2 千年の向こう
ヴィレムは王都における仮の屋敷に戻ってくると、そそくさと風呂に入り着替えを済ませ、何食わぬ顔で父イライアス・シャレットに挨拶をし、ようやく自室に戻ってきた。
慣れないベッドに倒れ込むと、ゆっくり瞼を閉じる。今でも思い出すのは、あの炎の熱さだ。いや、炎が理由ではないかもしれない。腹の奥に抱えたままの感情が、あのときの激しさを持ったまま、ずっと蟠っているのだ。
どこで誤ったのか、どこで失敗したのか。自問するのは、誰であろう。
(俺はヴィレムであり、レムでもあるのだろう)
ヴィレムはそんなことを思う。
魔術師レムが最後に放った魔術は、あくまで遺伝子を残すものにすぎない。レムの記憶の一部分が含まれた遺伝子をあちこちにばら撒いておき、やがて適切な環境になると発現するように仕組んだのだ。だから同じ遺伝情報の一部を持つだけで、自己の同一性を保っているわけではない。
遺伝子が本体であるとするならば、このヴィレムはレムである。しかし逆にそれ以外の――いわば他人からどう認知されているか、あるいは環境による変化も含めるのなら、ヴィレム以外の何者でもないことになる。
そして彼が誰かからレムであると認知されることはもはやありえないだろう。どうにも、あれから十年や二十年ではきかない年月が流れているようだから。不老の大賢者でもない限り老衰で亡くなっているに違いないし、そんな知り合いがいた覚えもない。
(いよいよこの世界で知り合いなぞいやしない天涯孤独の身に成り果てたのだ)
ヴィレムがもっともらしい悲観に暮れていると、ドアがノックされた。
体を起こし、少しは貴族らしい居住まいへと戻しながら返事を一つ。
「はい、どうぞ」
「お邪魔します……」
おずおずと入ってきたのは、クレセンシア・リーヴェ。
彼女はお気に入りの寝衣に着替えており、枕を抱きかかえている。なんとも可愛らしい、夜の訪問者であった。
「シア、どうしたの、こんな時間に」
「えっと……昼間のことですが、イライアス様は特に気付いておられない様子でした」
「ああ、父上はそうだろうなあ。いや、気付いていて、その上で気にもしていなかったのかもしれない。魔法が使えない末っ子なんぞ、可愛くもなんともないだろうから」
「ヴィレム様……」
クレセンシアは言葉を失ってしまう。シャレット家におけるヴィレムの扱いを知っていたからこそ、かける慰めは見つからなかった。
そんな彼女に、ヴィレムは自嘲を零した。
「だから兄上の代わりとして、こんな王都の学園に通わせようとした。貴族の子弟が集まると言えば聞こえはいいが、ようは体のいい人質だ。貴族が反乱しないようにするための」
クレセンシアは黙ってしまう。ぺたんと狐耳が倒れ、どうしていいのかわからない、という悲しげな顔をしていた。
ヴィレムはそんな彼女に、にっと笑う。
そこにふて腐れた態度はもはやなく、自信と夢に満ち溢れた口調で朗々と語る。年相応の少年の姿だった。
「学園に入れられるのは十五歳から。たぶん、幼いと病気で死ぬ可能性が高く厄介だから、その年からなのだろう。そして俺は今十歳。まだ五年もある。そう、五年もあるんだ」
「……なにをなさるつもりなのですか?」
クレセンシアがじっと純粋な瞳を向けてくる。ヴィレムはなんだかいい気分になっていた。だから、口が回る。
「天下を取る。……と言いたいところだけれど、そこまではいかない。だから俺の魔術師としての力と、それから人を動かす魅力を身に付けたい」
権力とは言わなかった。ただの権力だけでは成功するとは思えなかったから。人を貶めるのには十分でも、天下人には相応しく思えなかったから。
それが本当に、かつて魔術師レムが見落としていたものなのかはわからない。もうあのときの真実を知るものは生きていないのだから。
