10 小さな英雄の門出
ヴィレムは森の入り口に辿り着くと、付いてきた少年たちを動かぬよう制止した。それから目を瞑り、じっと耳を澄ませる。
「なあヴィレム様、さっきからなにやってるんだ? 行かないのかよ。じーっとしてたって、魔物は寄ってこないぜ?」
オットーが暇そうに足をぶらぶらさせながら声をかけてくる。
ヴィレムは呆れたように彼を眺めながら、一つため息を吐いた。
「オットー、お前はせっかちでいかんな。まずは危険があるかどうかを確かめてから行かなきゃならんだろう。俺はお前たちを預かる身なんだから、うっかり敵の巣に突っ込みました、なんてお馬鹿なことは言えないんだ」
「でもさあ、聞こえないだろう?」
「なんにも聞こえないな」
今度はオットーが呆れてため息を吐く番だった。そんな彼を睨むドミニクの姿が、ヴィレムの目に入った。どうやらこの弟は弟で、口ばかりでどうしようもない兄を嫌がっているのかもしれない。
ヴィレムがそんなことを思っていると、狐耳を立てていたクレセンシアが手を上げた。
「ヴィレム様、やけに森が静かですね。この近くに動物はいないかもしれませんよ」
彼女の聴力は常人を遥かに上回る。そんなクレセンシアが言うのだから間違いないだろう、とヴィレムは頷いていた。
が、ほかの少年たちの表情もオットーのものに近くなってきた。それがただ同意しているだけのヴィレムに向けたものなのか、それとも狐耳の良さをあまり知られていないクレセンシアに向けたものなのか、ヴィレムにはわからなかった。
以前の彼ならば、他人がどう思っていようが関係ないと放っておいたはずだが、レムの記憶を得てからは少しずつ変わってきている。ヴィレムはちょっとだけ魔術を見せることにした。
吹いてくる風に体を預け、その感覚を全身で受け止める。そして魔術を発動。
幾何模様が体中に浮かび上がり、ゆっくりと四方八方に広がっていく。それらはやがて森の中へと向かっていった。
風を操り遠距離の音を拾うための「風読み」と呼ばれる魔術だ。
中間生成物から漏れる魔力はある程度は偽装できるものの、仮に自身の技量を上回る強力な魔物がいれば見つかってしまう可能性が高い。当然ながら、都合よく一方的に相手を探す術はないのである。
ヴィレムは魔術によって拾った音を確認していく。遥か遠くで木々が揺れる音一つ逃さない。
が、別の声で彼の集中力は阻害されることになった。
「ヴィレム様すげー! なにその魔法!」
「俺知ってるぞ、昔イライアス様の屋敷にやってきた魔術師が使ってた!」
「どこで学んだんですかそんな大魔法! やっぱり、その魔術師に教えてもらったんですか!?」
子供らが口々に言う声にヴィレムは苦笑した。無才の末っ子にそんなのできるはずがないとムキになられるのも困るが、こうして囃し立てられるのもあまり好きではなかった。
まるで我がことのように誇らしげなクレセンシアの横顔を見ながら、ヴィレムがすることは訂正だった。まったく、人気取りの下手な少年だ。
「これは大魔法じゃないよ。中規模魔術の一つだ」
「なんだよそれ、聞いたことないぞ」
早速オットーが尋ねてくる。けれどどこか申し訳なさそうに見えるあたり、ヴィレムの力を認めているのだろう。
どうやらこの時代の「魔法」は、かつての魔術と違って随分と曖昧なものになってしまったらしい。神がもたらした力とやらを格付けするなんて畏れ多い、ということなのかもしれない。
「かつて魔法が魔術と呼ばれた時代。そこには今の魔術師たちが使うへっぽこな魔法なんかではなく、本物の魔術があったのさ。
小規模な魔術だけで大人たち数人を吹き飛ばす威力があり、中規模なものは広範囲を薙ぎ払った。大規模なものとなると町一つにもおよび、超大規模な魔術は一国すら滅ぼしたという。今の力任せな魔法じゃあ、到底考えられないことだろう。だから、今の魔術は中規模のものでしかないのさ」
