16 まっさらな未来
その晩、ヴィレムは私室にクレセンシアを招いていた。
顕微鏡を覗くのはクレセンシア。そこにはヴィレムが用意した標本が見える。
「ヴィレム様、この二つの標本では、魔核の数も魔核内遺伝子の様子も違いますね。別の魔物ですか?」
クレセンシアがレンズから目を離さずに言う。
「どちらも同じだよ。君の頬と毛根から取ったものだ」
「いつのまに取っていたのです!?」
「そこのベッドに落ちていたからさ。君の美しい毛を見間違えはしないよ」
ヴィレムはクレセンシアの尻尾をそっと撫でる。黄金色には一点の曇りもなく、なにより柔らかく毛並みがいい。
クレセンシアは顔を赤らめ、いよいよ顕微鏡なんか覗いていられなくなり、俯きがちになった。
そんな彼女の反応も、ヴィレムが思った通りである。
そもそも、クレセンシア以外にこの部屋に入るものは滅多にいないのだから、間違えることはなかろう。
やがてクレセンシアは身をよじり、ヴィレムの掌を軽く尻尾ではたいた。
そしてツンと澄ました態度を取ってみせる。普段はそんな姿をまったく見せない彼女のことだ、いかにもわざとらしく見える。
「ヴィレム様、私は誰にでも気安く尻尾を触らせる女ではないのですよ」
言いつつ、クレセンシアはヴィレムの目の前で尻尾をふりふり。
そんな彼女がちょっと期待しながら、ちらと見てくるのにヴィレムは小さく微笑み、戯れに乗る。
「俺とて、誰にでも気安く触りはしないよ。俺がこうするのは、シアだけさ」
ヴィレムが尻尾を手に取ると、クレセンシアはその答えに満足して嬉しげに微笑んだ。
そんな風に過ごしていた二人だが、やがて本題に戻る。
ヴィレムは先の二つのほかに、さらに別の標本を見せる。それもまた、魔核内遺伝子の染められ方は異なっていた。
「こちらはいったいなにから取ったのです?」
「えっと、両方ともシアの細胞なんだけど」
「やっぱり言わなくていいです」
と、クレセンシアに遮られてしまったので、ヴィレムは一つ頭をかいてから、説明を続けた。
「全部が全部、魔核内遺伝子の具合は異なっているよね。でも、遺伝子はどれも共通なんだよ。外部から新しい魔核遺伝子を入れたとしても、二種類の遺伝子が混在することはなく、必ず一つに収束していく」
ようするにどう頑張っても一種類の魔核しか持たないということだ。だから、このクレセンシアの部位別に異なって見える魔核内遺伝子も、一つの種類しかない。
「新しくいれたのと古いの、どちらが増えていくのですか?」
「有利なほうだね。俺たち宿主の生存に有利なほうが増えていく。その魔核を使い続ければ成長してより魔力を生み出すようになって強くなっていくし、使わなければすぐに排除されることになるだろう」
「それが、先ほど見た染められ方の差を生み出したのですか?」
クレセンシアが耳を前後に動かしながら、考えている。そんな彼女とヴィレムは答え合わせをした。
「魔核内遺伝子も一緒だよ。つまり、よく使う魔術ほど活性化されて、強く染まるんだよ。だから手の魔核を用いて炎の魔術ばかり使えば、それが使いやすくなる。足の魔核を用いて土の魔術を使えばそれが使いやすくなる。逆に使わなければ、どんどん使いにくくなる」
万遍なく使えばどれも半端になるし、かといって一つばかりを極めていては、多様な状況に対応できなくなる。
「難しいですね……あちらを立てればこちらが立たず、となりそうです」
「無理に多くの魔術を覚える必要はないし、最低限だけを強くしていってもいい。ただ、普通は自身の持っている魔術の組み合わせで最適なものを選んでいく必要がある」
クレセンシアならば、「狐火」という強力な固有魔術を持っているため、それを生かすべく炎の魔術と、近接戦闘を可能にする力の魔術を伸ばしていくのがいいだろう。
しかし、ヴィレムにはその考えが当てはまらない。
彼は先ほど、「普通は」と言ったのだ。
