121 決戦を前に
デュフォー帝国の北部に位置する諸侯領は、断続的に続く攻撃を受けて、ペール・ノールズおよびアスター・デュフォーに対して救援を求めていた。
けれどそんな日がいつまでも続く中、返事は決まって「しばし耐えよ」というものばかり。諸侯たちは焦れに焦れ、すでに降伏のタイミングを伺っているところだ。
なによりも不幸であったのは、そんな諸侯の下で働かされる兵たちだろう。
北から攻めてきた魔術師に対して突撃していけば、すぐに撤退されてしまうし、矢を射かければ突風を浴びせかけてくる。
「くそ! 聖域の瘴気が!」
「あいつらめ、なんで無事なんだ!」
その瘴気を長く浴びていれば、聖域に蔓延る病に陥るとされており、ただ魔術で風向きを変えられただけで彼らは足がすくんでしまった。
そんな彼らだから、一向に攻めることができずにくすぶっていた。けれど、現状に苛立ちを覚えた指揮官が命令を下すと、一目散に駆けていく。もはや破れかぶれだった。
わあわあと上がる声を聞きながら、クリフはそれらの兵を遠くから見据えていた。
けれど、わざわざ真っ向からぶつかる必要はない。
「下がれ。聖域に戻るぞ」
彼が告げると、濃紫のローブが翻る。
統率の取れた動きで一斉にそれらが動き、北へと向かっていく。悠々と歩いている様には威厳すらも感じるが、相手からすれば馬鹿にされているとも思われたことだろう。
ほんの十数人だけの隊で、諸侯の兵数百を相手することができる。いや、彼らならば、直接戦うことだってできただろう。
けれど、無理に大地を血で濡らすこともないと、ヴィレムは判断していたのだ。
そして一気に降伏させてしまうより、そのほうがアスターを焦らせ引っ張り出すには都合がいい。
クリフが聖域の森に足を踏み入れると、聞こえてくる声が小さくなってくる。どんな勇敢な兵だって、そこに入るのには忌避感があったのだ。
「卑怯な! こそこそと隠れおって! それが魔術師のすることか!」
相手の騎士が馬上で吼える。
クリフはそれを聞きながらもじっとしていたが、隊員の一人が尋ねてきた。
「このままですと、泥仕合になる可能性もあります。あの騎士は、自分は最後尾にいながらにして、命令は愚直なものが多いです」
「確かに。ヴィレム様もおっしゃられていた。アスターに動く気配がないのであれば、いつまでもこの行いを続ける意味もない。いっそ戦いを終わらせてしまえば、行き場もなくなるだろうと。……気は進まないが、たった一人の命で大勢が救われるならば、それもまたやむを得ないか」
騎士が顔を赤らめながら突撃の命令を下した瞬間、クリフは幾何模様を浮かべていく。それは円錐形を形作っていき、先端はその騎士に向けられた。
先頭を走り始めた兵はそれを見て顔を強張らせたが、もはや止まることはできない。ひとたび足を止めてしまえば、後続に踏み潰されてしまうのだから。
「うわああああああ!」
なかば絶叫にも近い声を上げながら迫ってくる彼らに一瞥をくれることもなく、クリフの魔術が発動した。
円錐形の幾何模様の中で圧縮された空気が一気に噴出する。風槍の魔術は勢いよく進んでいくと、騎士の頭を貫いた。
ほんの一瞬の出来事だった。鉄の兜も、その威力の前ではなんの役にも立たない。
側近たちは呆然とした顔に血しぶきを浴び、落馬した騎士を見て悲鳴を上げた。あれほどの距離では、とても攻撃などできやしないとたかをくくっていたのだ。
けれど、実情はまるで異なっている。無駄な戦いにならないようにしていただけで、いつだってやろうと思えばこうすることができた。
騎士はどうせ、帝国から派遣される者に取って代わられるから問題はないが、兵を根絶やしにしてしまっては、その後の統治にも影響があろう。
兵たちはまだ走り続けていたが、後ろのほうから徐々に勢いが落ちていく。そして先頭にいる者たちへと土の魔術で弾丸を撃ち出すと、彼らはもはや進むこともできなくなる。
「さて、東はヘイスが土地を取り戻したと聞いている。北と東、そして帝国のある南。三方から攻められては、もはや降伏する以外の方法もあるまい」
「……結局、アスター・デュフォーは動きませんでしたね」
「このまま戦争を終わらせて逃げるとも思えない。なにかを企んでいるに違いない」
彼はノールズ王国の北の土地から一向に出てくる気配がなかった。
戦争で勝とうとしているとは、とても思えない。なにしろ、この帝国北の諸侯がそうだったように、アスターが禁術で作り上げた兵の姿はどこにもないのだから。
では、それらは引き上げてなにをしているというのか。
いまだに不明ではあるが、今は少しずつこの戦乱を終わらせるべく進めていくのみ。
そうして再び聖域の拠点へと戻ったクリフであったが、そこに西の魔術師隊隊員から連絡があった。
◇
ノールズ王国北部には、ペール・ノールズが率いる部隊が集結しているはずだった。
彼の兵は西の旧イン・エルト共和国にもいたが、そちらはすでに兵が引き上げて、こちらに戦力を集めているという話が斥候から伝えられていた情報だ。
しかし、北にやってきたマルセリナ・ヴァトレンとナバーシュ・クネシュが見た光景は、予想していたものとはまるで異なっていた。
「……これじゃあ、すっかり死んだ街ね」
都市には一人たりとも残っていない。では、彼らはいったいどこにいったのか。