けれどここからはヴィレムの物語だ。今度は、ヴィレム・シャレットは成功させてみせる。
それからつい、彼は続けた。途方もない夢を。
「俺は聖域を奪還する。大望をこの手に掴んでみせる!」
「ヴィレム様なら、きっとできます。信じています」
クレセンシアは驚いたようだったが、満面の笑みを浮かべた。
ヴィレムは幼いときからずっと、この少女が傍にいてくれたことを思い出す。ろくに将来性も見いだせない貴族の末っ子と一緒にいてくれたことを。
なぜそうなのか、ヴィレムは聞けなかった。けれど、じっとクレセンシアを見ているとその理由がわかる。感情よりもずっと深いところに、それは刻まれていた。
ヴィレムはさっとクレセンシアを抱き寄せ、ベッドに誘う。
大胆な行動に驚くクレセンシア。といっても、お互い子供なので、まったく色気とか大人の雰囲気なんてものとは無縁なのだが。
そしてヴィレムは彼女の狐耳を撫で、尻尾に触れる。懐かしく変わらない感覚がそこにある。
「ヴィレム様?」
「なんでもないよ。クレセンシア。いつもありがとう」
ヴィレムは思わず笑わずにはいられない。
遺伝子はたとえ長い年月を旅しても、変わらず二人分が共にあった。
「そういえばシア。用事って結局なんだったの?」
「なんでもありません。もう済みましたから」
そういってクレセンシアは笑った。
◇
翌日からヴィレムは精力的に動き始めた。まずは世界の情勢を知るところから始める。魔術の訓練も悪くないが、同じ轍を踏むのは避けたい。うっかり禁断の果実に手を出して投獄されることになったら目も当てられないので、忌避されるような行為は慎まねばならない。
特に子供となれば、侮られるのが常だ。優秀であっても、逆に無能であってもよい顔をされることはそう多くはない。
特に合理的な考えを好むヴィレムにとってはくだらないことにも思われたが、レムの失敗から学ばねばならない。
ヴィレムはポケットにいくつかの貨幣を詰めて、クレセンシアとともに王都に繰り出していた。
道行く人々は田舎のシャレット領と違って洗練されているし、活気だってまるで違う。
初めてここに来ると決まったとき、随分と落胆したものだが、視点を変えてみればなんとも楽しげではないか。
隣の少女はと言えば、珍しげな野菜類を見ては目を輝かせて「今晩はどうしましょう」とレシピを考え、都会染みた装飾品を見ては「ヴィレム様に似合いそうです!」と破顔する。
だから来てよかったとヴィレムは心底思うのだった。
買い食いをしたり寄り道をしたりしながら中心に向かって進んでいくと、ようやく目的の建物が見えてくる。
他の家々の数倍もあろう高さで、全体は石造りで出来ており、窓がステンドグラスで彩られている。
この巨大な建造物には人類数百年の知識が詰め込まれていると言われている。なぜ数百年かといえば、この王立図書館を建造した当時の王が珍しく知識に貪欲であったために書物の収集が始まったが、それ以前の王は知識を重要視しておらず失われてしまった部分が多いからだそうだ。
ヴィレムは屈強な警備兵にじろりと睨まれてなお怯まずに、図書館へと足を踏み入れようとする。
ここ王立図書館は一般に貴族や王族、有力な豪商、あるいは知識人が利用するものであり、子供が来るような場所ではない。そして王立ということで、国の財産を守るため、警備もそこらの日がな一日欠伸しているような兵とは異なる。
それでもヴィレムは涼しげな表情のままだった。そしてクレセンシアもまた、笑顔で彼に続く。その異様な光景は、幼いながらの無邪気さとは一線を画するものだった。
「入館料をここでお支払いください」
無下にされることもなく、受付の女性が優雅に頭を下げた。その仕草から見るに、もしかすると、どこかの貴族の娘なのかもしれない。
