第6話 きおくのたてごと
その泉はアマレット王国の者ならば誰でも知っているような泉である。しかし、噂には聞いていたとしても、多くの者は直接足を運んだりしないだろう。近隣には町どころか村もなく、精霊の守る領域の周りは魔物や猛獣のうろつく深い森の中なのだから仕方ない。
しかし、誰も知らないような場所を目指す旅人は違う。彼らは身の危険を顧みない。大きくて途方もなくて他人から見れば馬鹿馬鹿しいとさえ思われてしまうような目的の為ならば、成し遂げられずに死んだとしても構わないという感覚だろう。アプリコットには理解しがたいことではあるが、しかし、そんな人々の存在が今の彼女の旅を手助けしているのは確かだった。
精霊の泉はこの先。
アマレット王国の言語で書かれた立て看板は、誰かが取ってつけたかのようなものだった。こんな辺鄙な場所に来てまで悪ふざけをするような者はいないだろう。それに、心配せずともアンズ姫から受け取った地図やコンパスは看板の正しささえも指し示していた。
旅人が立てた看板だ。近寄る必要もないのに、見たくて仕方のない誰かが足を踏み入れ、志を同じくする者の為に残していったのだろう。
「面白いねえ。来るかも分からない他人の為に立て看板だなんて」
アプリコットの足元に現れたケモノの青年は言った。
「でも、そのお陰で君も自信を持って付き進めるわけだから感謝しないとだね」
ケモノの青年の言う通りだとアプリコットはつくづく思った。
地図とコンパスがあれば不要と思う者もいるかもしれないが、それは人の為に作られた町の中だけのことで、特に目立つものもない森や林の中ばかり歩けば、こういった案内は非常に有難いものなのだ。特に、アプリコットは旅慣れしているわけではないものだから、この看板がなければきっともっと迷っていた可能性だってある。
だからこそ、この立て看板をつくった名も知らぬ有能な向こう見ずには感謝せざるを得ないのだ。
立て看板の案内の通りにアプリコットは歩きだした。ケモノもまたそれに続く。足元にぴったりと寄り添って共に歩く姿は、まるで主人に従う猟犬か、甘え上手な猫のようだ。
しかし、その相手も疎かに、アプリコットは泉を目指した。
そう遠くはないというのは本当だった。
木々の間を歩き続けてしばらく、突然泉は現れたのだ。
「此処が……その泉か……」
ケモノの青年が感嘆の声を漏らす。
アプリコットに至っては、泉を目にしたままの体勢で固まってしまっていた。
精霊の住む泉。
ここは古くからそう呼ばれている。
ただのいわれなどではなく、本当に精霊が住んでおり、自然界の方面よりアマレット王国と歴代の国王に力を貸してきたのだと言われている。
この場所に神通力のあるものが硬貨を投げ入れると、小さくて美しい精霊が姿を現し、話を聞いてくれるのだとか。そんないわれのある泉は、アプリコットがかねてより想像していたよりもずっと狭くて小さいものではあったが、その分、美しさと神秘さは想像以上のものであり、あらゆる魔法や魔物と向き合ってきたアプリコットでさえも、迂闊に近づけないほどのものだったのだ。
周囲の緑と微かに入りこむ日光が合わさり泉の水とぶつかって反射し、何とも言えない神聖な雰囲気を生み出している。耳を澄ませば聞こえるのは鳥や虫の声と水の音。息を吸えば澄み切った清水の匂いと味が鼻孔をくすぐり、口の中一杯に広がっていく。
「さて、ついに辿りついちゃったんだね」
感動から我に返ったケモノがアプリコットに向かって言った。
「覚悟はいいの? 『きおくのたてごと』を受け取る準備は出来てる?」
出来ていないなんてことがあるだろうか。
アプリコットはこの時の為に用意していた硬貨を取り出し、手のひらの中で転がした。硬貨はさほど高値のものではないが、彫られているのはこの泉の精霊とされる肖像画だ。
古めかしい髪型に、やけに整った横顔。男なのか、女なのか、あまりはっきりとしてはいないらしい。
せっかくここまで来たのだ。投げないなんてもったいない。
アプリコットが硬貨を投げると、キンッという甲高い音が一瞬だけ響き渡り、直後、着水する聞き心地のいい音が辺りに響き渡った。
硬貨は一枚で十分だと聞いている。もしかしたらケチ臭いと文句の一つでも言われるかもしれないが、家を離れ旅をしているアプリコットにしてみれば、無理にいい顔をして後で困るよりもずっと、ケチ臭いと貶されてでも安全行動を保つ方がいい。
「あら、それを言われちゃあ、どんながめつい精霊も何も言い返せないわ」
響き渡ったのはうら若き少女の声。
何処となく気が強そうな印象を抱かされるその声は、間違いなく小さな泉から聞こえてきていた。
ケモノが鼻先を泉へと向ける。その鋭い嗅覚で泉を暴こうとし始めると、急に泉が光り出し、水の中から何かが生み出された。
とても小さくて、それでいてしっかりとした身体を持つものへ。
透明だったはずの水はすぐに色を取得し、瞬く間に服を着た少女の姿へと変わっていく。そして、彼女の目に魂が宿り、長い眠りから醒めたかのように欠伸をする頃には、大地を飛び回る有限の時を生きる妖精のように存在感のある姿となっていた。
水色の衣に身を包む愛らしい顔の小さな少女。ふわふわと宙を漂いながら、硬貨を投げ入れたアプリコットをじっと見つめている。
その正体について、彼女が何か言う前より、アプリコットには察しがついた。
――泉の精霊。
「そ、あたしが泉の精霊。本当はお金になんて興味ないの。どっちかというと、人間たちがわざわざあたしの絵を描いて硬貨にまでしたっていう事実が嬉しいってだけだから」
そう言って、泉の精霊はにこりと笑う。
「アプリコット、たしかそう言う名前だったかしら? 次期女王が予知した魔法使い。『きおくのたてごと』に選ばれ、アクマを倒せる立った一人の少女」
品評するかのようにアプリコットの廻りをぐるぐると飛び回り、その目を何度も覗きこんだ。
「なるほど。アンズ姫もいつの間にか立派な予知が出来るくらい大きくなったということね。人間の成長って本当にあっという間よね」
くすくす笑いながら泉の精霊は飛び回る。その姿は大変愛らしいが、どこか威圧感がある。きっと、果てしなく長く生きていると言われていたからだろう。
アプリコットは緊張で高まる気持ちを静めながら、泉の精霊に改めて挨拶をした。
ケモノの青年を紹介しようとして、ふとアプリコットは気づいた。彼はすでにどこかしらへと消えてしまっていたのだ。きっと影の中のどこかに潜んでいるのだろう。
「あなたのことはもちろん知っているわ。『きおくのたてごと』を受け取りに来たのでしょう?
