第9話 ほんとうのきおく
初めて会った時から何処か気の合う友達だった。
楽しかった学校の思い出の殆どは彼女と一緒だったと思う。そのくらい仲が良くて、日が暮れるまで遊んだ。たくさん遊んだだけに喧嘩もしたはずなのに、そんな記憶はあまり蘇ってこない。思い出せるのはいつだって一緒に笑いあった楽しい記憶ばかりだった。
それなのに。
アプリコットは「きおくのたてごと」を弾いた。
頭に浮かぶ譜面は不思議と指に馴染み、初めて聴いた気もしないどこか懐かしくて切ない旋律を流し続けている。竪琴の音の一つ一つは光となり、アクマの支配する黒の空間のあちらこちらに引っ付いた。それと同時に、アプリコットの脳裏にはさまざまな思い出がよみがえった。
大切なものから、もう一度手放してしまいたいものまで。思い出の光と闇のすべてに翻弄され、歌うアプリコットを包み込んでいく。
そのどれもがアプリコットにとっては大切なものだった。なくしてしまった記憶はパズルように組み合わさっていき、かつては自分の分身かとすら錯覚した親友の幻影へと変わっていく。
あの子だ。
アプリコットは真っ先に思った。
はっきりと形は宿していないし、きっと魂も宿ってはいないのだろう。
それでも、アプリコットには「彼女」の姿が見えていた。
頭に浮かぶ譜面。その通りに指は動き、今も音を奏でている。旋律が表す物語はまさしくアプリコットが辿ってきた物語そのものだった。
本当の両親、本当の友人、本当の恩師に本当の故郷。それらが一気に頭を駆け廻り、アプリコットに涙を流させた。
そして全てを奏で終わったその途端、親友の幻影は光となってアプリコットの目に焼きついた。
「ああ……アプリコット……」
光に包まれる王座にてアクマもまた感嘆の声をあげる。
しかし、その姿はもはや殆ど存在していなかった。
「君は受け入れてしまうんだね。
苦しんでいた君を守りたかった。君はずっとずっと苦しんで、身体だけではなくて、神経もまたずたずただったんだ。君の心は血を流していた。真っ黒い血を流し続けていた。その血は広がりアマレット王国を始めとしたこの世界は生まれたんだ。生まれた時からみんな知っていた。いつか君が覚醒した時、偽りの世界は崩れ落ちていくだろうと。
だから私は守りたかった。この世界を、君を、幻想という名の揺りかごに寝かしてあげたかった」
消えゆくアクマは淡々と語り続けた。
アプリコットはその姿の向こうに亡き親友をみた気がした。同時に、きっと気のせいだろうというある種の諦めも生まれた。本物の親友はきっと自分を怨んでいるだろう。
しかし、アプリコットは――アプリコットでなくなろうとしている中学生の少女は、これでよかったのだと深く思った。
「けれど、もう終わりだ。君は決断した。偽りに揺られて訳も分からず幸せでいるのではなく、敢えて思い出すことで辛い現実を自分の力で突き進むと決めたんだ。
どちらが正しいなんて私には決められない。誰にも決められない。きっと神々にすら決められないだろう。アプリコット……いや、もうアプリコットではない少女よ、私は消える。アンズ姫も、アマレット国王も、そして君に手を貸した精霊も、番犬も、すべては消えていくだろう。そして君の隣にいるそのケモノも例外ではない……。
しかし、君は選んだのだ。君が選んだのだ。誰も逆らいはしないだろう。短かったがさらばだアプリコット。だが、もしも君がまた夢にとらわれたくなったならば、会えることもあるかもしれない」
吸い込まれるようにアクマの声は消え入る。
光に包まれ光に融け、彼の存在はなくなってしまった。そして、光に包まれる王の間もまたほとんど形を失ってしまっていた。
きっと今頃、アマレット王国も同じことが起こっているのだろう。
「アプリコット」
声をかけられ、アプリコットだった少女は横を見つめた。
寄り添っていたケモノの青年が真っ黒な目で少女を見つめている。その表情は読み取りにくいものの、どこか笑っているようにも見えた。
「オレにはアプリコット以外の名前が分からないから、アプリコットでいいよね」
そう言ってから、ケモノは言った。
