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スッキリと役柄情報が出揃ったとは全く思えなかったけれど、翌日……いや、その夜から早速あたしの身代わり令嬢生活がスタートする事となってしまった。
第一の試練は、あたしの令嬢らしからぬ艶の無い髪とあちこち荒れている肌、とりわけ手のひび割れあかぎれを、メイド達にどう納得させるかである。お着替えの際は時間に追われていたせいか、ドリスがさり気なく隠していたせいか、ラーラやカレンは気が付いていなかったようだが、これから先もずっと隠し通す事は難しい。
身分ある令嬢に限らず人前に出る職や仕事を目指す女の子にとって、美容法云々というのは孤児院に身を寄せていた時分に、いかに重要度の比率が高いのかを、またその手法もシスターから伝え聞いてはいたけれど、働き詰めの貧民であるあたしが自分の美容に力を入れられる手段は限られていた。
今回のお仕事を受けるに当たり、おとーさまがスカウトしに来た際、アーウェルおにーさまに似たあたしの風貌だけでなく、身に着けている物を含め全身を眺め回して痛ましげに目を伏せていたおとーさま。服だけでなく肌荒れに効く軟膏も渡してくれてはいたけれど、たった三日かそこらの馬車移動の期間だけでは、どんなに丹念に塗り込もうが真冬の水仕事で割れたあかぎれが完治するはずもない。
しかし、これはわざわざ夕食後に部屋まで送って下さったおとーさまの言によって、メイドさん方から問い詰められる事態は回避された。
「エイプリルは身体だけじゃなく、体質的に肌も弱くてね。少し心労がかかるだけで肌荒れしてしまうんだ。頼んでおいた香油やクリーム、それから軟膏の準備は出来ているかな」
「こちらに」
「これまでのクリームは、蜂蜜が入った物が一番エイプリルの肌に合っていたから、なるべく蜂蜜入りの物にしておくれ」
「かしこまりました」
蜂蜜って普通、食べるものと違うの? もったいなーい……
当たり前のような顔をしてドリスに指示を出していたおとーさまは、クルリとあたしの方に振り返った。
「エイプリル、お母様が亡くなった傷心からお前がしばらく塞ぎ込んで食が細り、肌の手入れすら放棄してしまったのは仕方がない」
どうやら、お母様が亡くなったショックによりあたし演じるエイプリルお嬢様は長いこと田舎で泣き暮らしていた、という設定らしい。
「だが、お披露目が済めばエイプリルにも大人と同等の振る舞いが求められる」
「はい、お父様」
「病弱なお前に無理はさせたくないと、これまでは甘やかしてきてしまったが、明日から先生について令嬢として恥ずかしくない知識と技術を学ぶように」
「当家の名に恥じぬよう、精一杯学びます」
そろそろ、シスターから教わった『おハイソな言葉遣い』のストックが切れてきた。あたしとて、勉強の必要性は大変強く実感している。
お辞儀をしておとーさまを見送り、あたしはラーラとカレンの二人がかりで風呂に入れられる事となった。
「確かに何枚も長手袋が引き出しに入っていましたけれど、こんな……」
お湯が満たされた浴槽につかるあたしの両手を見て、カレンは痛ましげに瞳を潤ませた。
「いったい何をしたら、こんなにボロボロになりますの?」
単なる炊事と洗濯だよ。なんて、本当の事は言えないけどさ。
ラーラは呆れ返ったように呟きつつ、あたしの手が湯でしみないよう柔らかい布で覆って浴槽の縁に置き、浴槽の外に垂らした髪の毛を洗い始めた。ちゃんと洗って丹念に梳れば、淡い金色に輝く髪は、あたしの唯一の自慢だ。アーウェルおにーさまと同じ色合い、という辺りもラッキーだと思う。
さて、何で手が荒れているのか、何て説明しよう。うーん。確か、マクレガー伯爵の領地は国内でも北方で、南にある保養地でも今の季節には雪が降るんだっけ。
「ふと窓の向こうを見てみたら、雪が積もっていたの」
「ええ」
「アンジェリーナお母様が亡くなる前、雪が降ったら雪遊びをする約束をしたのよ。
気が付いたら庭に出て、雪を触っていたわ。わたくしが手を真っ赤に腫らして雪まみれでいたから、わたくしを迎えにいらしたお父様も驚いていらっしゃったわね」
「……お嬢様、お身体をお大事になさって下さいまし。
思い付きでフラフラと外出なされれば、私どもが叱責されます」
「ええ、もうしないわ」
頭が痛い、とばかりに念を押してくるラーラに即答し、あたしは花の香りがする湯の中で頷いた。お湯に浸けられていたら、何だか自分がスープの具になったような錯覚を覚える。カレンがマッサージの準備が出来たと告げてきて、お嬢様の風呂とはまだ続くものなのか……と、早くも嫌気が差してきた。
