17 シャレット兄弟
「……兄上。戻っていらしたのですか」
長兄テレンスが廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
身長が高く着やせするほうだが、その衣服の下には鍛え上げられた肉体が隠れている。彼は魔術も武術も、貴族としては十二分に扱える。常日頃命のやり取りをしているような本職に比べれば劣るが、前線に立たないのなら自衛するくらいで事足りるのだ。
一般に剣を振るうことが少ない貴族にもそういった技術が求められるのには、この時代の身分が影響している。
大まかに身分を分別すると、四つになる。
まずは王・諸侯・騎士・兵という戦う人だ。これは領地や民を守るために、方法がなんであれ、争いから領地を守るのが仕事である。それから聖職者という祈る人、農民・商人・職人といった働く人。最期に少し特異的な魔術師という存在だ。
魔術師は多くの国で直接的に主君に仕え、研究および戦いに関して、様々な知識による助言を行っている。魔術師の中でも階層構造を作ることもあるが、現在ではほとんど見られない。というのも、絶対数が少なくなったからだ。多少魔術の心得がある者と魔術師と呼ばれる者では、天と地の差がある。レムの時代では、むしろ魔術師が支配階級とも言えるほどだったので、まるで状況が違う。
貴族の子は領地を継げば諸侯、それ以外では騎士・魔術師・聖職者になることが多いが、いずれにしても魔術は必須の才能と言える。
そんな魔術の才に溢れていた兄の姿を、ヴィレムは眺める。あれほどまでに羨ましかったはずの彼の姿は、今となってはまるで変わって見えた。変わったのはテレンスではなく、ヴィレムのほうだというのに。今ならば、当時抱いた小さな引け目を押し隠す必要はなくなっていた。
テレンスはヴィレムを見ると、柔らかな笑みを浮かべた。この兄は忙しい中、よくヴィレムの訓練に付き合ってくれた。まったく成果の出ない末っ子の魔術の練習に、何度も何度も。
「ヴィレム。元気にしていたか?」
「はい。兄上こそ、お変わりないようでなによりです。各地方はいかがでしたか?」
テレンスはシャレット領内の各地を転々としていた。イライアスの後を継ぎ為政者になってしまえば、もう気楽に出歩くことはできなくなるため、今のうちに領内のことを知っておくべきだろうと、数年前から出かけていたのだ。ときおり帰ってくることもあるが、最近ではほとんど会うことはなくなっていた。
久しぶりに会うテレンスは逞しく、大人になったと思わせる雰囲気を携えている。それに、黙っていても人を引き付ける魅力があった。
「そうだな……行ってよかったと思える数年だった。ここにいて報告を聞いているだけではわからないことも多く学べた。書物と現実は違うのだと、改めて認識されたよ。そこで私は、なんにも知らぬ稚児のようなものだった」
テレンスは謙遜してそう言うが、収穫があったのは確かなのだろう。自信と希望が見て取れた。きっと、そういう下積みがあってこそ、よい君主になり得るのだとヴィレムは思う。
「そういうヴィレムこそ、活躍してるそうじゃないか」
「はい。いろいろあって魔術が使えるようになりました」
「そうかそうか、ならば将来は希代の大魔術師だな」
テレンスは笑う。けれど、決して子供の夢だからと馬鹿にしているわけではない。彼はいつもヴィレムの語ることを真摯に受け止めてくれる。ヴィレムの決して諦めない強さを知っていたからかもしれない。
「そのようなことを言ってくださるのは、兄上とシアだけですよ」
「クレセンシアか。元気にしているか?」
テレンスはクレセンシアがやってきてからすぐに、あちこちに出かけるようになってしまったため、あまり面識はない。
「いつも彼女に助けられてばかりです」
「ならば、あのときの選択は正しかったのだな。クレセンシアを初めて見たお前が、家で引き取ると言って聞かなかったのはいまだに忘れられない」
「彼女ほどの者はどこを探してもいませんよ。兄上にも勝る千里眼だったということです」
「こいつ、言わせてみれば」
テレンスは笑いながらヴィレムの頭を小突いた。ヴィレムは戯れながら、かつてのクレセンシアを思い出していた。
クレセンシアは教会に捨てられていた子だ。獣人が捨てられるのは珍しいことではない。両親のどちらかが獣人ならばまだいいのだが、先祖がえりなんかで常人から生まれた場合は、揉めることが非常に多い。不義の子と言われることすらあった。
彼女は狐の獣人であり、レムを信仰する宗教の教会で保護されていたのだが、そこを偶然ヴィレムが通りがかったのだ。
一目見たとき、ヴィレムは胸の内に郷愁のようなものを覚えた。そしてクレセンシアもそうであり、二人はもはやその時点で、一緒にいるのが当たり前になったのである。だから断られそうになったとき、半身を引き裂かれるような強い痛みを覚えたのだった。
「ヴィレムはあのときから一度言い出したら聞かなかったな。父上も困っていたよ」
「そうだったのですか」
「知らなかったのか? だからお前に関しては自分の意志に任せるべく自由にしていたんだ。これまでなにか制約を受けさせられたことはないだろう? 俺はあれこれと叱られてばかりだったというのに」
そう言われて初めて、ヴィレムは自身の過去を振り返る。前ばかりを見てきた人生だったから、その言葉があって初めて思い当たることもいくつかあった。
「ですが、学園に入れられることになりましたよ」
「魔術の才能がないから、クレセンシアのこともあり聖職者にさせようと思っていたようだが、学園の連絡が来たとき、王都ならなにかやりたいことも見つけられるんじゃないかと考えたみたいだ。といってもただの思いつきみたいだったが」
ヴィレムは父がそんなことを考えていたとは知りもしなかった。いや、知ろうとしてこなかったのかもしれない。イライアスがヴィレムとの接触を上手くできずにいたのは間違いない。けれど、ヴィレムも同じだったのだろう。そこに血のつながりを実感せずにはいられなかった。
「っと、こうしちゃいられない。父上に報告しに来たんだった。じゃあまたな」
「はい。御武運を」
「父上相手にそんなものはいらないぞ。お前が思っているほど、理解のない人じゃない」
テレンスが去っていくと、ヴィレムは改めて、父と話してみようと思うのだった。
それからヴィレムは腕の立つ少年を集めるようドミニクに告げ、新しく部下になる兵たちと挨拶を交わし、出発の支度を済ませているうちに慌ただしく一日が過ぎ、時間になった。
早朝、ヴィレムは馬にまたがりシャレット家の屋敷を出る。末っ子と言っても貴族、教養として馬くらいには乗れるのだ。
隣には同じく騎乗したクレセンシアの姿。ドラゴンを連れてきて乗せてあげようと言ったが、それはまだまだ後になりそうだ。けれど、その機会はこの先、何度でもあろう。
後ろに続くのは数十の歩兵たち。大人から子供までいる、まとまりのない隊だ。本格的な戦いとなったら、耐えられないかもしれない。けれど今はそれでいい。
これからヴィレム・シャレットの公的な初陣が始まるのだ。しがない貴族の末っ子が雌伏の時を終え、雄飛し世に認知される時が来た。
輝く朝日に照らされながら、ヴィレムの鎧が輝く。そのままじゃ様にならない、とテレンスから貰ったお古だが、安物の鎧とはわけが違う。
「これより山賊の討伐に向かう。皆の者、心して付いてくるがいい!」
ヴィレムが馬の胴体を両足でぎゅっと挟むと、いよいよ馬足が動き始めた。
動き出す一団は、まだ数十人と大きくない。けれど、いずれは十倍、いや百倍、千倍と大きくなっていくはず。
南東へと、馬首は向いていた。