第2話 ケモノ
昨日と同じような風、昨日と同じような音。
アプリコットの家の周りをまさに昨日と同じような世界が取り囲んでいた。
そして灯りの傍で椅子に座るアプリコットは、昨日と同じように木々の間をじっと見つめていた。その視線の先にいるのは、昨日と同じケモノ。魔法を見て満足して帰ったはずのケモノの青年が、再びアプリコットを訪ねて現れたのだ。
「何をしに来たの? って顔をしているね」
苦笑を浮かべながらケモノの青年は言った。
「別に何でもないんだ。ただ、ちょっと人恋しくなってさ。君が話してくれないのなら、オレの方が世間話でもするよ。昨日は思い出せなかった話、聞いてくれるかい?」
突然の事だったけれども、アプリコットは頷いた。
彼に悪意は感じられない。それはアプリコットの持つ並々ならぬ魔法の感性からも十分伝わってくる。どうやら本当にただ人恋しくなっているだけのようだ。
「よかった。じゃあ、聞いておくれよ」
そう言ってケモノの青年はその場に座り込んだ。
「昨日の昼間、二羽の兎を見たんだ。とても仲が良さそうでさ、片方が何処かへ行けばすぐにもう一羽がついて行くっていうのを何回も繰り返していた。微笑ましい光景なんだけれども、どうやらこの二羽は兄弟姉妹ではないらしくてね、親友同士なんだってさ。
いいよね、親友。一緒にご飯を食べたり、一緒に河原で遊んだり、一緒に野原を駆け回ったり、一緒に空を見上げたり、もちろん、兎だから危険も多い。怖い思いもしてきたらしいけれど、二人一緒に乗り越えていくらしい。そういう親友」
ケモノの青年の話がアプリコットの脳裏に浮かぶ。
愛らしい姿の二羽の兎。時折、家の傍を走っていくところをアプリコットは見たことがあった。兎にも親友というものがいるのだと思うと微笑ましい反面、ふと、何かが心につっかえた。
――親友。
その言葉が妙にアプリコットの頭に引っかかる。
「ねえ、アプリコット」
ふと、ケモノの青年がアプリコットに問いかけた。
「君には親友っているのかい?」
青年の声がアプリコットの頭の中でこだましていった。
次の日、アプリコットは暮れゆく窓辺を眺めていた。
昨夜のケモノの問いに対し、結局アプリコットは黙り込んでしまった。
答えられなかったわけではない。親友について薄らと話すくらいなら、魔法使いの掟にも引っかからないはずだった。ただ、親友と聞いてふと思い浮かべた人物について話そうとしたとき、その話題が唇から外に漏れだすのを拒んだのだ。
何故だろう。アプリコットは急にその人物について話したくなくなった。ケモノの青年が不審だと思ったからではなく、単に話したくないとはっきり思ったのだ。
どうしてあんなにも嫌だと思ったのだろう。
その日、常にそのことが頭を過ったものの、アプリコットには理由らしきものがつかめなかった。
そして昨日、一昨日と同じ時刻、やはりあのケモノの青年は現れた。
その姿を見つけてすぐに外に出ると、ケモノはやや驚いた様子でアプリコットを見つめた。
「やあ、どうしたんだい? 少しオレに慣れてきた?」
答えないでいたものの、ケモノは朗らかに笑った。
きっとその眼がはっきり見えたならば、穏やかに細められているのだろう。
「追い返すわけじゃないよね。それならよかった。今日もオレの話を聞いてくれるかい?」
アプリコットは恐る恐る肯いた。
同時に様々な疑問が頭をよぎっていた。
このケモノは何者なのだろう。人恋しいといっていたけれど、本当にそれだけの理由で自分に会いに来ているのだろうか。今日はどんな話をして、どんなことを問いかけてくるのだろう。
不安だけではなくある種の期待のようなものも生まれている。
さまざまな思いを抱え込んだまま家の外の椅子に座ると、ケモノの青年もその場に座り込んだ。
「今日はとてもいい天気だったね」
ケモノは話し始めた。
「この森の生き物たちも昨日よりもさらに活発的だったよ。小鳥たちもよく歌うし、鹿やウサギも楽しそうに跳ねていた。
君はどうしていた? ……昨日とあまり変わらない? まあ、そこはオレと同じだね。オレも晴れていようが曇っていようが、毎日あまり変化のない日々を送っているんだ。
でもね――」
ふとケモノの表情が暗くなる。
「でも、昔は違ったんだ。
昨日、親友同士の兎の話をしたよね? オレにも昔は親友がいたんだ。子供の頃の話さ。何処へ行くにも一緒。時には危険なことをして一緒に母親に叱られたこともあったっけね。毎日楽しかったし、変化ばかりの日々だった。変わらないとすれば、その親友との関係だけ。そう信じていた頃もあった。
