29 蟻地獄
風刃から身を守るため身をかがめている男たちの姿が変わり始めた。肉体が膨れ上がり、耐えきれなくなった衣服が破ける。
魔物と化していき獣皮が現れるも、刃を弾くことはできずに突き刺さると、一気に血が噴き出す。
次第に大きさを増していく男たちを木陰から見て、ヴィレムはすぐさま方針を変更した。生かして捕らえるなんて悠長なことをしている暇がなくなったのだ。
土の中規模魔術「蟻地獄」の出力を上げると、男たちの膝の高さまで絡みついていた泥が一気に固形化し、圧を高めていく。
軋む音とともに骨が砕け、血液が下腿から押し出され、大腿が赤く膨らんでいく。そしていよいよ圧に耐え切れなくなった膝が折れ、溜め込まれていた血が勢いよく噴き出した。
両足を失った男たちはその場に倒れ込むや否や、すぐさま足の状態を確認する。すでに押し潰されて感覚はなくなっていた。
そこにあるのは、もはや使い物にならなくなった、ぐちゃぐちゃに潰れた肉の残骸だ。
再生の魔術を用いて時間をかければ、まだ繋げることは可能かもしれない。一縷の望みを託して蟻地獄から抜け出さんとした男たちは、急に抵抗を失って体ごと投げ出された。
振り返ると、膝から下がなくなっている。飛来した風の刃が剥き出しになった関節を両断していた。
上がる獣の咆哮が森を震えさせる。だが、もうそうなっては戦いの役には立たない。動けぬ獣など、敵ではなかった。
だが一方、とりわけ大きな獣に変化した一人の男は力尽くで泥の中から這い上がり、距離を取っていた。幾何模様のない地面にしかと立つと、少年たちをねめつける。
鋭い牙を剥き出しにし、爪を地面に立てる。相貌は虎にそっくりであるが、二足歩行の人間らしい体型はまだ残っている。
全身の毛を逆立てる彼の付近には呻く同胞が横たわるばかり。さぞ悔恨の念に駆られたことだろう。
彼らを眺めていた獰猛な瞳がぎょろりと剥き出しになってヴィレムを捉える。
こうなっては隠れている意味もない。ヴィレムは風刃の魔術を用いて、苦しむ男たちに止めを刺した。
ぴたりと場が静まる。荒ぶる獣の呼吸音がやけに大きく聞こえた。
敵が動き出すと同時に、ヴィレムは剣を抜いた。言葉にならぬ絶叫にも似た怒号を浴びせられながら、彼は魔術を剣に走らせる。
幾何模様の浮かび上がった剣は錬金の魔術で材質を変えられ、硬化の魔術で鋼よりも強き剣と化す。
左右から風の刃が飛び交う中、虎男はヴィレムただ一人目がけて突き進んでくる。
鋭い爪が彼の首目がけて振り下ろされると、ヴィレムは素早く敵の懐へと入り込み、剣を振るう。
敵の体躯は大きく、ヴィレムは小さなほうだ。それゆえに体格の差が上手く働き、掻い潜るようにヴィレムは横を通り過ぎていく。
同時に、男の足から一文字に血が噴き出す。相手が痛みに呻く間もなく、ヴィレムは剣を切り上げた。
剣は深々と傷跡を残す。幾何模様が激しく輝いていた。
切断時に加わる力を増幅する魔術「斬撃強化」により、矮躯から繰り出される一撃は、大男の全力すらも上回る破壊力を持っていた。
敵が腕をぶん回すなり、ヴィレムはさっと後退する。
そうして距離が開くと、一旦仕切り直しとなる。敵はすでに全身に傷を負っており、放っておけば失血死に至るだろう。だから、積極的に攻めてくるはず。
ヴィレムはそう判断して剣を構えると、呼吸を整え気持ちを落ち着かせる。
敵を見たまま、風読みの魔術を発動させた。もはや魔術の使用や現在地が見つかろうとも、なにも問題はない。
付近の音をすべて拾っていく。草木が揺れる音、獣が驚き上げる悲鳴、村落で女子供が歯を打ち合わせる小さな震え。離れていく者の気配はない。
なにもかもを統合的に判断して、ヴィレムは警戒を強める。
少年らが風刃の魔術を放つと同時、虎の男が地面に爪を立てた。削り出した土はすべて刃に変わり、付近の空間を埋め尽くす。
「隠れろ!」
ヴィレムの声に従って少年らが木陰に潜むも、数人が間に合わずに刃の餌食となる。鋭い刃は体内を通り抜けて向こうへと飛び出していった。
彼は風壁により刃を弾き飛ばしていたが、少年らには魔術の発動をそこまで素早く行える技術はなかった。
「お前らは治療と警戒に専念しろ。俺がやる!」
彼らとて再生の魔術は使える者がいる。命令に従って、彼らは援護を止めて周囲の警戒に専念し始める。
誰一人助けにはこないこの状況のほうが、ヴィレムにとってはやりやすい状況になるのだ。
黙っていれば相手は弱り続ける一方だ。そしてミスさえしなければ、たった一撃すら食らわずに倒すことだってできよう。
できるだけ魔力を消費しないように抑えつつも、失敗には繋がらないように最善の注意を払う。
虎男が全身に幾何模様を浮かべながら飛び込んでくる。身体強化の魔術に全力を注ぎこんでいるようだ。傷を負ってなお、速さが増していた。
