あの日あの時に。
違うPNで掲載していた作品の再掲載です。
あの頃は何一つ考えることなく、当たり前のことが当たり前として、幸福という言葉を理解することなどなくこのまま未来へと向かうことを漠然として認識していた。
セピア色に染まった過去の幸せなひととき。
漆黒に染まった現在の瞬間。
色染まった思い出がどれほど切なく、どれほど大切なものか、本当の意味で分かったのはあの一瞬の時だった。
もがいて、もがいて。
それでもあの時は元にはもどらない。
もう私に未来はなかった。
✦✦✦✦✦
「……あ」
思わず両手で口を塞いだ。
入学式に赴いた高校の、まだ朝早い教室。
まさかわたしよりも先客がいるとは思ってもみなかった。
乳白色のカーテンが、開け放たれた窓から入る心地よい春風に靡いて教室という機質なイレモノに律動を与えている。
その人は、はためくカーテンの隙間からまるで魔法のように現れた。
長い黒髪が風に靡いてさらさらと流れている。
顔にかからないようにするためか、片手で髪を抑えるしぐさがとても艶めかしい。
私はこの人を知っている。
―――――いえ、全く知らない人。
それなのに私はいったい何を言おうとしたんだろう?
声をかけようにも言いかけた言葉以外の言葉がでてこない。
口に蓋をして堰きとめた名前で呼んでしまいたい。
けれども初めて入った教室の、初めて会った人に、なぜ、間違っているだろう名前が呼ばないといけないのか?
喉まで出かかったその名前を出さないように、私は両手を口に抑えたまま、そこを動くことができなかった。
こつん
頭に硬質で平たいものが当たって、自分がどのくらいそこに立っていたいたのか遅まきながら気付いた。
「何をぼーっとしているんだ? ほら、席順を見て座りなさい」
真新しい制服の中、唯一スポーツウェアを着た先生が横を呆れながら通り過ぎ、黒板の席順表を指して注意する。
初めての教室、初めての人達。
叩かれた頭に手をあてると、すでに座り終えている新入生たちがくすくすと笑った。
かあっと顔が火照るのが分かったが、それを照れ笑いとして誤魔化して、すぐに空いている席を目指して歩き始める。
窓側の一番後ろの席。
あいうえお順に並んだその席順では、かならずと言っていいほど窓側に配置される、私の苗字。
すでに座っている人達から好奇心丸出しの視線を浴びて、それを下を向きながらかわし歩く長い道のりのその先に、ぽっかりと空いた場所。その唯一の自分の場所のひとつ前の席に私は吸い寄せられた。
――――――彼女だった。
彼女のどこがどう人と違うのか、分からない。
けれども彼女だからこそ、私は引きつけられるし、なぜだか胸が苦しくなるほどの郷愁が襲う。
「伊藤!さっさと座りなさい」
またぼおっとしていたのか、しびれを切らした先生が、少し大きな声で叱責した。
教室中に笑いが広がる。
慌てて彼女の横を通り過ぎ、使い古された椅子に腰をかけた。
目の前には彼女の流れる黒髪がある。
けれど微動だにしないそれは、今のパプニングが彼女になんの感情も動かさなかったことを示していた。
私のことなど、彼女にとっては真新しいクラスメイト以外なにものでもないのだと、思った。
それがなぜかとてつもなく哀しかった。
✦✦✦✦✦
彼女は笑わない。
席が前後というのにほとんど話すこともない。
それでも授業中に前から送られてくるプリント越しに彼女を横顔で見ることがあるが、そこに笑いは一切ない。頬笑みすらも。
「やめときなよ、伊織。安陵さんを誘ってって無理だよ」
安稜というのが彼女の苗字だ。
フルネームは安稜 普。初見では絶対に読めない名前だと思う。
彼女の名前を知った時の衝撃は、言葉では表せない。
入学式の朝のあのしんと静まった教室で初めて彼女を見たときに、私が思わず口に出そうとした名前、そのものだったからだ。
あまね―――――。
どうして彼女がその名前を持っているのだろう。
それよりもどうしてその名前がこんなにも切なくなるのだろう。
彼女のかかわることは、私にとって何かあるのかもしれない。
そう思うと、新しくできた友人たちの忠告も、私の耳には届かなかった。
普は誰とも親しくなろうとはしなかった。まるで孤独を愛しているように。