だけど、大人に近づくにつれ、オレたちは別の道を歩むようになっていた。些細な分かれ道を好きな方向に進んだ結果だと思っている。本当にいつの間にか、オレとその親友は遊ぶこともなくなってさ、いつの間にか全く違うものたちと全く違う生き方をしていた。
後悔はなかったし、その頃にはそういうものなのだと納得していた。それが大人になるということなのだって分かっていた。
それでも、時々、ふとした瞬間に子供の頃の思い出がよみがえって、無性にあの頃に戻りたいと思うことがあったんだ。あまり気にしていないはずなのに、変だよね。懐かしくて、寂しくて、苦しいんだ」
青年の淡々とした言葉が沁みこんでくる。
アプリコットもまた何故だか懐かしくて寂しい気持ちになった。
漠然とした昔の記憶の断片が蘇ってくるような気がしたのだ。
「ねえ、アプリコット」
ケモノの青年の何処にあるか分からない目が、アプリコットを真っ直ぐ見つめている。
「君もこんな気持ちになる時はある?」
とりとめもない質問。
それなのに、アプリコットはすぐに答えることが出来なかった。
ある、と一言告げればいいだけのこと。しかし、素直にそう言えなかったのには理由がある。いつ、どうして、ケモノの言うような気持ちになってしまうのか分からなかったからだ。
親友と仲良くしていた戻らない過去の記憶を懐かしんでことだろうか。
しかし、アプリコットは気付いていた。
その親友とは一体、誰だっただろう。どんな顔をしていて、どんな性格で、どんな経験を共にしてきたのだっただろう。
思い出そうとしたけれど、うまく思い出せない。
仕方なしにアプリコットは黙ったままその質問を殺してしまった。
さらに次の日、懲りもせずにケモノの青年はまた現れた。
アプリコットがどんなにうまく答えられなくとも、構わないらしかった。ただ話を聞いてくれる相手を探しているだけだったのだろうか。
そうだとしても、アプリコットはそれでも構わなかった。拒む理由なんてない。不安にもなるし、戸惑うこともあるけれど、ずっと一人で魔法の修行ばかりしてきたアプリコットにとって、ケモノの青年の訪れは新しい刺激であり、気分転換に違いなかった。
ケモノの青年はとりとめもない話をした。
その日の夜までに何処にあるかも分からないその眼で見つめてきたものごとについて話し、アプリコットにも同じように訊ねる。
アプリコットもそれに応じて自分の見てきたものをぽつぽつと降り出す小雨のように話し出した。出会って四日目ともあって、少しはこのケモノに慣れてきたせいかもしれない。
ただ、話してみてアプリコットは驚いた。
思っていたよりもずっと、目的もなく人に何かを話すということが楽しかったためだ。
「ね、楽しいでしょう? 何の目的もないし、意味もないかもしれないけれど、心が少し楽にならない?」
ふとケモノの青年はアプリコットに訊ねた。
確かに彼の言うとおり、心が軽くなった気がした。これまで重たかったのにすら気づかなかったけれど、身体がふわりと浮いてしまいそうなくらい活き活きとした気持ちになったのだ。
それでも、アプリコットはすぐに気持ちを落ち着けた。
いくら楽しくても、そればかりに浸ってはいられない。
浸るという行為がアプリコットは怖かったのだ。
――でも、何故?
何故だろう。その理由がつかめない。
「そういえば、昨日の話の続きをしてもいいかな」
ふとケモノの青年が口を開く。
「オレに親友がいたという話。実は続きがあってね。ただ接点がなくなって遊ばなくなっただけではなくて、彼はいつの間にか旅に出てしまったんだ。気づいた時にはもう旅立った後でね、聞いた話ではその時につるんでいた仲間と揉め事があったらしくて、どうも故郷にいられなくなったのだとか。
気の毒だし、さすがに少し寂しかった。でも、同時に心のどこかで呆れてもいたね。その仲間内にいられなくなったのなら、思い切ってオレたちのところに来ればよかったのに、って。そうすれば、故郷を離れる必要もなかっただろうしさ」
何故だろう。アプリコットは疑問を感じた。
ケモノの青年と似たようなことを思った記憶があったのだ。しかし、どんなに思い返そうとしても、具体的にどういう状況だったのか、いつのことだったのかを思い出せない。
あれは、何処で、誰と、何をしていた時に思ったことだっただろう。
アプリコットは考え続けた。
「ねえ、アプリコット」
ケモノの青年の言葉が頭に響く。
「今の君はどう思う?」
今の自分はどう思っているのだろう。