滔々と語るヴィレムに、子供たちは黙ってしまった。少し難しかったかな、などと思っていると、クレセンシアが彼の言葉に続けた。
「つまり、ヴィレム様は偉大なのです。そんなヴィレム様のために働けるのですから、光栄に思ってくださいね」
にっこりと微笑むクレセンシア。決して脅しのための笑顔ではない。純粋にヴィレムの力を喜んでいるのだ。
彼が幼い時から、才能がないと蔑まれていたときから、必至で足掻いていたのを彼女は知っている。誰よりも自身の才能が信じられずにいながら、誰よりも諦められなかった少年を忘れることなんてできやしない。
だから、今のヴィレムの姿が嬉しくてたまらなかった。
そんな感情を隠さずに尻尾を振るクレセンシアの姿を見て、少年たちは緊張を緩めながらも、自身の役割を再認識する。
そしてヴィレムもまた、彼女の言葉に気合を入れるのだ。
貴族の末っ子としては重すぎる任務であり、だからこそ成功させれば得られるものは多い。しょっぱなから失敗なんかしていられない。
まずは信頼を勝ち得たことをひそかに喜びながら、ヴィレムは森の中に足を踏み入れる。先ほど一か所に集まった小型魔物の反応があったのだ。
いきなり大型の魔物を狩ろうとするほどヴィレムは無謀ではない。だから手ごろな魔物から仕留めることにした。
静かな森を進んでいく中、少年たちは木の実を拾ったり、なっている果実を取ったり、恵みを存分に享受するつもりらしい。魔物も獣もいないから、存分に集めることができる。
ヴィレムは足元にあるキノコを手に取り、矯めつ眇めつ眺める。
「おかしいな。獣の齧った跡がない。たしかこれはダークウルフの好物だったと思ったんだけれど」
そう言うと、クレセンシアが鼻を近づけてみる。
「ダークウルフの匂いはしませんね」
「シア、そんなのわかるの?」
「はい。あの牧場で嫌というほど嗅ぎましたから!」
ヴィレムに褒められて、クレセンシアははにかんだ。
匂いを覚えているかどうかではなく、そんな僅かな匂いすら嗅ぎ取れることにヴィレムは驚いたのだが、どうやら彼女にとっては当たり前のことらしく全然誇らしげにする様子はない。
しかしそうなると、獣たちはどこに消えたのやら。こんなに美味しそうなキノコを放っておくなんて、余程の偏食家に違いない。
当初の目的地に近づいてくると、クレセンシアが敵の匂いを捉えた。
「鹿……みたいです」
「じゃあ晩飯に丁度いいし、牙もないからやりやすかろう。逃げられないようにゆっくりと近づいてから、一気に仕留めよう」
「では私も魔術を使いましょう。ヴィレム様、クレセンシアも一緒に頑張ります!」
ぐっと拳を握るクレセンシア。
二人での計画が決まると、いよいよ気持ちも高ぶり足も早まる。けれど慎重さは欠かさない。
周囲の様子を確かめながら進んでいくと、ヴィレムはふと付近の木が気になった。皮を剥いだ跡が残っているのだ。
「広範囲に及んでいますし、鹿の食い散らかした跡でしょうか?」
「そうかもしれないね。このひっかいたような跡は角で削ったんだろう。奴らは食いしん坊だから」
付近にはいくつかそういった箇所が見られるから、結構な数かもしれない。
だからといってここまで近づいてから「風読み」で探るのは気取られる危険性が高い。もう覚悟を決めるしかない。
クレセンシアが音を捉えた。それから指で空中に数字を描く。
どうやら十体ほどの相手らしい。ヴィレムは行けると判断すると、少年たちにできるだけ距離を保って付いてくるように告げる。
魔術がそこそこ使えるドミニクは、他の少年とヴィレムの間あたりに位置する。するとオットーもドミニクの近くに移動した。
できの悪い兄の行動にドミニクは苛立ちを覚えたようだが、ここで言い争うべきではないと判断すると、オットーに気付かれないようヴィレムに向かって小さく頭を下げた。
ヴィレムはさして気にせず、クレセンシアと視線を交わす。
音を鳴らさないよう慎重に木陰から向こうを覗く。
――いた。
十体ほどの赤い毛皮で覆われた鹿が草を食んでいる。