私といえば、入学式のHRであった出来事以来、ぼやっとしている子認定を受けてしまって、そんな私をからかいふざけながらも教室の誰もが受け入れてくれた。新学期の出発としてはまあまあの始まりだとは思ったが、その一方目の前に座っている普のあまりのそっけなさにどうしていいか分からなくなることもあった。
グループ分けしなければいけない授業では、普も否応なくどこかに属さねばならず、俯き加減にグループに入ってきては存在感を見事に消し去って授業をやり過ごしているように見える。
もったいない。
普はとても美人だ。
白魚のような手などというありふれた言葉がこれほど当てはまる手を見たことはないし、漆黒のまつ毛が色濃く目の淵を取り巻き、光彩には光に弾かれたような煌めきが見え、鼻筋も一本見事に線が通っている。ぽってりとした唇は、昔なら嫌厭されたかもしれないが、今なら情が深く思え色香が匂い立つほどだ。
その容姿を忌み嫌うように長い髪で隠す。前髪も眉の少し下で切りそろえているものの、俯き加減にしていればそれはみごとにカーテンの役割を担っていた。
おかしい。
普はそんな子じゃなかった。
会ったことが無い普に対して、なぜかそんなことを考える。
おかしいのは、私。
普に関して、どうしてこんなにも心を痛めてしまうのだろう。
首をかしげて考えて見ても、思い当ることなどでてくることはなかった。
私はできうる限り、彼女に近づこうとした。
それはあまりにも稚拙で馬鹿馬鹿しいものだった。
「ご飯を一緒に食べようよ」
「……いい」
「トイレいくの? 一緒に行っていい?」
「……やめとく」
「帰るなら一緒に帰ろうよ。 駅まででいいからさ」
「……遠慮します」
何を言っても暖簾に腕押しで、返事も聞こえるか聞こえないかというほどの蚊の鳴く声。
それでもめげずに毎日何かしら言葉を交わす努力をしていると、教室の皆から『可哀想な子』もしくは『残念な子』とぼやっとしてる子から昇格し、そして笑われながらも呆れられた。
そして教室では普が私に根負けをするか、それとも学年が終わるまで打ち解けないかということが賭けになるほどだった。
ぜひとも根負けする方で。
そうしないと公然と『普』と呼び捨てできないではないか。
私が『普』と彼女を呼んだ時の顔を見てみたいとずっと焦がれているというのに。
「伊藤さん。どうしてそんなに私に構うの? 私は一人でいていたいんだけど」
ある時、あまりの煩さからか、とうとう普が声をかけてきた。
「だってあなたのことが好きだから」
「……!!」
その時の普の顔ったらなかった。
まさか面と向かって『好き』なんて言葉を言われるとは思ってもみなかっただろう。
先ほどまでざわついていた教室がしんと静まり返る。
もちろん注目されているのは私たちだろう。
普は顔を朱に染めて、火照った頬を白い手で覆った。
「な、なんてこと言うのよ」
「あれ?いけなかった?だって本当に安陵さんのことが好きなんだもの。初めて会ったときから気になって仕方がないんだよ?他に言いようがないもん」
教室中が響いた。
あからさまな告白に、興奮しつつも小声で賭けの確認をとり合う声が耳に届く。
けれどもそんなことなど私にはまったくもって関係ない。
ただ、普が私を見てくれればいい。
それだけを願っていた。
「『好き』って、そんなに簡単に言う言葉じゃないと思うんだけど」
「うん、そうだね。 簡単に言ってるんじゃないもの。 ……あ、言っておくけど、レンアイの『好き』じゃないよ?」
すると明らかにほっとした普がそこにはいた。
言葉というものは存外、難しい。
自分が感じている想いをまま、言葉にかえて伝えることのなんと難しいことよ。
私は普が好き。
嘘偽りのない気持ちを言葉に載せた、ただそれだけで、たくさんの選択肢を相手は受け取る。
たとえそれが発した言葉の意味とは全く違った意味をとったとしても。
「私はあなたの笑顔が見たいの」
そう言ってほほ笑めば、普は口をぽかんと開けてぱくぱくと開け閉めする。
先ほどの告白よりもなぜこちらのほうに無防備な反応するのだろうか。
落ち着いたはずの顔色がまた朱に染まり、それを恥じるように俯いてしまった。
可愛いのに。
もっとその照れた顔を私に見せて?
