第10話 杏
目を覚ました瞬間、杏は生まれ変わったかのような気分になった。
まるで、これまでの灰色の世界に色が加えられたかのよう。
強すぎる光を厭っていたはずなのに、すぐにカーテンを開けずにはいられないくらい、杏の心身はうずうずとしていた。
カーテンを開けた途端、太陽の強い光が杏の全身を照らしたけれど、これまでのように嫌な気持ちにはならなかった。かざした手から見える血潮も、前のように気持ちの悪いものではない。不思議なくらい、杏の心は昨日までと変わってしまっていた。
窓を開けるとそよ風が入り込み、窓辺に掛けられていた風鈴を揺らす。そして、非常に長い間封じられていた懐かしい音の響きが生まれた。それを耳にした瞬間、杏の目からは涙がこぼれていった。頬を伝っていくその熱い滴の意味を受け止め、杏は静かに考え込んだ。
思い返せば悲しさと後悔ばかりだった。
無力さを嘆き、何もかも投げ出したいという気持ちでいっぱいだった。
けれど、もう終わりだ。
風鈴の音に導かれ、杏はふと歩き出した。
締め切られた狭い部屋のなかには、たくさんの思い出が封印されている。もう呼び起こすことはないだろうとさえ思っていたけれど、それではいけないと今の杏は思っていた。
封じられていた机の引き出しを開ければ、その奥に写真が隠されている。どの写真の笑顔で、それぞれに大切な思い出がつまっている。今はもう戻らない時間。自分の過ちで未来の可能性すらも失ってしまった。その後悔を杏は忘れない。
――忘れてはいけない。
杏は数枚の写真を手に取った。
今はもうどこにもいない大切な人と共に映った小学生の頃の写真。写真でしか残っていない記憶。罪悪感から逃げようとし続けてきた思い出のつまったもの。そのすべての封印を解き、殺風景となっていた自分の部屋を彩り始めた。
忘れてしまってはいけない。蔑ろにしてはいけない。そんな思いが杏の中に芽生え、見る見るうちに枝を伸ばし始めていた。
幽霊というものがもしもいるのならば、彼女は自分を許してくれるだろうか。
杏は考えた。しかし、すぐに結論を出すのをやめた。許してくれたとしても、くれなかったとしても、杏にできることは決まっている。
親友は親友なのだ。今も昔も親友なのだ。気付くのは遅すぎたし、もうどうしようもないかもしれないけれど、せめてこれからは堂々と彼女を偲んだっていい。
現実から逃げる時間は終わったのだ。
――君の名前は杏。
もう、アマレット王国の魔女アプリコットではない。
一瞬だけ聞きなれた幻想の声が響いた気がしたけれど、杏はすぐに気を取り直した。幻想は幻想。眠っているときだけに向き合えばいい。
そして、杏は扉を見つめた。
あの事件以来、ほとんど出たことのなかった扉。固く閉ざされ、家族ですら入ってくるのをためらっているあの扉。閉じられたまま、様々なものと共に守ってくれていたあの扉。
扉に頼り切る時間も、もう終わったのだ。
杏は震える足をどうにか制して扉の前に立つと、同じく震え続ける手を恐る恐る伸ばして、ドアノブに手をかけた。