どうやら、既に煮込まれていると思っていたけれど、まだ茹でて柔らかくしただけでこれから下処理をして下味を付けられる段階だったらしい。美味しいスープにならなきゃいけない身は辛いわ。
茹だって気分が悪くなった状態で風呂から上がり、絞った果実を垂らした水を飲む間にドリスに丹念に軟膏を塗ってもらってから長手袋を身に着け、寝台に入る。
夕方まで眠っていた身ではあるけれど、思った以上に風呂場でのあれこれが非常に疲れた。
「明日の午前中には仕立屋が、午後からは家庭教師の先生がお見えになられますからね。明日から忙しくなりますよ」
「ええ、頑張るわ」
「ごゆっくりお休みなさいませ、お嬢様」
「お休みなさい」
ドリスに髪を撫でられているうちに、あたしはストンと眠りに落ちていた。
翌朝、ドリスによって揺り起こされたあたしは、カレンが厨房からワゴンを押してわざわざあたしの部屋にまで運ばれてきた朝食を寝台の上で頂いていた。お貴族様とは、朝食は寝台に運ばせて食べるものらしい。
つまり、使用人の人達って屋敷の主人達よりも早起きしなきゃならないんだ。
「カレン、わざわざありがとう。朝早くて大変じゃない?」
「今までよりも早起きしなくちゃならないから、少し起きるのが大変ですけど……ご奉公する上で当然の事ですから」
ちょっと眠そうなカレンも、やっぱりお人形さんのように可愛らしい。パチパチと目を瞬いて、眠気を醒まそうとしている。
「そう言えば、カレンって幾つなの?」
「わたくしは先月、十一になりました」
下町の貧しい家ならばもっと幼い頃から働きに出るものだし、あたしが孤児院の世話になりつつ街の劇団に下働きとして働かせてもらう交渉をしたのは八つの歳で、孤児院が潰れてからは屋根裏に住み込ませてもらっていた。エイプリルお嬢様も、初夏に行われる十四歳のお披露目を済ませれば大人としての振る舞いが求められる、とおとーさまが言ってたように、働き始める年齢としてはそうおかしくはない。
ただ、何というかカレンの所作はお嬢様付きメイドだけあって粗雑なところが見当たらない。お金に困ってはいない良い所のお嬢さんだったとすると、奉公に出るにはカレンの年齢は年若いのではなかろうか。
「その年で奉公するようになった理由を尋ねても良いかしら?」
「隠すような事でもありませんから」
そう言って、あたしが朝食を食べる間にカレンが話してくれた内容によると、何でもカレンはマクレガー伯爵家の遠縁に当たる下位の貴族家出身であり、主家であるマクレガー伯爵家で数年間奉公をして行儀作法を身に付けた後には、王宮侍女として推薦してくれる約束になっているのだという。
何の経験もなくただの下位貴族として志願するよりも、上流貴族であるマクレガー伯爵家での奉公経験や、『この娘は優秀だよ』という推薦を得ていた方が、王宮でも信頼されて初めから良い勤め先に配属されやすいらしい。つまり、現在のカレンは下積み期間という訳だ。
だけど……あれ?
下積みを積むという事は、王宮侍女に相応しい行儀作法をカレンに対して指導している人物がマクレガー伯爵家に居る、という事になる。それは当然、シスターから教わった事しか知らないメッキお嬢様なあたしに期待されてる仕事じゃない。
出身家の階級は低いとカレン自身は言っていたが、貴族の一員には違いない彼女を、伯爵夫人が既に亡いこの家でいったい誰が指導していると言うのだろうか。
「エイプリルお嬢様、お食事がお済みでしたらお召し替えを」
カレン本人にそれを尋ねる前に、予定が詰まっていますよとドリスに急かされて、あたしは優雅かつ急ぎで着替えを済ませ、エイプリルお嬢様の服を仕立てる為に朝一番で呼び出された仕立て屋を出迎える事となった。
貴族の令嬢に相応しい服、という物が何なのか、あたしにはよく分からない。劇団でも服飾関係はまだ勉強前だったが、お貴族様にとって、流行という物が大事だという事だけは知っていた。他は知らない。
そんなあたしが一人でドレスやら普段着を依頼出来るはずもなく、「屋敷に置いておいたもう袖を通した衣装だけれど、サイズが合うようならワードローブに加えて」と、追加舞台衣装として数着のドレスと長手袋を持っていらしたアーウェルおにーさまが、ドレス注文応援として応接間に現れていた。そしてやっぱり着られなくもないけれどサイズが大きいわ、おにーさま。それにこれ以上はもう、手袋は要らないわ、おにーさま。
「大奥様をお招きせず、アーウェル坊ちゃまがエイプリルお嬢様のドレスをお見立てなさるのですか?」