いつも無表情に授業を受け、部活もせず、友達も作らず、ただそこにあるだけ。
そんな普の動かされた感情を、クラスの全員が食い入るように見つめていた。
「普はそんなとこ、かわってないなあ」
まるで慣れた動作のように手が普の長い黒髪を撫でる。何度も何度も。
私が発した言葉はあまりにも小さく、たぶん普以外誰にも聞こえていなかったのだろう、教室の誰もが無反応だったのに普は何かに弾かれたようにびくんと身体を震わせて潤んだ瞳で私を見上げた。
そして何か当惑したように目を彷徨わせると、急に顔を歪ませてぼとぼとと涙を流す。
「……やめて」
「何を?」
「髪、触らないで」
「え?」
その時初めて、私は自分が当たり前のように普に触れていたことに気が付いた。
「ご、ごめん」
「私に構わないで」
くるりと身体を回して背を丸めて俯くと、小刻みに震える背中が普の今の心のありようを示していた。
皆は遠巻きで緩やかに動き出す。
賭けのことなど二の次で、まるで今のことが何もなかったかのように。
私は普の美しい黒髪を撫でていた手をそのままに、次の言葉を紡ぐことが、普に声をかけることが、どうしてもできなかった。
あれから普は、以前にも増して自分の殻に閉じこもった。
見ているこちらが痛々しいほど。
同じ中学から上がってきた人は、今の普を見てとても驚き不思議がる。
「あんな暗い子じゃなかったのに。 いったいいつからあんなふうになったの?」
「安陵さんは初めからあんな感じだったよ。 いつからとか、そんなんじゃない」
「うそ。 だって中学校のときはとても明るくて。 普が一人でいるなんてありえないくらい友だちに囲まれてたのに」
「何それ。 同一人物の話?」
クラス中で話題の人と普はなった。
耳に入る言葉はどれも今の普とはかけ離れた人物像。
もちろんそれは当たり前。
だってそうでしょう?私の普が暗いはずないじゃない。
学校で嫌なことがあったってそんなそぶりは一度も見せたことがない。
後から周りの人伝いで色々なことが分かっても、それでも普は過ぎたことだと笑っていた。
それなのにどうして。
「伊織もさ、頑張ってるのはわかるけど、あの殻を破るのは相当だと思うよ?」
「でもさ、いったい何があったんだろうね。 昔は明るくて社交的?ってやつでしょ。 でも今はどう見ても独りが大好きっぽいよね」
「そうだよねえ。 伊織の大好き攻撃もはたき落としたしね」
友人たちは口々に普に構うことを諦めろという。
どうみても普の頑なな心を開くことは難しいだろうと。
皆はまるでわかっていない。
普が笑うとどんなに可愛らしいかを。
そしてそれが周りに飛んで、居心地のいい空間を生み出すかということを。
それに今の普は何かに落ち込んでいるだけだと思う。
なんの傷かはわからないけれど、でもいつかその傷も癒えるだろうその時を私は辛抱強く待つなんてことはせず、今すぐその傷を癒してあげたいと思っている。
それだけだった。
「ねえ、一緒に帰ろう」
翌日にはまるで昨日のことは何もなかったようにいつものように声をかけた。
その方法しか私には見出すことができなかったからだ。
普の反応は思っていた通り。
私の声など聞こえはしないように全くの無視を決め込んでいる。
そんなことは予想の範疇内だということに気が付かないのだろうか。
「あーんーりょーおさんっ、一緒にかーえろっ」
「…!!」
机を回りこんで普の前に出た私は、そのまま俯く普の顔を下から見上げるように覗きこんだ。
するとどうだろう。
彼女の顔はこれまで見たこともないほどに真っ赤になり、それどころか耳たぶまで朱に染まっていた。
「どうして……。昨日あんな酷いことを言ったのに」
「ん?今何か言った?」
普はそれこそ消えてしまうような声で呟くようにそう言った。
少しでも普に罪悪感が生まれなければと思い、私は普の言葉を聞いていないふりをした。
がたん
普はひどく大きな音を立てて椅子を引き、そのまま立ち上がって戸口へと向かった。
なりふり構わず下駄箱まで廊下をひた走るのを、普の鞄とともに慌てて追いかける。
行きかう人々がこちらを好奇心丸出しにして、けれども一歩引きぎみにこちらを見ているけれど、今はそんなことに気を取られている暇なんて微塵もない。
二人分の荷物を持つ分、こちらが不利。
どんどん前に進んでいく普を見逃さないように必死になって追いかける。
気が付くと目の前には駅の改札があった。
その時になってやっと普は自分が何も持たずに走っていたことに気が付き驚いて呆然と立ち止っていた。
「……あ、わたし」