ヴィレムはポケットから金を取り出して二人分支払う。王都で使うべく貰ったお小遣いはそれで底を突いてしまう。けれど、なくなったものはいずれ稼げばいい、とヴィレムは大胆な払いっぷりを見せる。
中にも兵がいることもあって、しかと監視の目は行き届いているが、誰かに見咎められることもなく、ヴィレムは早速知識の宝庫に足を踏み入れた。
知りたいことと言えば、まずは歴史だ。
これに関してはヴィレムはあまり知識がなく、幼少時代に勉強をしてこなかったのが悔やまれる。というのも、魔法を使いたいがあまり、そちらにばかりかまけて座学を疎かにしていたのだ。今となってはもう少し別のことをしていれば、と思うが、それくらいの年頃の子供なら無理もない。
僅かな時間も無駄にはしないとばかりに本に飛び付き、読み漁る。
魔術師レムの時代とは違う文字が使われていることもあって、ヴィレムがなかなか読めない文字もあったりするが、そこはなんとか今ある知識を利用して読み進めていく。
すると、ヴィレムは驚きの記述を目にした。
『数百年前(一説によると千年ほど前とも言われている)、古代王朝は魔術師レムによって聖域の奪還に成功するも、その後疫病によって撤退を余儀なくされ、王の病死や異民族の進攻などが相次ぎ滅亡した。聖域の統治後、僅か一年足らずのことであった』
ヴィレムは怒りを通り越して呆れ果ててしまう。あれほどまでに腐心して築き上げてきたものがこれほどまでにあっさりと、いとも容易く崩れ去ってしまうものなのかと。
が、思い当たる節がないわけでもない。
疫病や王の病死、といったものは、魔術師レムにも原因があるものだ。なんせ、聖域に存在している木々が出し続けている病原体を一時的に抑えながら、戦いを繰り広げていただけなのだから、その方法を失えば誰だって病に陥ろう。
多少なりとも説明はしたのだが、人間は得てして自分に面倒事が回ってくるのを嫌がるもので、レムは押し付けられる形になったのだ。
幸か不幸か、たった一人で何事も成し遂げられる力のあった彼は、誰かと共有することなく成果を上げ続け、そうして誰かに知識を分け与えることなく死んでいった。魔導王の称号を得た後に穏やかな生活をしようと考えていた彼は、あまりにも突然の処刑に、なにも残しはしなかった。
が、そのことに対する申し訳なさなどはない。すべて奴らの自業自得であったのだから。
「それにしても……千年か。そりゃあ、変わるわけだ、なにもかも」
「はい。ですが現在、聖域はどの国の支配下にも入っていません。これは好機です」
と、クレセンシアはあたかも聖域を取る前提で話を進める。ヴィレムよりもずっと大胆な気性の持主であったのかもしれない。
ヴィレムは昨日のうち、クレセンシアに自身のことを話していた。けれど彼女は驚きもせず、いつものように微笑んだのだ。
だからヴィレムもまた、あくまでしがない貴族の末っ子ヴィレム・シャレットとして、名を上げていこうと思うのである。
調べ物を続けていくと、今では魔術の技術は失われてしまったことが明らかになる。神が授けた奇跡的な現象として信仰されており、それを魔法と呼んでいるそうだ。この辺は、宗教の影響が大きいようだ。
これもまた皮肉なことに、魔術を誰よりも求めたレムの死、ひいては古代王朝の滅亡から、魔術が不可侵のものと見られる傾向が強くなったせいらしい。
むしろ、このほうがやりやすいかもしれない、とヴィレムは踏む。簡単に相手との差をつけられるからだ。といっても、ヴィレムという肉体も彼らと同じく、現代のものであるのだが。
「さて、魔法はこのようであったが、ならば武術はどうであろうか。魔法が使えない分、発展しているやもしれない」
「はい。ではお邪魔させていただきましょう」
図書館を出ると、クレセンシアとともにヴィレムは練兵場へと赴く。
入り口の重い鉄の扉を開けると兵たちの掛け声と熱気によって出迎えられた。