「いけない? お祖母様はお部屋でまだお休みされているし、何より兄としては可愛い妹に似合う服を選びたいじゃないか。
大丈夫、これでもレディ方の流行は把握しているよ。僕に任せてエイプリル」
「ありがとうございます。頼りにしております、アーウェルお兄様」
ドリスは渋い顔をしていたが、アーウェルおにーさまは自信満々に請け負った。アーウェルおにーさまの背後から後光が差して見える……
それにしても、今アーウェルおにーさまは、おばーさまが云々って言った? 貴族の屋敷を統括する女主人が居ないのは不思議だな、って思っていたけれど、実はおとーさまとおにーさま以外にもこの屋敷には住人が居たらしい。
「ところでお兄様、お祖母様とはわたくし、まだご挨拶をしていないのですが……」
別室で採寸を終えたあたしは、テーブルの上に広げたドレスのデザイン画にあーだこーだと注文をつけていたおにーさまに、恐る恐る確認してみた。
昨日は屋敷に到着するなり休んでしまったし、夕食を食べてまたすぐに眠ってしまって挨拶をした使用人の数も少ないが、流石に『お祖母様』なる存在を無視していてはマズいだろう。
そう思って確認したというのに、アーウェルおにーさまは動きを止めて幾度か瞬くと、ふんわりとした例の柔らかい笑みを浮かべた。
「別に良いんだよ、エイプリル。焦らなくても同じ屋敷に住んでいるのだから、会う機会なんて幾らでもあるしね」
「ですが」
食い下がろうとするあたしの発言を遮って、アーウェルおにーさまはデザイン画をテーブルに置くと、片腕であたしの肩を抱き寄せ、耳元に唇を寄せてきた。
「お祖母様は反対なされているんだ。だからせめて、君がお祖母様の納得のいくレディになってからでないと」
小声で早口に囁かれたその内容に、あたしはビクッと肩を震わせた。マクレガー伯爵家の人全てが、身代わり計画に賛同しているのではないのならば、あたしは契約半ばで追い出されてしまう可能性がある。
そうなればきっと約束した報酬は貰えず、隣国……この国よりも南方に位置するあたしの生国とはまた異なる、東国に建つ大きな劇場で女優として雇い入れてもらうという推薦の話も立ち消えてしまうに違いない。
季節はまだ、ちらほらと春めいてきた時期。お披露目が行われる初夏まで時間があると楽観的に考えていたけれど、もしかすると全く時間が無いのかもしれない。
招いた仕立て屋さんは王都における亡きおかーさま御用達の方々で、おかーさまや本物のエイプリルお嬢様の好みに沿うデザイン画をたくさん持ち込んでいた。春服や夏服など、超特急で衣装を仕立ててもらうようおにーさまは笑顔で大量に依頼し、昼食を共にする。
その席で、気になっていた事をあたしはズバッと言ってみた。
「アーウェルお兄様、また手袋を仕立てるよう注文を出していましたね。もうこれ以上は不要なのではありませんか?」
「手袋とドレスのコーディネートが合っていなかったら、見苦しいだろう?
エイプリルにはしばらく手袋を身に着ける必要があるのだから」
あたしの手は、真面目に働いてきた手であって、決して恥じるようなものではない。だけど、一流の女優を目指す上ではもっと自分の手に気を遣うべきだったと、遠回しにやんわりと責められているようで、あたしは手袋に包まれた自分の手をテーブルの下に引っ込めた。
けれどアーウェルおにーさまはカトラリーを置くと、あたしに自分の両手を差し出し見せてくる。
「ほら、僕も数年前から剣の稽古をつけられるようになって以来、ずーっと怪我やまめやら剣ダコだらけ。
公の場では僕も手袋を身に着けるから、お揃いになるね」
おにーさまなりの励ましか何かなのだろうか。その時はそう思ったけれど、食後チラリとドリスが呟いていた独り言によると、「エイプリルお嬢様は以前から、いつお見掛けしても手袋をされていらっしゃいましたものね」だそうだ。それで、昨日の着替えでさり気なくラーラやカレンから遠ざけ隠していたのは、手袋の下に隠していたい何かがあるのではないか、とドリスは推察していたらしい。
屋敷に長く勤める使用人とも、あまり接触が無かったと言われるエイプリルお嬢様にも、おとーさまやおにーさまが把握していないだけで、実は交流がある人物が居るかもしれない。今後とも慎重に行動しなくては。
ともあれお陰で新しい情報が手に入った。
元々、時折この屋敷を来訪していた本物のエイプリルお嬢様は、偶然ドリスが遠目に見掛ける機会があっても、彼女は必ず手袋をはめていたようだ。手袋が趣味だったのならばそれで良いが、まさか本物の手にも隠したい痣だとか、そんな何かがあったのだろうか? いや、身代わりバレの真偽に関わる重大情報なら、おとーさまが教えてくれてるはず。多分。