「消える前に君には言っておくよ。オレは君の作りだした妄想に過ぎないかもしれない。所詮、妄想と思うかもしれないけれど言わせてほしい。君と一緒にいてとても楽しかった。この数日間、君と過ごした時間は忘れられそうにない出来事だったよ」
ケモノの体もまた光に包まれ始める。
消えていこうとしている。気づいた少女は慌てて手を伸ばし、その背中を撫でた。ふわりとした触り心地に温もり。幻だなんて信じられないくらい、彼はそこにいた。
しかし、消えていくのだ。自分が決断したから、彼も消えてしまうのだ。
「そう、君は決断した。現実で生きていく君にとって足枷に過ぎないオレたちは消えていくしかない。けれどね、アプリコット。これはお別れなんかじゃないんだ。前もいったでしょう、オレは君であって、君はオレなんだ。オレたちは君の心の一部。君が生きている限り、アマレット王国もこの世界もここではないどこかに存在し続けるだろう」
本当だろうか。
少女は泣きそうになりながらケモノの背中に抱きついた。今までこんなことは一度もなかった。ケモノと出会ってからしばらく経つけれど、触れたことはあっても抱き着いたことは一度もなかった。
だからだろう。ケモノは少々照れてから少女に囁いた。
「白状するとね、オレは君が好きだった。他人とは思えなくて……そりゃそうか。放っておけなかっただけじゃなくて、君が好きで一緒にいたのさ。変だよね、幻のくせにさ。でも、もしも君がこの世界の住人として居続けるのなら、君に告白しようと思っていたんだ」
驚く少女にケモノは恥ずかしそうに苦笑してみせた。
「でも、オレは幻だから、君がもし受け入れたとしても、本当の意味では結ばれなかったんだろう。これから君は現実で生きて、現実の人と結ばれていくんだろうね。だからこれでよかったんだ。
アプリコット。これから先、もっと辛いことがあるかもしれない。もしかしたら、今度こそ何もかも忘れてしまいたくなる日が来るかもしれない。その時はまた会おう。そして、またゆっくりと決断すればいい。オレたちは君を裏切らない。君自身だから裏切れない。だから今は安心して、勇気を出して踏み出してごらん」
背中を押すような言葉だった。
決めたのは自分だけれど、まるで促されていたかのよう。けれど、少女にはもう後悔なんてなかった。ケモノは自分の心の化身。そう思えば、この別れはちっとも寂しくない。
少女は思い出してみた。
アマレット王国のアプリコットだった生い立ちを思い出してみた。
思い出せば思い出すほど、その疎らさに気づかされた。国の歴史も、成り立ちも、アプリコットの生い立ちも、師匠や家族、親友との思い出も、すべてがとって付けたかのような思い出ばかりだった。
それもそのはず。本当はそんな事実はなかったのだから。
「アプリコット」
光に包まれながらケモノの青年はその鼻先を少女の頬へと近づけた。
もしも彼が人間の姿をしていたならば、きっとそれはそれは甘酸っぱい光景となっていたことだろう。
少女は惚けていると、ケモノの青年はまるで人間のようににこりと笑った。
「さようなら、アプリコット。君の幸運を影ながら願っているよ」
別れではないと彼は言った。ならば、涙を流す必要なんてないだろう。……ないはずなのに、少女の目からはずっと涙が流れていた。別れと錯覚した悲しみなのだろうか。それも何処か違う。まるで安心していた世界から新しい世界へと生み出されるように、少女は涙を流し続けていた。
言うなれば生まれてくる時の涙のようだった。
ケモノの青年はそんな少女を切なげに見つめながら、そっと瞬きをした。
真っ黒な目。何処にあるのかも分からなかったけれど、光に包まれた今となってはよく分かる。とても綺麗な目。少女は素直にそう思った。
名残を惜しむように頬をすり寄せると、ケモノの青年は言った。
「きっと君がいつか結婚する相手は、オレのような人物なのかもね」
いよいよだ。
光は容赦なくケモノの青年を包みこみ、そしてその姿を融けさせていく。ゆっくりと時間をかけているようにも思えたし、逆に、残酷なほどあっという間にも思えた。
少女が抱きしめるのはやがて光のみとなった。
「愉しかった。ありがとうね、アプリコット」
それが彼の最期の言葉となった。




