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第7話 さいごのおもいで

 泉の精霊は何と言っていただろう。

 とても大きくて凶暴な番犬、だっただろうか。

 精霊の姿はとても小さかったけれど、彼女からみればアプリコットでさえもとても大きい部類に入るだろう。だからというわけではないけれど、実際に待ち受けていた番犬の姿は、アプリコットが覚悟していたよりもずっと大きくて驚いた。

 真っ黒い姿はケモノの青年にもよく似ている。しかし、ぎょろりと開かれた黄色い目は、ケモノの青年とは全く違って睨み付けるようにアプリコットの姿を映していた。

 その姿にはすでに警戒心が込められている。

 泉の精霊の言葉を忘れてしまえば、このまま逃げ出したくなるくらいの光景だった。

 しかし、アプリコットは勇気を出して番犬の前へと足を踏み出した。


「気を付けて、アプリコット」


 ケモノの青年にそっと心配されながら、アプリコットは慎重な動作で番犬に近づき、短く気取らない言葉で挨拶を述べてみた。

 しかし、番犬の警戒心は全く解けない。人語も話さずにアプリコットを睨み付け、どこか黄ばんだ太い犬歯を見せつける。四肢は太く、汚れた爪は非常に鋭い。もしも襲われたりすれば、アプリコットの命も終わってしまうだろう。

 それでも、アプリコットは信じて前進した。アンズ姫が、そして泉の精霊が、自分をここへとやったのだから。そっと手を伸ばすと、番犬は低いうなり声をあげ始めた。今にも噛みつきそうな牙。こんな事情を抱えていなかったならば、いくらアプリコットでもとっくに離れていただろう。

 けれど、アプリコットに逃げ出すことは許されていなかった。


「アプリコット――」


 ケモノの青年の声掛けを無視する形で、アプリコットはその手を番犬の鼻先に置いた。

 その途端、電撃のようなものがアプリコットの全身を駆け巡った。目の前に浮かぶのは、番犬の恐ろしい顔ではなく、どこかで見たことのあるような光景。だが、その形はどうしてもはっきりとしない。ただ色だけが映るのみ。

 白。黒。黄色。茶色。銀色。金色。そして埋め尽くすような赤。

 けれど、その色が何を意味するのか、アプリコットには全く分からなかった。分かろうとすると、急に頭が痛み、心が苦しくなり、涙があふれてしまいそうになるのだ。

 何だろう。とても大切なことを、忘れてはいけないことを、自分は捨ててしまっている。

 アプリコットはそんな思いに駆られた。


「アプリコット」


 ふと、非常に低い声が響き渡る。

 ケモノの青年の声ではなく、目の前にいる番犬の声だった。猛獣の唸り声に混じって、はっきりとした人語――ここアマレット王国の言葉で、彼は話し始めたのだ。

 その黄色い眼に浮かぶのは威圧的なもの。威嚇をしていた時とはまったく分からないけれど、それでも敵意を感じなくなったのは確かで、アプリコットは少しだけ安心した。


「勇気ある少女よ。お前の望み通り、泉の精霊への供物を渡そう」


 手を離すように鼻先で促されてそうすると、番犬は天に向かって吠えた。

 すると、アプリコットの目の前に黒い煙があがり、ぽとりと誰かが落としたように髑髏は現れた。慌てて両手で受け止めると、番犬は犬の顔のままにやりと笑った。


「ドラゴンの髑髏は精霊にしか使えない。彼女に使わせなくては『きおくのたてごと』の力も解放されない。だが、よくよく考えるといい。アマレット王女も精霊も、お前にあれを弾かせようとしているようだが、果たしてそれがアマレット王国だけではなく、この世界すべてのためになるのかどうか」


 不可思議なことを述べて、番犬は三角の耳をぴんと立て、尾をゆらりと揺らした。


「決めるのはお前だ。そのケモノも私もおそらく気持ちは同じだろう。お前が選ばれし者ならば、すべてはお前の判断にゆだねるしかない。だが、アクマについては後悔せぬようよくよく考えることを進めよう。あれが何故、世界を闇に包もうとしているのか、その意味を知ってから竪琴を弾くがいい」


 まただ。

 ケモノの青年と同じように、番犬の彼もまたアクマをさほど悪く思っていない。魔物の類だからだという単純な理由ではないだろう。

 じゃあ、どうしてだろう。どんな事情があって、彼らはどっちつかずの立場にいるのだろうか。

 今のアプリコットにはどうしても分からない。分からない以上、進んでいくしかなかった。


 泉へと戻ると、精霊はすぐに表れた。

 ドラゴンの髑髏を手渡すと、心労をねぎらいつつもきちんと礼を言い、すぐさまその髑髏を泉の中へと落としてしまった。

 驚くアプリコットに対して、泉の精霊は言った。


「待っていて。すぐに終わるわ」


 直後、泉の精霊の表情から急に幼さが消えた。

 外見だけは可愛らしいままなのに、その眼、その動き、その全身から伝わってくるものが、がらりと変わってしまったのだ。手を合わせると、その間に泉よりも輝かしい杏子色の光が生まれていく。それに共鳴するように、泉全体も同じ色に染まり始めた。

