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ずいぶん配慮して貰えているからと、助長してしまいやらかした感がある。
そのままのエイプリルで良いんだよ、としか言ってくれないアーウェルおにーさまの理想とする『レディ・エイプリル像』がどんなもんかは分からないままだけれど、役柄から大きくはみ出てしまえば契約を切られてしまうのはこっちの方だ。
午後の容赦ないダンスレッスンのお蔭でフラフラになりながら晩餐を終えたあたしは、自室で着替えさせられながらドリスに相談してみる事にした。
「ねえ、ドリス。わたくしが甘えて我が儘ばかり口にするものだから、お兄様をご不快にさせてしまったようなの。
アーウェルお兄様と仲直りするには、どのように謝罪したら良いかしら?」
「あら、アーウェル様と喧嘩なされたのですか?」
「喧嘩……というほど派手なものではないわ。お兄様のご機嫌が斜めで、わたくしに笑いかけて下さらないの」
しゅん、としおらしくうなだれて力なくドリスに訴えていると、さっきまであたしが着ていた晩餐用のドレスをクローゼットに持って行きながら、ラーラは呆れた眼差しをチラッとこちらに向けてきていた。
ハッハー。あの目つき、『いたいけなお嬢様のフリなんかしても、私は騙されませんよ!』って目だな!
ドリスによると、アーウェルおにーさまは毎日晩餐の後は自室で次期領主としての勉強をしているらしい。
途中で休憩を入れてさしあげたらどうか、と助言を貰ったので、早速ラーラを引き連れて厨房に足を運んで温かいお茶の準備を調え、ワゴンに乗せておにーさまのお部屋にまで運んでいく。お嬢様は自分で物を運ばないので、ワゴンを押すのもアーウェルおにーさまのお部屋に先頭するのも、ラーラだ。
どうやらおにーさまのお部屋は、あたしに用意された居室と中庭を挟んで向かい側の棟の、より奥まった場所にあるようだ。
「お兄様、エイプリルです。
お茶をお持ちしましたの。少し休憩なさってはいかが?」
部屋の扉をノックして声を掛けると、おにーさま付きの従者君が扉を開けてくれた。
「こんな時間に、兄妹とはいえ男の部屋を尋ねるものではないよ、エイプリル」
「わたくしとお兄様が仲良くしていて、何の問題があって?」
机に向かっていたアーウェルおにーさまは、部屋に招き入れてくれながらも苦笑気味に窘めてくる。
ま、本当は血の繋がった兄妹じゃないから、おにーさまも敢えてああ言ってるんだろうけど。周囲は普通に仲の良い実の兄妹だと思ってるから、多少遅い時間にあたしをおにーさまの部屋に向かわせても問題無いと思ってるんだよね。
「お茶の支度をしたの。
一緒に休憩にしませんか、アーウェルお兄様?」
ラーラが押すワゴンを指し示して誘うと、おにーさまは手にしていた書類を置いてソファーに移動してきた。
「もちろん、ラーラが淹れたお茶だよね?」
「いいえ、わたくしがお兄様に淹れて差し上げますのよ」
胸を張って茶器を揃えておにーさまの前に置くと、アーウェルおにーさまは露骨に不安そうな表情になった。なんだ、そんなにラーラのお茶が好きかおにーさま。
今回用意してきたティーポットからカップに注ぐお茶は、時間帯が時間帯なので眠れなくなると困るという事で、ドリスの勧めに従ってリラックス効果があるというハーブティを準備してきた。いつも飲んでいる紅茶の明るい茜色とは異なる、薄い萌黄色のお茶から、馥郁とした香りが立ち上る。
「良い香りだね」
「味よりも香りを楽しむお茶ですから」
「ああ……」
あたしの説明に、アーウェルおにーさまはやたらと得心がいった表情で頷く。……何が言いたい、おにーさま? あたしでは普通のお茶を美味しく淹れられないから、飲み慣れないハーブティで誤魔化しているとでも?
おにーさまの従者君にも休憩してもらおうと、隣室の控え室のテーブルへお茶と軽食をラーラに持って行くよう指示を出し、あたしはおにーさまと向かい合わせでソファーにポスンと腰掛ける。隣室で存分に、こき使うお互いの主人の愚痴を語り合うが良いさ。
「それで、急に僕の部屋を尋ねてきたのは、何か困り事でもあった?」
「いいえ、単なるご機嫌伺い」
ゆっくりとお茶の香りを楽しんで、一口カップを傾け。それからおもむろに尋ねてくるおにーさまの姿に、貴族の優雅なティータイムにおける間の取り方を心の中の参考書に記しつつ、あたしはあっけらかんと告げた。
「わたくしとお兄様は、共に過ごした時間が少な過ぎて、まだお互いの事が理解しあえていないわ。
知らず知らずのうちにお兄様のご不興を買ってしまっても、笑顔の下に隠されては、わたくしでは分からない。だからはっきり仰って下さい」
「何を?」
「今日、わたくしはお兄様を怒らせる言動を取ったのでしょう?