その毛の赤さから、血塗られた鹿であると噂された魔物、ブラッドディアだ。その真相は定かではないが、幾重にも分かれた角は、人をやすやすと貫くだけの強度がある。
小型の魔物の中でも小さいほうで、ヴィレムの胸あたりまでの大きさしかない。しかも足は細く心許ないように思われるが、それでも魔物。強い脚力を持っているため油断はできない。
今のヴィレムにとっては丁度よく狩れる上、食肉としても絶品であり、願ったり叶ったりの状況だ。
ヴィレムは飛び出すと、風の魔術を発動させる。
いくつもの幾何模様が彼の正面に現れ、ブラッドディアを圧倒する。
そして発動が早い風の魔術の中でもとりわけ速度に優れる「風刃」が放たれた。
まだ敵襲に気付かぬ魔物を魔術が襲う。
風の刃は真っ赤な鹿の皮を切り裂き、ますます赤い血を撒き散らした。
すべて首を狙ったはずが、地面に転がり落ちた頭は五つ。それ以外にも二体はもがいているが、頸動脈を断たれておりもはやどうにもならないだろう。
そして残りの三体は刃が角に当たって逸れたため、致命傷には至っていない。好戦的な一体が興奮のままに向かってくる。
ヴィレムはすらりと剣を抜いた。身体強化により上乗せされた脚力でもって一気に距離を詰め、ブラッドディアの首を切り上げる。
鮮血の中、ヴィレムは片手を剣から放して、尻を向けている別の鹿目がけて風刃を放つ。血を巻き込みながら、風の刃は鹿の頭を切り裂いた。
たった一体、残った魔物はなすすべもなく逃げ出す。
ヴィレムがそちらに視線を向けたとき、鹿の頭に槍が突き刺さった。樹上に潜んでいたクレセンシアが、落下とともに槍を突き刺したのだ。
そうして二人は倒れたブラッドディアの群れの中、互いに視線を交わす。二人には血一つ付いていない。あれだけ派手にやれば飛沫が飛んでいてもおかしくないが、風の魔術で体に付く前にすべて払ったのだ。
さあ終わった、帰ろうと、ヴィレムが少年たちを呼びに行くべく振り返ると、そこには駆け寄ってくるドミニクの姿がある。彼の背後には、オットーが付いてきていた。
「ヴィレム様! お気を付けください、先の傷跡、鹿ではありません! 別の生き物の糞が――」
彼の叫び声に混じって、葉が掠れる音。木に付けられていた傷跡は――。
ヴィレムとクレセンシアは駆け出していた。
直後、ドミニクの近くの茂みが盛り上がり、真っ黒な巨体が現れる。ブラックベアーと呼ばれる中型の魔物だ。
通常ならば兵士十数人で打ち倒さねばならない凶悪な魔物を前に、オットーは尻餅をつく。
ドミニクも震えを禁じ得なかった。今にも逃げ出したかった。
それでも、彼には矜恃がある。ここでヴィレムを守れるのは自分だけだという自負がある。
ぐっと膝に力を入れ、剣を抜く。それなりに訓練された構えだった。セドリックの教育の賜物だ。
しかしそれでも、敵が唾液にまみれた野生の牙をむくと、抗える自信は粉々に砕かれた。
いよいよブラックベアーが鋭い爪を振り下ろす。
恐怖に震えるドミニクの前で、鈍い輝きが煌めいた。
「あ……ヴィレム様」
「下がっていろ。俺たちがやる」
ブラックベアーの牙を受け止めていたヴィレム、剣を軽く振ると相手の力を利用して腕を払う。そして敵の体勢が崩れた瞬間、死角からクレセンシアが飛び込んだ。
彼女が突き出した掌で魔術を発動させると、次の瞬間、うねるような業火が放たれた。それはブラックベアーの巨体を飲み込んでいく。
ドミニクが後じさりする中、ヴィレムとクレセンシアは炎に包まれた魔物を見る。
奴はまだ生きている。奴はまだ獰猛な瞳に光を宿らせている!
咆哮が上がった。炎が掻き消え、中から体表を焼かれたブラックベアーが飛び出した。
「シア、やるぞ! 俺の小隊に手をかけたことを、後悔させてやる!」
「はい! 所詮は熊に過ぎないことを思い知らせてやりましょう!」
二人は剣と槍を構え、強力な魔物に闘志を見せつける。トラブルも門出に相応しいとばかりに跳ね返す激しさだった。