 厳かな雰囲気に包まれる中、泉の精霊の言うとおり、さほど時間も経たないうちにそれは現れた。


 竪琴。

 非常にシンプルで、それでいて美しい形をしている。弦を弾けばきっと素晴らしい音が響くのだろう。しかし、弾くべきときは今ではない。

 泉の精霊の背丈ほどもあるその竪琴を受け取ると、精霊はにこりと笑った。


「弾くべき時が訪れれば、どんな音色を奏でるべきか、あなたにしっかり伝わるでしょう」


 そう言って、精霊は少しだけ悲しそうな顔をした。


「番犬から聞いたのでしょう? 彼の言うことも本当よ。でも、あなたを信じてこっそり頼んだアマレット国王と姫君は、すべてを分かったうえであなたの背中を押したの。あなたにはどれだけ分かっているのか知らないけれど、わたしも同じよ。

 最後に決めるのはあなた自身。アクマと向き合って真実を知ってから、その竪琴を弾くか弾かないか決めるといいわ」


 そう言ったきり、泉の精霊も姿を消してしまった。


 こうして「きおくのたてごと」は手に入った。

 勢力を伸ばし続けるアクマの領域はそんなに離れてもいない。地図に刻まれたその場所を目指して、あとはただ突き進むのみ。

 アクマとはどんな姿をしているのだろう。

 本当はどういう人格を持っていて、その目的はどういうものなのだろう。


 精霊の住む泉を離れて進むアプリコットの足元で、ケモノの青年は風に消えては再び寄り添うように現れて行く先を見つめていた。


「ねえ、アプリコット」


 彼は言った。


「アクマと出会う前に、また親友の話を聞いてくれるかい?」


 歩きながら、この先がどんな未来かも分からない中で、ケモノは淡々と思い出を語りだした。


「あれは、夏に入る頃だった。親友の遊び仲間を名乗る連中がオレを呼びに来たんだ。嫌な予感はその時からしていた。でも、断る理由もなくてついて行ってしまった。そこで見たのは何だろう想う? ねえ、アプリコット、何だと思う?」


 アプリコットは黙ったまま進んだ。

 先へ、先へと進んでいった。アクマが何なのかを早く知りたかった。そして、ケモノの話に向き合うのが怖かった。早く終わらせたかった。早く楽になりたかった。しかし、ケモノの言葉は遠慮なくアプリコットの耳に入り込んできた。


「親友はね、暴行されていたんだ。奴ら、彼の事が気に入らないからって遊びで暴行するような連中だったんだよ。力に支配され、うずうずしていたんだろうね。自分たちの力に屈してボロボロになる彼の姿が面白くて仕方なかったんだろうね。本当にどうしようもない連中だった。けれど、ねえ、アプリコット。オレも……オレもそのくずの一人に過ぎなかったんだよ」


 泣いている。

 そんな気がしたけれど、ケモノの目はやはりどこにあるかもわからない。その涙ははっきりとは見えず、ただ寂しげな雰囲気が漂っているばかり。

 しかし、それよりもアプリコットは怖かった。

 その話を聞き続けるのが怖かった。


「彼は助けを求めていた。暴行に耐えている中でオレの姿を見て、天使がきたかと思ったかもしれない。助けてくれるかもと期待しただろう。でもね、オレは天使なんかじゃなかったんだ。自分でも気づかなかったけれど、オレは悪魔に過ぎなかった。

 連中はオレに訊ねてきたんだ。なんて訊ねてきたと思う? ねえ、アプリコット。なんて訊ねてきたか君には分かるかい?」


 その記憶に浸っているのだろうか。

 他人事のようには聞こえないのはなぜだろう。アプリコットは逃げるように歩き続けた。アマレット王国を救おう。アンズ姫の願いを叶えよう。わざわざ自分に言い聞かせて、ケモノの青年の話から無意識にでも逃げようとした。

 だが、それは敵わなかった。


「『お前はコイツの友達なのか?』ってさ」


 ――あんた、コイツの親友なんだって?


 違う。そんな記憶はない。

 アプリコットはついに頭を抱えてしまった。

 自分はアマレット王国の魔法使い。長い間、師匠のもとで修業をし、独り立ちをしてからはたった一人きりで魔法の修行に明け暮れた。

 そうだ。その記憶だってある。ありえない出来事が偽物の記憶となって惑わしてきているだけだ。


「オレは答えたんだ」


 ケモノの青年の経験は自分の事ではない。自分の事ではない。


「『違う。友達じゃない』ってね」


 ――自分の事ではないんだ。


 何故、自分は泣いているのだろう。

 アプリコットは放心していた。

 アクマの領域まで遠くはない。城に踏み込めば、きっとアクマはアプリコットを待っているだろう。しかし、泣いている自分に気づいたとき、アプリコットは急に不安に駆られた。このまま進んでもいいのだろうか。アクマを滅ぼしてしまっていいのだろうか。


「アプリコット」


 ケモノの青年が問いかける。


「君は取り返しのつかないことをしたことはあるかい?」


 それはアプリコットには重たくて、重たくて、全身の血が抜けてしまいそうなくらいの眩暈を生み出すものだった。

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