ヴィレムから預けられている魔術師たちはすぐさま調べたり、伝令に動いたりしている。それゆえに、状況を把握するのはそう難しいことではなかった。
「東に移動した形跡があります」
「……たった一晩のうちに、住民全員まとめて移動したって言うの? 冗談でしょ?」
そのようなことができるはずもない。大人数が動けば、それも一般市民なのだから、どうしても統率された動きにはならない。中には逃亡する者だっているだろう。
けれど、それ以上に奇妙なのは、大勢の足跡があるわけではない、ということだった。
「大柄な足跡が多く残されていますが、人の足跡はございません」
「……ねえ。それってもしかして」
マルセリナが顔を引きつらせる。
敵がやってきたことを思えばすぐに予想はついた。けれど、とても口にするのも憚られる行為だ。
彼女が言いづらそうにしている隣で、ナバーシュはあっさりと可能性を告げた。
「ただの兵を魔法の材料にしてしまうようなやつなんだ。人間を化け物に変えてしまったって、おかしくはない」
「……とりあえず、都市の占拠だけ済ませないと」
マルセリナは気分がよくないようで、自分の役割を果たそうとするので精一杯のようだ。誰しも、想像を絶するおぞましい行いに直面すれば、信じたくなくなるのも当然だ。
けれど、魔術師隊の少年は彼らへと挨拶を済ませると、これまでどおりの顔で東に向かっていく。
ルーデンス領は今まで何度も、敵の魔術師による攻撃を受けてきた。そしてそのたびに退けてきたのだ。
今度だって、決して負けやしない。いよいよこの陰謀を終わらせるときがやってきたのだ。
そうして伝令が辿り着くと、ルーデンス魔導伯はすでに戦いの準備を済ませたところだった。
◇
とある一室で各魔術師隊の状況を聞いていたヴィレムは、聖域を拠点にして戦いの準備を済ませていた。
入り口をしばらく眺めていると、彼との打ち合わせが終わった魔術師たちが退室するのと入れ替わりにクレセンシアが入ってきた。
おそらく、アスター・デュフォーはこれを最後の戦いと見なしている。だから帝国北の諸侯になど構っている暇がなかったのだ。
「……まさか、民を手にかけるとは」
ヴィレムは腹の奥底から込み上げる熱に浮かされる。
けれど、隣にいたクレセンシアがそっと距離を詰める。
「ヴィレム様。思い悩んでおられるのですか?」
「そりゃね。俺はこれから、本来守るべき民たちを叩きつぶさねばならないんだ。それを隊員たちに告げなければならない」
「そのお悩みはわかります。ですが、今はただ、悪の魔術師とその禁術に操られた敵と戦う。それ以上のことを考える必要はありません。ルーデンス魔導伯が悩んでいては、その不安が伝わってしまうでしょう」
「……相変わらず、君は手厳しいな」
ヴィレムは隣のクレセンシアに情けない笑みを浮かべた。
いかにペール・ノールズに与した諸侯といえども、このような状況になるとは思ってもいなかっただろう。彼らが悪かったと断ずることはできない。いや、もはや今となっては、その機会すら与えられることはないだろう。すでにアスターの傀儡となってしまったのだから。
「この戦い、勝たねばならないな」
「はい。もちろんです。目指すところはもうすぐそこまで来ているのです。頑張りましょう」
仮に敗北してしまえば、アスター・デュフォーは次々と勢力を広げていくだろう。
ルーデンス魔導伯がいなくなれば、圧倒的な力を持つ魔術師はほかにいなくなる。大量の禁術で作られた兵と戦える者はいなくなるのだ。
けれど、それはもはや世界の崩壊となにが違うというのか。
誰一人としてアスターを支持する者はいないだろう。いや、彼はそのようなことは、もはや望んでもいなかったのかもしれない。
ただ、自身がいつまでたっても越えることができなかった魔術師レムを倒すこと、そして彼がなし得なかった聖域の征服。それだけが望みだったのかもしれない。
ヴィレム自身、レムの記憶と熱に支配されていれば、それと変わらない決断を下していたかもしれない。
けれど今はそうではない。ルーデンス魔導伯として、領民を守る義務がある。よりよい平和を目指そうという志がある。
決して奪われてはならない未来があった。
「ヴィレム様。準備は整いました。アスター・デュフォーの兵はまもなく聖域に足を踏み入れるでしょう」
クリフが彼に報告すべくやってくる。
ヴィレムは彼に堂々たる態度で接した。先ほどの憂いは、どこにも見当たらない。
「よし、迎え撃つ」
ヴィレムはさっと聖域の拠点から飛び出すと、高らかに宣言した。
「これが最後の戦いになるだろう。敵は卑劣な行いで戦力を増やしてきた。だが、我々魔術師は負けてはならない。誇りを胸に戦い抜き、必ずや打ち勝ってみせる。未来を掴むのは我々だ!」
彼の声に、魔術師たちが静かに、激しく呼応した。
気持ちが高ぶり、戦を前にして干戈を手に取っていく。
そしてヴィレムは竜銀を手に、今も迫り続けているであろうアスター・デュフォーの姿を思い浮かべた。
今、千年の因縁が終わろうとしていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
おかげさまで「転生魔術師の英雄譚2巻」も増刷がかかりました。ありがとうございます。
また、WEB連載も完結まで残り2話となりました。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




