第8話 アクマ
アプリコットは真っ黒な城の前にいた。
アクマが支配しているという古ぼけた城。正統な主を失い、長い間放置されていた場所だと聞いている。今はきっとアクマが住みやすいように改造されてしまったのだろう。アクマの領域に入って以来、アプリコットたちを迎え入れたのはアクマの手下を覗いては、死したものばかりだった。滅んだ村、滅んだ城、滅んだ林に滅んだ川。すべてが闇に覆い尽くされ、当たり前の生き物なんて何処にもいない。
そんな中を、アプリコットとケモノの青年は歩み続け、やっと城にたどり着いたのだった。
「アクマも逃げるつもりなんてないだろうね」
ケモノの青年は言った。
「アンズ姫や精霊と番犬、そしてオレがそうであるように、アクマもまたすべてを君に任せようとしているのかもしれないよ」
以前ならばそんなわけはないと一蹴していたことだろう。
しかし、ケモノの言葉を裏付けるように城門はひとりでに開いた。まるでアプリコットを招き入れるかのように追い風は吹き、背中を押す。
「行こう。アプリコット。アクマが待っているよ」
歩み出すケモノ。その後を追ってアプリコットは城へと踏み込んだ。
――ねえ、あの風鈴。今年も鳴った?
その途端、誰のものか分からない声がアプリコットの耳元でささやかれた。
周囲を見渡しても、誰もいない。城の中にはアプリコットとケモノの青年以外のものなんて何処にもいない。隠れていたとしても、耳元で聞こえるなんてありえない。
きっと気のせいだ。
そう思うことにして、アプリコットはさらに進んだ。
廊下は長いが、形はほとんど歪んでいる。
きっともともとは立派な絨毯に目がちかちかするほどの装飾で彩られていたのだろう。しかし今は、色も失せ、黒一色の世界しか広がっていない。この場所で色があるのはアプリコットただ一人。ケモノの青年もまた黒の世界に飲まれてしまっているかのようだった。それでも、彼の姿だけは浮いて見えて、見失うなんてこともなかった。
「こっちみたいだよ、アプリコット」
ケモノに案内されて進み、アプリコットは廊下のつなぎ目を乗り越えた。
――来年の夏も同じように聞けるのかな。
また、あの声が響き渡る。しかしもう惑わされてはいけない。アプリコットはそう思って声を無視して歩み続けた。
長い廊下の壁には肖像画がかけてあるようだ。
しかし、どんな絵をしていたのかなんて分からない。アプリコットの目に映るのは、一面黒で塗りつぶされた絵ばかりだ。その中を幽霊のように消えかけながら進むケモノにぴったりとくっついて、アプリコットは再び廊下のつなぎ目を超えた。
――同じ学校に進んだら今日みたいにまた過ごせるんだよね。
ふと、アプリコットは立ち止まり、後ろを振り返った。
何もない。何も見えない。どんなに目を凝らしても、今通ってきた道がどんな形をしていたのか全く分からなくなっていた。
吸い込まれそうな闇に呆然としたまま、アプリコットは立ち尽くした。
「アプリコット、こっちだよ」
ケモノに声を掛けられて、アプリコットは我に返った。
背負っている「きおくのたてごと」に少しだけ触れ、勇気をもって進み続けた。
「ここが最後」
ケモノの青年が指示したのは廊下の奥に存在する果てしなく大きな扉だった。
この先に、アクマはいる。
開けようと手を伸ばすアプリコットに、ケモノの青年は小声でそっと告げた。
「ねえ、アプリコット――」
しかし、もう遅かった。
アプリコットが触れた途端に扉は自然に開いてしまい、王の間は目の前に広がってしまったのだから。
その先に座ってこちらを見つめるのは真っ赤な目をした異形の人物。アプリコットとケモノをじっと見つめつつも、彼は少しも動かずにその訪れを待ち続けていた。
恐る恐るアプリコットが近づくと、その人物はやっと口を開いた。
「ようこそ」
どこか哀愁の漂う声だった。
アプリコットの訪れをある種の諦めと共に受けいているかのよう。黒の中で目立つ真っ赤な目を光らせて、その人物は語る。
「私が――私こそが、アクマ。君の訪れは知っていた。いつかは来てしまうだろうとわかっていた。それは避けられない未来の話。私にとっても、そして君自身にとっても」
「アプリコット!」
ケモノの青年が悲鳴を上げた直後、王座付近からアプリコットめがけて真っ黒な電撃が放たれた。
避ける間もなくその電撃に貫かれ、アプリコットはもだえ苦しんだ。逸れることなく心臓を貫く電撃。普通ならば即死してしまうだろう。
しかし、アプリコットは違った。電撃のもたらしたのはただの苦しみではなかったのだ。左胸を抑えたまま、アプリコットは呻いた。膝をつき、むせながら、ぽたぽたと床に落ちる自分の汗を眺めていた。汗だけではない。もはや止められないくらいの涙が零れ落ちている。
頭の中で響くのは誰かの悲鳴。複数のもの。名前を叫ぶ声に、べとべとの手。助けてという言葉とどうしてという言葉、そしてごめんなさいという言葉が何度も何度も繰り返された。
――ごめんなさい。