「言っていなかったけれど、俺の固有魔術は魔核内遺伝子を操作するものなんだよ。これにより、魔核内遺伝子を効率的に用いることができるようになったり、外部から取り込んだ遺伝子を増やしたり、あるいは不要なものを捨てたりすることができる」
「それはなんとも都合がいい魔術ですね……」
あまりにも規格外の魔術と言えよう。
そもそも魔術師レムは、魔術を研究するためだけにこの魔術「魔核内遺伝子操作」を開発したのだ。しかし、遺伝子が千年を旅しているうちに、どういうわけがヴィレム自身の遺伝子に組み込まれてしまうことになる。
それゆえにどんなものかと思っていたのだが、使ってみると案外すんなり成功したのだ。そうしてヴィレムは、ブラックベアーが使っていた「吸熱」の魔術を手にすることになった。
こうなることをレムは見越していたのか、それともただの偶然だったのかはわからないが、ヴィレム自身が持つ魔術は少ない。
これからまっさらな遺伝子に、彼の人生を刻んでいくことになるのかもしれない。
ヴィレムはそんなことを考えていた。
◇
ヴィレムは早朝、メイドから父の執務室に来るよう告げられていたので、着替えを済ませて廊下を歩いていた。
ドアをノックし、返事があってから中へ。
父イライアスは書類を眺めているところだった。顔を上げヴィレムを見ると、書類を脇に避けて真っ直ぐに彼を見る。
最近はこうして父と話すことも多くなったな、とヴィレムは思う。もっとも、もう寂しいとか構ってほしいとか、そんなことを思う年でもない。特に認められたいと思うこともなくなった。そんなことよりずっと大きな目標ができたし、なにより千年越しの相方もいるのだ。
すでに精神的には独立しているのかもしれない。もっとも、今のところ彼が独り立ちしてやっていけるほど、生活能力が高いわけではないのだが。
「ヴィレム。色々と話は聞いている。魔術の腕を上げているそうだな」
イライアスはあまり無駄話を好まなかった。彼は寡黙な人物であり、兄たちといるときでさえそうだったのだから、今回呼ばれたことに関係しているのだろう。
「まだまだ未熟ゆえ、精進しております」
「そうか。……南東の小さな村が荒らされていると報告があった。おそらくは山賊の類だろう」
ブラックベアーの出現により、禁猟になったため猟師が流れていき、やがてそういった行為に及ぶようになったのかもしれない。そうならば、ヴィレムも完全に無関係とは言えない。
「では、派兵せねばなりませんね」
「ああ。そこでお前に行ってもらおうかと思っている」
ヴィレムは発言の意図がいまいちわからなかった。
イライアスはヴィレムを学園に入れることにしていた。その学園は武官・文官を育成するためのものであり、無能な貴族の子なら重要性の限りなく低い地位が与えられるのが通例になっていた。
ヴィレムの魔術に関する才能が乏しいと見たからこそ、あの学園に入れて文官にでもしようと思ったのではないのか。
ならば、兵を率いる者として派遣されるのはおかしなことになる。心変わりでもしたのだろうか。
戸惑うヴィレムにイライアスは続けた。
「お前もそろそろ、人を率いる術を身に付けてもいい頃だと思ってな。無理に、とは言わないが」
「その任務、謹んでお受けいたします」
はっきりとヴィレムは答えた。
今は小さくとも、確実な一歩を踏み出せると思ったから。貴族の末っ子が、名ばかりではなく実力をもってして、認められるときが来たと思ったから。
「父上、クレセンシアとドミニクのほか数名を連れていってもよろしいでしょうか?」
「兵はこちらで用意するが、必要ならば構わない。任せよう」
「ありがとうございます」
ヴィレムは深々と頭を下げた。クレセンシアがいないと締まらないし、戦力としても心細いのはもちろんのこと、ヴィレム自身がいつでも使える手勢としては、ドミニクなどの少年たちだけだ。多少心許なさはあるが、金がかかる大人より忠誠心も高く維持がずっと楽である。
そうしてヴィレムは父との会話を終えると、一室を出た。
と、そこで思わぬ人物と遭遇した。