシアは何度も何度も魔術を放つ。
得意の「狐火」を生かした戦い方は奴に通用しない。なにしろ、吸熱の魔術を使ってこないのだから。ただ身体能力だけで耐えきっている以上、幻の炎は意味をなさない。
ままならない戦いに、彼女は額に汗を浮かべる。いつもは相手が熱さにそうなるというのに。
やがて巨人はこれ以上の戦いをするのも無駄と見たのか、一歩を踏み出した。かなりの大きさゆえに、それだけで都市に大きく近づく。
その周りには黄金色の畑が、彼との思い出が広がっていた。
守らねばならない。
クレセンシアは覚悟を決め、大量の幾何模様を浮かべ始める。中規模の魔術は発動まで時間がかかる。それを見越して踏み潰さんと巨人が迫った。
次の瞬間、少年らが一気に飛び出した。ある者は縄を引っかけて巨人の足を止め、ある者は力の魔術で押し倒さんとする。
ほんの一瞬だった。巨人は彼らを振り払うと、再び移動を開始する。
だが、そのときにはすでに巨人の自由は奪われていた。
巨人を取り巻くようにぐるぐると巡回する風の壁が生じていた。手を伸ばすも、勢いよく弾かれる。指先は切り取られて、血が流れ出していた。これまでの魔術とは威力が違う。
風の中規模魔術「風牢獄」は、積極的な攻撃に向かない反面、封じ込めるための性能に特化していた。触れれば切り裂かれるだけでなく弾かれる、風の牢獄だ。
眼下にいる少女に視線を落とすと、思い切り拳を打ち付けんとする。クレセンシアを倒せば、この魔術も解かれるはずだから。
が、彼女はさっと風牢獄の中に身を翻すと、その勢いに乗って背後へと回り込む。自分自身の魔術だ、上手く制御すれば無傷で扱うことができる。そして炎弾による攻撃を加えていった。
風の中を舞い、飛び出すたびに巨人を焼いていく。
荒れ狂う風に苛立ちを隠せぬ巨人は、全力でクレセンシア目がけて拳を放った。が、命中することはなく、風牢獄を突き破った腕は、風に切り刻まれて血を撒き散らし、さらには風の勢いで引っ張られて巨人を回転させていく。
慌てて腕を引き戻した巨人は、無駄に動くのを止めた。
クレセンシアの攻撃はどれも致命傷にはならない。そしてなにより、放っておけば、魔力が尽きてこの結界は破れてしまう。
巨人は炎による攻撃に耐えることに専念し始める。
胴体を焼かれれば、そこを連続して攻められないように押さえ、毛髪に燃え移れば押さえて掻き消す。
何度も何度もそうしていた巨人であったが、顔面に数発の炎を食らうと、苦しげに顔を押さえようとした。
だが、腕が上手く動かない。なんとか顔を押さえて火を消したときには、既に膝から頽れていた。
横たわり痙攣し始めると、もう反撃することはなくなる。
クレセンシアはその様子を見ながら、巨人の口を槍でこじ開けると、内へと炎弾を撃ち込んだ。体内を焼かれた巨人はもはや無抵抗だった。
しばらく魔術を続けていたクレセンシアだったが、巨人の肉体が小さくなっていくと、風牢獄を解除した。
空中から降り立ったクレセンシアは、一つ息を吐いた。
巨人に宣言した通り、倒したのは炎弾による影響だ。風牢獄により空気を操り、外からの流入を防いでいたのだ。そうすることにより、不完全燃焼で生じた毒ガスに巨人は耐え切れなくなったのである。
男の遺骸を見ながら、クレセンシアは風読みの魔術を発動させた。
付近をぐるりと確かめ、さらに市内の様子を探る。この巨人が囮ですでに都市が陥落していたわけではなさそうだ。
すっかり安堵しきった顔を見せる少年らに、気を引き締めるよう告げると、クレセンシアは再び警戒に当たる。
狐耳を動かしながら周囲の音を探り、焼け焦げた匂いのほかになにかないかと鼻を利かせる。そうして常に気を付けながらも、尻尾は左右にゆっくりと揺れている。
敵を倒してリラックスしているのもあるが、ヴィレムとの約束を守れたのが大きい。このことを告げたら褒めてくれるだろうか。そんなことを思って嬉しくなるクレセンシアだった。
◇
ほんのりと漂ってくる焦げた匂いと収まった振動。
それらを確認して、ヴィレムは口元を緩めた。クレセンシアがやったに違いないと。
そんな彼は、地面を転がりながら風刃の魔術を放った。
風の刃はローブの男へと向かっていくが、途中で飛び出してきた獣に阻まれる。いや、それは獣となった顔割れ族の女であった。
禁術を用いていたのはあの男たちだけではなかったのだろう。彼らはたまたまうまくいったケースらしく、この女たちは理性を失っていた。
今ここにいるのは、ヴィレムを敵として認識している者たちだけ。それ以外の者は、あのローブの男が自ら手にかけていた。どれもさほど強くはないのだが、とにかく数が多い。
実に気分が悪くなる状況に、ヴィレムは舌打ちする。
しかし、そんなことに気を取られている暇はない。
近づいてきた獣を蹴飛ばし、一気にローブの男へと接近する。そして横薙ぎに剣を振るった。
衣服が切り裂かれ、肌が露出する。そこに見えたのは、一文字に傷がついた緑色の鱗であった。
男は突き飛ばされて転がり、木々にぶち当たって倒れ込む。起き上がるまで時間があるからとヴィレムが攻め込まんとすれば、獣が立ちはだかった。
やけに小さいことから、あの集落にいた子供であったことが窺える。
ヴィレムは追撃を止め、邪魔な相手を切り裂く。相手がなんであれ、歯向かってくるなら倒さねばならない。感傷的になって足を止めれば、食らいつかれてしまうのだから。
そうしているうちに男は立ち上がり、土から幾本もの刃を生み出して放ってくる。ヴィレムが木陰に隠れると、少年らが交代で風刃を放つが、男にはいまいち効果がない。
風刃はおろか、斬撃強化の魔術により剣は力を与えられているにも関わらず、断つことができなかった。そして動きを見るに、そこまで重さもないようだ。
おそらく、あれは竜の鱗だ。魔物の中でもかなり頑丈な部類に入るため、力の一端であれど、かなりの脅威になる。
ならば、強力な一撃で仕留めるしかあるまい。
ヴィレムは少年らに合図を出した。