でも、生憎、あれをただであげるわけにはいかないの。渡す日は来ているけれど、今のあなたが本当にその器かを試さなくてはならないのよ。いいかしら、試させてもらっても」
試す。その言葉を受けてアプリコットにただならぬ不安がよぎる。
てっきり行けば貰えるものだと思っていたからだ。しかし、そう甘くはないのだろう。覚悟を決めて、アプリコットは恐る恐る頷いた。
「そ。じゃあ、試させてもらうわ」
そう言って、泉の精霊はふわりと飛んだ。
指し示すのは深くて暗い森の奥。怪しげな獣と鳥の声が響き渡る不気味な場所だった。
「あの向こうに森の番犬がいるの。とても大きくて凶暴な番犬。わたし以外には簡単には気を許さない番犬よ。彼には髑髏を預けてあるの。大昔にこの辺りで悪さをしていたドラゴンのものよ。それを彼から預かって、ここまで持ってきて下さらない?」
話だけ聞けば簡単そうな試験ではある。
しかし、そうではないのだろうとアプリコットは分かっていた。
下手をしたら番犬に食い殺されるなんてこともあり得るのだから。
「そう心配しないで。あなたが確かにアプリコットなら大丈夫なはずよ」
言い捨てるようにそういうと、欠伸を噛み殺しながら泉の精霊は消えてしまった。
どんなに呼びかけたところで、ドラゴンの髑髏とやらを持ってこない限りは出てきたりしないだろう。アプリコットはため息を吐いた。
彼女の言うことが確かならば、心配なんてないだろう。
けれど、やっぱりちょっと怖い。
「番犬だって。物騒だねえ」
いつの間にかアプリコットの足元にはケモノの青年が現れていた。
見上げてくる彼の姿を見つめると、少しだけアプリコットも安心した。彼と一緒なら、まだ勇気を出して会いに行けるかもしれない。
歩み出すアプリコットにぴったりと付き添いながら、ケモノは窺うように声をかける。
「行くんだね。『きおくのたてごと』をやっぱり貰うんだね。きっとあの泉の精霊の言っていたことは正しいと思うよ。番犬は怖いかもしれないけれど、君だったら大丈夫。でも――」
言いかけたまま、ケモノは口を閉じてしまった。
アプリコットは不思議だった。まるで彼はアクマを倒してほしくないかのよう。きっと気のせいだと思うけれど、もしかしたらアクマの手下にあたるような生き物なのではないだろうか。そんな不安までも押し寄せてくる。
だが、アプリコットは特に何も言わなかった。直接的に彼が自分の邪魔をしようとしたことは一度もない。ただ話しかけてくるだけ。そんな彼を無下にすることなんてできるはずもなく、アプリコットはただ彼のしたいようにさせるしかなかった。
歩きながら、ケモノの青年は再び口を開いた。
「ねえ、番犬のところにつくまで、話をしてもいい?」
アプリコットが促すと、ケモノはすぐに語りだした。
「親友の話なんだけれどね、遠巻きにいざこざを目撃した数日後、今度は二人きりで話せる機会があって、故郷の想いでの丘で夕日が沈むまでずっと語っていたんだ。
やっぱり二人でじっくり話すと幼い頃の記憶が蘇ってきてね、現在仲のいい友人たちとは違った楽しさと懐かしさがあるんだ。だったら、どうしてだろうね。なんでオレはあの時、彼を助けてやれなかったんだろうか。そう思うと罪悪感でいっぱいだった。
でもね、彼はオレと会っている間、一言もトラブルについて話したりしなかった。ただ一緒に過ごして、お互いの懐かしい思いでと今、この場で広がっている瞬間を語り合うばかりでさ、トラブルになっている連中や数日前の事も全く話そうとしないんだ。それで、オレも結局聞けないまま終わってしまった」
――ああ……。
アプリコットは胸がぐっと締め付けられるような思いに駆られた。
ケモノの言っていることが他人のこととは思えない。どうして、何故、何が、彼の話す言葉に込められているのだろうか。
まどろこっしいことではない。もっと直接的に、似たような話を聞いたことがあるのだ。
いや、聞いたことがあるといっていいのだろうか。
「ねえ、アプリコット」
ケモノの青年が見上げてくる。その何処にあるかも分からない目さえも、アプリコットには正面から受け止められなかった。
「君だったら、わざわざ聞いたりする?」
自分だったらどうしていただろう。
その答えを見つけるより先に、目的地は見えてきた。