何がいけなかったのか、具体的にスパッとお願いします」
おちょくるような言動が駄目なら慎むし、お兄様の意向に真っ向から反発してはいけないのなら、きちんと箱の中のお人形に徹しよう。そういった主旨を匂わせ、困惑を訴える。
あたしは雇われてこの人の妹を演じているのだから、制限や線引きがあるのならばそれを明言しておいて欲しい。
「……違うんだ、エイプリル。僕を置いて出掛けるのはなるべく控えて欲しい、というのが本音ではあるけれど。
だけど、言っただろう? 『君は、君のままでいて良いんだ』と」
おにーさまはカップをソーサに置くと、あたしと目線を合わせて、指を膝の上で組んだ。
「僕も父上も、君自身の人格や、人柄や、思想、誇りと矜持、将来の夢、大切にしたいと思っている事、幸福……そういった君という一人の人間を形作り育んできたものを、強制的に壊したりねじ曲げたくはないんだ」
親も知らない貧しい孤児のあたしに、そんなご大層なものがあっただろうか?
怪訝な気持ちが表情にでていたのだろう。おにーさまは隣室の二人に聞こえないようにやや身を乗り出して声を潜め、囁いた。
「例えば君が、女優として大きな舞台に立ち、様々な役柄を演じたいと願っている、君の大切な夢の事」
「お兄様はわたくしに、何を求めていらっしゃるのか、ますます分からなくなってきたわ」
女優としての成功を祈ってくれている一方で、大事な王子様の妻となり支える人生を願う。両立しない道筋を、矛盾しているとは思わないのだろうか。
「そう? エイプリルがヴィンセント殿下に嫁げば、派手な舞台で日常的に演じていくようなものだし。それに、『エイプリル』ではない君が東国での女優生活を選んでも、僕にとっての君は、これまでもこれから先もずっと、たった一人きりの妹だ。
小生意気で口達者、毎晩こっそり夜更かしをして、本当は身体を動かすのが好きなお転婆なのにいつも深窓の令嬢猫を被っている、そんな可愛い妹。
君の幸せを兄である僕が願って、何がいけない?」
何だか色々とツッコミところが多かったが、口を開いたあたしがそれを指摘するよりも先んじておにーさまの手がクッキーを摘み、あたしの口元にそれを押し込んできた。チョコチップクッキー美味いです。
これまでもこれから先も、『レディ・エイプリルのふり』をしていなくてもあたしだけがたった一人きりの妹……本物のレディ・エイプリルは、アーウェルおにーさまから妹だと認められていない、という言外の意向を知ってしまったが、本当に本物は何をやらかしたのか。
それに、知り合ってからまだ数日しか経っていないというのに、アーウェルおにーさまはどうしてあたしを簡単に身内だなんて考えられるのだろう。
おにーさまは、次いで不服そうに眉を寄せた。
「だいたい、エイプリルはズルいんだよ」
「えっ?」
「ちゃっかりしてると思ったらしおらしく謝りに来るし、黙々と独りで努力してるかと思えば甘えて来るし、もーっ、妹って本当にズルいっ!」
……何だか、おにーさまがよく分からん事でご立腹のご様子だ。あたしはと言えば、おにーさまが次々とクッキーを押し付けあたしの口に放り込んでくる。こっちからの反論封じですかおにーさま。
「……今日はごめんね。エイプリルがミズ・メイヒューに気に入られて、二人だけで楽しくデートに行きたいだなんて聞かされて、のけ者にされた気分で妬いてしまったんだ。
あの方が女性と親しくなるのはいつもの事だし、僕自身がエイプリルに望んでいた事だったのに。我が儘な兄でごめん」
手を止めずに、ばつが悪そうな表情を浮かべて謝罪してきたアーウェルおにーさまは、ビミョーに気恥ずかしげに視線を逸らした。
じっと目を見つめながら話を聞いていたのだが、なんというか……嘘をつかれて騙されているというより、むしろ何かをさり気なく誤魔化されている、隠されているような気がした。
まあ、本当の事を話せと問い詰めたところで、覆い隠されている真実の見当さえつかないので、『いったい何のこと?』と逆に尋ね返されて煙に巻かれるだけだ。
「アーウェルお兄様。ミズ・メイヒューはお祖母様からとても丁重な心配りを受けていらっしゃるご様子ですし、お兄様もかねてよりの既知のような口振りでいらっしゃいますよね。
ミズ・メイヒューは遠戚に当たる方なのですか?」
なので、ミズ・メイヒューからフェリシアおばーさまのお話が出た時から気になっていた点を尋ねてみた。
ミズ・メイヒューに昨夜直接質問するには、実の孫よりも厚遇されているようねと嫌味を言っているように感じて、不快にさせる危険性を考慮し切り出せれなかったのだ。
「親戚……あまりそういった意識で考えてはいなかったけれど、ミズ・メイヒューは確かに当家と血の繋がりがある方だね。
お祖母様にとっては実の孫である僕よりも、よほど可愛くて大切な我が子以上の存在だと思うよ」
「そ、そうなのですか?」
まさか、アーウェルおにーさまからそうまではっきり明言されるとは思わなかった。男の子よりも、女の子の方が可愛がり甲斐があるとかそういう……?