アプリコットは繰り返した。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
思い出せるのは断片的な記憶だけ。それでも、アプリコットは知っていた。これが、もう届かない謝罪であるのだということを分かっていた。
夏の初め。風鈴の鳴る部屋の中。
一人の少女は呆然としていた。
それは偶然の事だった。ずっと学校を休んでいたその子のために託されていたプリントを届けにきただけのはずだった。ついでに謝ろうと思っていたのだ。
友達じゃないなんて言って、彼女を深く傷つけた。
許してくれてもくれなくても、一言謝りたかった。
しかし、少女を迎え入れたのは思ってもいなかった光景だった。
ベッドの上。漂う臭気。目に飛び込んでくるのは一面の赤と、銀色に輝く果物ナイフ。開かれたままの目には涙があふれたまま時を止めていた。そのほかの姿なんてもう記憶にとどめていたくない。それでも、彼女は目を逸らせなかった。
これは自分への罰なのだ。求められていた手を、伸ばされていた手を無視して、そのまま逃げてしまっていた罪に対する罰なのだ。
ああ、しかしどうして。どうして。どうして彼女は死を選んでしまったのだろう。
「アプリコット、ねえアプリコット」
もがき苦しむアプリコットに身を寄せて、ケモノの青年は語りかけた。
「君は悪くない。たしかに君は酷かったかもしれないけれど、君だけが悪いんじゃない。悪いことが重なってしまったんだ。君だけが思い悩むことはないんだ。どんなに自分を責めたとしても『あの子』は帰ってきたりしない。君にできるのはただ、生き残っているものとしてこれからも生き続けることだけなんだ」
それでもアプリコットの苦しみは治まらない。
だって、その子が死を選んでしまった原因を思い出しそうになっていたから。
しかし、アクマがすっと手を挙げた瞬間、急にアプリコットは苦しみから解放された。
「苦しかったかい? そんな思いをするのはもう嫌だろう?
アプリコット。私に任せなさい。私ならこの世界と共に君を守ってあげられる。暗闇に包まれて何もかも忘れて過ごすんだ。そうすればもう苦しまないで済む。
いいかい、アプリコット。その『きおくのたてごと』に触れた瞬間、今以上の苦しみが君に圧し掛かってくるだろう。そして君がすべてを思い出してしまったとき、このアマレット王国を含む世界は消滅してしまうんだよ。分かるかい、アプリコット。私の言っている意味が分かるかい?」
もう痛まない胸を抑えたまま、アプリコットはアクマを見つめた。
その脳裏に浮かぶのは、さきほどの苦しみと脳内を駆け巡った光景ばかり。全てを思い出したとしても、苦しみから解放されることなんてないだろう。むしろ、罪の重さに耐えかねて潰れてしまうことだってあるだろう。
この、世界は。
アプリコットは思い知った。
彼女は昔、アプリコットではなかったのだ。
アマレットの魔法使い。いつの日からか当り前だったアイデンティティさえも今や崩れていこうとしている。
もしも「きおくのたてごと」を弾けば、残るアイデンティティの欠片すらも粉々になって消え失せてしまうのだろう。
すべては自分が決めること。ここに来てやっと、アプリコットはその意味を理解した。
「アプリコット」
ふと隣にいたケモノの青年が語りかけた。
「もう分かったね。君はオレでオレは君なんだ。君の苦しみはオレの苦しみ。オレの苦しみは君の苦しみ。その竪琴を弾いた時、君はもう完全にアプリコットではなくなってしまい、この世界も崩壊する」
それはケモノとの別れも意味する。
アマレット国王。アンズ姫。泉の精霊。番犬。彼らもまた分かっていながらアプリコットを進ませたという。ならば、彼らは何者だったのか。
少しずつ理解していき、アプリコットはたじろいだ。
「それでいいんだアプリコット」
アクマは言った。
「真実を受け入れるだけが正解ではない。このままアマレット王国の住人として過ごせば、君はアプリコットのままでいられる。もしもすべての記憶を放棄するというのなら、私もこれ以上闇を増やすなんてことはやめよう。だから、忘れなさい、アプリコット。忘れるんだ」
「決めるのは君だ。アプリコット」
ケモノの青年が囁いた。
「真実を想いだし、アプリコットではなくなるのか。それとも、このまま手放して、アプリコットのままでこの世界に生き続けるのか。君が……ほかの誰でもない君が決めるんだ、アプリコット!」
震えつつ、アプリコットは背負っている竪琴へと手を伸ばした。
触れた瞬間、竪琴は淡く光りだし、まるで生き物の脈拍のような振動がその手に伝わってきた。抱えてみれば、頭の中には譜面のようなものが浮かび上がる。その通りに奏でたならば、きっと自分はアプリコットではなくなるのだろう。そんなことを想いつつ、アプリコットは迷っていた。
「どうするんだい、アプリコット」
頬杖をつきながらアクマは訊ねた。
「苦しむとわかっていながら、それを弾くというのかい?」
そしてアプリコットは決断した。