しっかしおにーさまってば、舞台衣装に本物の趣味を反映させたいのならば、そう言ってくれれば良いのに。
昼食を終えてアーウェルおにーさまを見送った後はいよいよ、家庭教師の先生との顔合わせだ。
貴族はもちろん、平民でも知識階級だとか富豪だとか土地持ちだとか、そういった上流に属する階級にあたる人々の認識からすると、淑女とはそもそも働くものではない。今、あたしの身の回りのお世話をしてくれている淑女も淑女である貴族令嬢なカレンも、労働をしているのではない。名目はあくまでも『行儀見習い』だとか『主家への奉仕=ご奉公』だ。
あたしから言わせてみれば働いてるのと同義なのだが、まあそんな普遍的認識がまかり通っている上流の世界で、仕事として賃金を得ても淑女として認められるほぼ唯一の職業が、家庭教師なのである。他の職に付いて糊口を凌ごうとすると、もうその女性は淑女ではなく労働階級のオバチャンだ。上流の認識酷い。
因みに女優を目指しているあたしは、高貴な人々の認識で言うと娼婦である。春をひさいでいなくとも、そういう目で見られる職種なのだ。
……つまり、何が言いたいのかと言うと、淑女の体面に凝り固まった性格悪いいけ好かないオバハンが家庭教師の先生になったらどうしよう、というしごく真剣な悩みだ。
乗馬鞭で叩くとか、体罰的な感じの人は嫌だ。
「エイプリルお嬢様、家庭教師の先生がいらっしゃいました」
逃げるつもりは毛頭無いが、悶々と悩んでいるうちに、ラーラが家庭教師の先生を部屋に案内してきた。その姿を見て、あたしはうっかり醜態を晒しかけ、慌てて表情を引き締める。
「お初にお目にかかります、レディ・エイプリル」
ラーラに先導され、現れた家庭教師の女性は、背筋をピンと伸ばした姿勢の良い態度で、ハキハキと挨拶を寄越してくる。
高い詰め襟でモスグリーンの『野暮ったい』ドレスに、一筋の乱れもなく後頭部に纏め上げた栗色の『野暮ったい』引っ詰め髪。顔の半分を占める分厚いレンズの眼鏡は瓶の底のようで顔立ちをほぼ隠しており、その瞳の色さえ窺えない。
全体的にとにかく『イモ』。何しろ顔が半分しか見えないので、年齢は二十代にも四十代にも見える。
巷に流布している陳腐な『これぞ嫁き遅れ家庭教師』のイメージを、むしろわざと体現してんじゃないかと思わず勘ぐってしまうその姿。
うっかり吹き出しそうなところを耐えたあたし、偉い。
「わたくし、本日よりレディ・エイプリルの家庭教師を拝命いたしました、ジンジャー・メイヒューと申します。
精一杯務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します」
「ええ、こちらこそ今日からよろしくお願い致しますね、ミズ・メイヒュー」
既婚者なのか未婚なのかすらよく分からなかったので、ひとまず『ミズ』で呼び掛けてみたら、ミズ・メイヒューの瓶底レンズの影から右側の眉が額近くにクイッと姿を現わした。
何か間違っただろうか、と内心不安に思うあたしに、ミズ・メイヒューはズバッと指摘してくる。
「レディ・エイプリルの発音……僅かですが、南部の訛りがございますね?」
「まあ、これまで特に言及された事がありませんが、分かりますの?」
あたしは内心冷や汗をかきつつ、おっとりと小首を傾げてみせた。
近隣国家間で公用語とされている言葉は全て同じ言語である為、言葉が通じなくて困った経験は無いが、地域によっては独特の訛りや言い回しが出てくる。
あたしは南部の国の出身だが、礼儀作法やお嬢様な言葉遣いを指導してくれたシスターがこの国の生まれだったので、発音に関してはかなり矯正されていた自信があったのに。やっぱり、一度身に付いたものは簡単には変わらないらしい。
「亡きお母様が雇った乳母が南部の出身でしたの。わたくしはあまり、人と関わらない暮らしを送ってきたものですから」
「社交界では、微細な違いをつついてくる者もおります。
少しずつ、レディらしい発声も身に着けていきましょう」
あたしの口から出たウソ八百の出任せに、ミズ・メイヒューはこっくりと頷いて早速授業内容を検討し始める。
……さて。問題は、あたしの読み書きレベルはお貴族のお嬢様としてお粗末な出来ってトコだけど。
貧乏な貧民ならかなりの学力でも、あたしぐらいの年頃の貴族のお嬢様がスラスラ読み書き出来ないのって、なんか大問題な予感がするわ。
ミズ・メイヒュー、怒り出さないかしら?