「お祖母様はお若い頃とある家へ乳母として招かれていて、その家のお嬢様を、自分の息子である父上以上に可愛がって育て上げたらしい」
「えっ、乳母?」
フェリシアおばーさまは、その当時も高位貴族である伯爵夫人だったはずだ。それが、乳母として勤める……貴婦人が働きに出るのはカレンの例をとっても分かるように、より上流に属する高貴な家への奉公か、王宮での勤めぐらいしか無い。
いや、まだフェリシアおばーさまの結婚前はマクレガー伯爵家よりも身分が低い家の出身で、乳母を務めた後におじーさまに見初められて再婚した、という可能性も……
「その家のお嬢様は嫁ぎ先でとても苦労なされたようで、二人のお子様を残して若くして天に召されてしまわれて。
お祖母様は、お嬢様の忘れ形見であるミズ・メイヒューとその兄君を、目の中に入れても痛くない可愛がりようなんだ」
「よ、よほど愛らしく素晴らしいお嬢様だったのでしょうね」
「みたいだね。僕が生まれる前に亡くなられたから、お会いした事は無いけれど」
「あの、お兄様?
もしやミズ・メイヒューは、とっても高貴な家柄のお生まれなのでは……?」
あたしが恐る恐る尋ねると、アーウェルおにーさまは「んー」と、思案げに人差し指を口元に当てた。
「エイプリルも薄々勘付いてるみたいだけれど、『ジンジャー・メイヒュー』というのは偽名で、あの扮装も当家に長く仕えている使用人にはあの方の素顔をよく知られているから、素性を隠す為の対策なんだ」
……なんだ。おにーさまの愛人にされちゃわないよう防止対策の変装じゃなかったのか。
「常に気が抜けない暮らしを強いられている難しい立場の方だから、エイプリルは気付いていないフリをして、『友人であり師であるミズ・メイヒュー』として接してあげて欲しい。
それが、あの方の望みだろうから」
ミズ・メイヒューは、いったいどこの高貴なお姫様なのかは知らないが、大変な暮らしを送っているようだ。
本来の名や立場を知る機会があっても、変わらない態度でいて良いのだろうか。まあ、今のあたしが考えてもしょーがない事だけれど。
「えーいーぷーりーるー」
あたしがうむむ……と、ミズ・メイヒューとの関係をどう構築していくか考えていると、ティースプーンを摘み上げたアーウェルおにーさまが、あたしの頬をそれでぐにぐにとつついてきた。
「お兄様、お行儀が悪いです」
「良いんだよ、今は二人きりなんだからこれぐらいのお茶目は。
さっきから僕ばかり喋って、黙り込むエイプリルが悪い。僕の機嫌伺いだと言うなら、エイプリルももっと話すこと!」
「何をお話ししましょうか?」
見慣れ始めた貴族的ふんわり微笑ではなく、年相応の少年らしい悪戯っぽい、にっ、とした笑みを浮かべてせっついてくるアーウェルおにーさま。孤児院の仲間達ほどの無遠慮さは無いけれど、友達になれそうな人に覚える親近感を、あたしは今夜初めてアーウェルおにーさまに感じた。
本当の家族ではないんだから、距離感が遠くて当たり前だと思っていたけれど、それは歩み寄っていなかったあたしの方にも原因があったようだ。
アーウェルおにーさまは物腰が優雅で、気品あるふんわり微笑の向こうに本心を隠してしまう。けれど、それを取っ払うと、悪戯好きなお茶目少年で、仲間外れにされたと拗ねる甘えん坊な一面もあるようだった。
「そうだな……ほぼ毎晩遅くまで、エイプリルの部屋は窓から灯りが漏れてるけど、毎日何をしてるの?」
む? 内緒でこっそり夜更かしをしていたつもりだったけれど、アーウェルおにーさまには何故かバレていた。お風呂場用の燭台から蝋燭をコソコソ拝借しているから多分、ドリスにもまだ気付かれていないはずなのにっ。
「まあ、アーウェルおにーさまったら。乙女の秘密に迫ろうだなんて、わたくし恥ずかしいわ。
……不覚。いったいどうして完璧に秘匿していた夜更かしがバレてしまったの」
「いや秘匿も何も、僕の部屋の窓からエイプリルの部屋の灯りは丸見えなんだけど」
そう言って、アーウェルおにーさまは机の向こうの大きな掃き出し窓を指差した。バルコニーになっていて、あたしの部屋と同じように中庭に降りられる造りになっている。ん? もしや館内の廊下を曲がってくるよりも、噴水を迂回して中庭を突っ切った方があたしとアーウェルおにーさまの部屋って移動距離近くない?