虎男が迫ってくるなりヴィレムは地面を蹴り上げると、土が舞い上がる。そんなものなど気にせずに突っ込んできた相手は、牙を剥き出しにして狙いを付けてくる。
そして、いよいよ飛び込まんとした瞬間、ヴィレムは小さくバックステップを取り、剣を振り上げた。男の頭はヴィレムの眼前を通り過ぎて、地面へと向かっていく。彼の足に浮かんでいた幾何模様が消えており、代わりに土が模様を浮かべていた。
虎の毛で覆われた後頭部目がけて剣が吸い込まれていく。
そして鋭い一閃。
虎の頭が割れると、勝利が決まった。
ヴィレムは勝鬨も上げずに、魔物から人へと戻っていく姿を眺めていた。
奴は最後の最後で警戒を怠った。些末なものだと見逃した土には解除の魔術が込められており、それにより身体強化の魔術が部分的に解除され、バランスを欠いたのだ。
回避するなり、もう一度使用し直すなり、やり方はあったはずだ。知らなかったのか、それとも怒りに忘れていたのかは定かではない。だが、なんにせよそれが命を奪うことになった。
つまらないミスが最期へとつながる。ヴィレムは地面を数度蹴りつける。あのときのレムが抱いた嫌なイメージを払拭するように。
そんな彼が男の肉体に近づいた瞬間、強力な爆発が起きた。
発生源は死んだはずの男だ。至近距離からの爆風には様々な破片が含まれており、吸熱の魔術だけでは防ぎようがなかった。
「ヴィレム様!」
彼の姿は炎に包まれると、少年らが声を上げた。轟音に掻き消される声は届きはしない。
燃え盛る炎の中、代わりに上がったのは哄笑だ。高笑いが発生して、現れたのは濃紫のローブを纏った男だ。つかつかと炎に歩み寄るや否や、幾何模様を浮かべ始める。それらの模様は幾重にも絡み合い、複雑な形を作り上げていく。
炎が鎮火していく中、少年らは足を止めていた。
中規模以上の魔法が放たれるとなれば、解除するか逃げるしかない。しかし、解除するだけの知識も技術も彼らにはなかった。ならば逃げるしか選択は残されていない。
だというのに、逃げろと命令を出してくれる者はすでにいない。彼らにとって初めての不慮の事態ゆえに咄嗟の対応ができないのも仕方がないことかもしれない。こればかりは経験しなければ、身に付かないものだった。
が、ローブの男は咄嗟に魔術の発動を中止して飛び退いた。
彼の足元が液状化して、ローブの裾に纏わりついていたのだ。素早く風の刃で切り落として拘束を逃れた男であったが、今度は背後が急に膨れ上がった。
そこから飛び出したのは、ヴィレムその人だ。
無数の風の刃が放たれ、男に襲い掛かる。体を捻って回避されるも、いくつかは胴体を掠めていった。さらにヴィレムは剣を投擲。
鋭い切っ先は男の肩を貫いていく。濃紫のローブが赤くなった。
「き、貴様!」
「魔術師たるもの、油断してはならない。常に相手の行動の数手先を読み、予測して戦う。それが魔術師の矜恃でげほっ、おえっ!」
ヴィレムは口中から喉へと入った泥を吐き出した。
地面を蹴ったときに予め起動しておいた蟻地獄の魔術により土中に潜り込んで回避したはいいが、全身は泥にまみれており、口を開けば土の味がする。
「ヴィレム様、ご無事でしたか!」
「お前ら、言っただろう、決して気を抜くな、いつ命を落とすかわからないと。まったく、それでは魔術師として立派とは言えないな」
彼が衣服の泥を落としながら言う叱責さえ、少年らにとっては喜ばしいものだったようだ。怒られてしゅんとしている風ではない。
それからヴィレムはローブの男に相対する。
「隠れるなら、もっと上手くやるんだな。魔術を使えば存在など簡単に気取られる。まして二度も同じ手を使ったんだ、警戒しないはずがないだろう? さて、降伏するなら命までは取らない。知っていることを吐いてくれれば、お互い得しかないはずだ」
ヴィレムは微塵も自身の勝利を疑ってはいない。
それゆえの発言であったが、男は大笑する。
「馬鹿を言うな! お前こそわかっていないな。主力をこちらに集めればどうなるかを。所詮、魔術師といえども子供よ。お前一人さえ倒してしまえば、あとは寄せ集めに過ぎん!」
男が宣言し、ヴィレムが地面を蹴り上げて生成した剣を手に取るなり、振動が起こった。震源は街のほうだ。
「ここでお前は死に、あの都市は我らのものとなる。さあ、逃げ場はないぞ、魔術師!」
魔術を使用し始めた男を見据え、ヴィレムは剣を構える。
こんなところで死ねやしないし、あの都市だって落ちはしない。交わした約束があるのだ。必ずや生きて帰るのだと。
「遊んでいる暇がないなら、さっさと片付けるまでだ。不利なのはお前のほうだぞ」
ヴィレムの宣言を男はせせら笑うと、魔術を発動させた。