「明日からは、カーテンの前に分厚いショールか何かをぶら下げておきます」
アーウェルおにーさまは咎めるつもりはないようだが、これが美容に煩いラーラのようなタイプにバレたら夜更かしなんていけませんと叱られ、寝入るまでベッドのそばでドリスに見張られてしまうかもしれん。
「毎晩遅くまで、特別な事をしているのではありませんよ。
わたくしは学がございませんから、ミズ・メイヒューの授業で使う参考書を事前に読み込んで、予習をしているのです」
「……ミズ・メイヒューの授業は、そんなに難しい?」
伯爵家の令嬢に求められる教養水準がどんなもんかは知らないが、伯爵令息に求められる水準よりも低いであろうという予想は簡単につく。あたしには、領主の仕事を学べと言われても全くお手上げだ。あの、数字や細かい字がずらずらと書き込まれた書類は何ですかおにーさま。
「わたくしがこれまで知らずにいた知識を教わっているだけの事ですから。
それにわたくしは、こ……以前暮らしていた場所で親しくしていたシスターから得難い技術を幾つも教わっていて、ミズ・メイヒューから筋が良いと褒められましたのよ」
危ない危ない。教会に併設されていた孤児院で、あたし達の面倒を見てくれていたシスター・ユフィの事を話そうとして、まんま『孤児院で暮らしてた頃』と、口からツルッと出てくるところだった。
シスターは恐らくブリズセリュトのやんごとない身分のお嬢様で、礼儀作法はもちろん、読み書きに算術、果てはお裁縫技術から音曲に至るまで様々な知識や技術をあたし達に教えてくれた、凄い人だった。
どうしても暮らしに追われてしまうから、シスター・ユフィの持つ知識を全て受け継ぐ事が出来た子は多分居なかったけれど、お針子になったり商人見習いになったり旅の吟遊詩人の弟子になったりと、孤児院が潰れても彼女の薫陶を受けたからこそ、仲間達はそれぞれに何とか生活の術を見出す事が出来ていた。
「歴史と数学を学び終えたなら、わたくしはもっと、刺繍技術を磨くつもりですの。再現したい図案があって」
お針子になるつもりはなかったから、あたしはシスターの刺した刺繍の全てを覚えてはいないし、縫い物に関しては基本的な技術しか持ち合わせていない。だけど、刺繍技術が個人を表す固有の物なのだとしたら、彼女の刺した図案があたしにとっての形見になるような気がしたんだ。
「そのシスターは、エイプリルにとって大切な人なんだね?」
「ええ。お母様のような、お姉様のような……シスター・ユフィはとても大好きだった方なの」
「僕もお会いしてみたかったな。エイプリルの大切なシスターに」
おにーさまは多分、あたしが思うよりも察しの良い方なのだろう。さり気なく過去形で語るシスターが、既に故人だと悟っているようだ。
しんみりした空気を振り払うように、おにーさまはニコッと笑みを浮かべてあたしの口にサンドイッチを押し付けてきた。
「良い作品が完成したら、ミズ・メイヒューでも父上でもなくて、真っ先に僕にくれなくちゃダメだからね、エイプリル?
余所の男よりも、まずは絶対に、お兄様である僕が優先されないと」
何だかよく分からないが、男のプライドというか体面とか沽券などというアレが関わっているらしい。こういうものが関係している時の男子はけっこう面倒くさいので、サンドイッチを噛みながらこっくりと頷いた。
「それでね、お兄様。
文学の方はもっとたくさんの事を学びたいの。だから、図書室にある本を読み終わったら、本屋さんに行きたいわ」
「当家の図書室には、小説の類いは少ないよね」
口の中のものを飲み込んでからそうおねだりすると、おにーさまはにっこり笑って頷いた。
演技の幅や深みを増す為にも、様々な文学に触れるのも大切だと昔から考えてはいたけれど、貸し本屋さんに本を借りに行くにもお金が必要で、とてもではないけれどあたしにはそんな余裕が捻出出来なくて断念していた。
今は雇い主がいるのでダメ元でおねだりしてみると、高貴で金持ちな生活を送っていらっしゃるおにーさまは予想外のお言葉を言い放った。
「それなら今度、王都図書館に本を借りに行こう。大丈夫、僕が案内してあげるから」
……『としょかん』とは何ぞや?