「普! 何を慌ててるの。 だめじゃない、忘れ物しちゃ」
「!! おかあさんっ……」
まるで信じられないものを見るように両手で口元を押さえながら私を見た普は、それが思い人とは違うことに気が付いてまたぼとぼとと涙を落した。
「安陵さん……? どうしてそんなに泣いてるの。 それにお母さんって? 私はさすがに安陵さんは産めないよ」
「ちがっ……」
「ほら、家まで送るから、帰ろ? 今の安陵さんを一人でなんて帰せないし。 ……いつものように断っても駄目だからね」
普段なら私に触れられることを拒むのに、このときの普は私が肩に手をかけてもされるがままに寄りそった。
嬉しい、なんていう感情を今出す時ではない。
だけれどやっと普が少しは心を開いてくれたように思えて、じんと心が潤ったのは否めなかった。
「さあ、家に帰ろう」
二人分の重い鞄を肩にかけ、もう片方の余った手で普の冷たい手を握る。
嫌がることなく手を繋いでくれる、普。
ああ、昔を思い出す。
いっつもこうやって二人で手を繋いでいたね。
懐かしくて懐かしくて、思わず手にぎゅっと力を込めた。
乗り継いだ電車の中で、繋いだ手を離すことなく家路に向かう。
私の肩を重くした二人分の荷物は、途中、一つは普の肩にかかった。
けれど普と私はなにひとつ言葉をかけることもせずにただ手を握り合っているだけだった。
――――――そのことだけでもものすごい進歩。
俯く普の頬にかかる黒髪が、人波の風に煽られてゆらゆらと揺れる。
なんて可愛らしいんだろう。
なんて美しいんだろう。
手がふさがっていて本当によかった。そうでないと私はきっとそのおくれ毛を耳に掛けていただろうから。
私とはまったく線路が違う普の家の最寄り駅は、どこかしら懐かしく感じる古い駅舎だった。
そこから徒歩で十分の普の家までゆっくり歩いていると、どことなく見覚えがあるような既視感に襲われた。
その思いは一歩進むごとに強くなる。
そんなはずはない。
ここは始めてきた場所、初めての道。
生まれてからずっと、使ったこともない駅。
それなのにどうしてこんなにも懐かしく、胸が苦しくなるんだろう。
ああ、あの街路樹の、もったりと白く咲く様を、どうして思い浮かべることができるのか。
無意識に普の手をぎゅっと握っていたようで、普がぱたりと立ちどまる。
そして首をかしげて私を見るなり、身体を少し震わせて、手をやさしく握り返してきた。
「……伊藤さん、どうしたの?」
「え?」
「だって」
はらはらと声も出さずに泣かないで―――――。
普は労わるようにやさしくそう言った。
ああ、私はいったいどうしたのだろう。
何が悲しいのだろう。
何が苦しいのだろう。
握られた普の優しい手が無ければきっと私はこの場に座り込んでいただろう。
そのくらい胸が苦しくてやるせない気持ちで満たされていた。
「もうすぐ私の家だから、……よければ上がって休んで」
「あ、ありがとう」
もし私が普通の状態だったなら、決して言わないだろう言葉を普は言った。
ここまでくるのも半ば強引で一緒に来たというのに、普はそのことを何も問わず逆に気を使ってくれていた。
それからの数分のことは私は忘れない。
胸が苦しく涙が止まらない私に普は何回も立ち止って背中を撫でてくれた。
ついさっきまではまるで真逆の立場だったのに。
やっぱり普は優しい子だった。
やっぱり普は人の痛みを分かる子だった。
安堵がゆっくりと私の心を満たしていく。
私の涙はそのために流されていく。
そうしてたどり着いた先にあった家の構えを見たときの衝撃は、言葉では表せないほどだった。
「どうして……」
あれほど丹精を込めて育てていた草花は見事なまでに放置され、掃除されることのない玄関には落ち葉があちこちに溜まっていて家全体を荒廃させているかのようだ。
「ああ、あまり綺麗じゃないよね。 うちは父子家庭だから、平日掃除しなくて……」
「え? 父子家庭?」
「そう。 父子家庭。 ちゃんとお構いもできなくて、ごめんね」
そう言いながら玄関の鍵をがちゃりと開けて、扉を開いて招いてくれた。
懐かしい香りがする家。
その奥から線香独特の香りが漂っている。
「お母さん、亡くなったの?」
ぶしつけだろうけれどどうしても知りたくて聞いてみたら、普は小さくこくんと頷いた。
「お焼香、あげさせてもらっても?」
「……いいわよ、気を使わなくて」
「違う。 そんなんじゃなくて」
なぜだろう。
普段はお仏壇に手を合わせるなんて自分の家でもあまりしないのに、どうしても普のお母さんのためにきちんと手を合わせて挨拶をしたかった。
「じゃあ、こちらにどうぞ」
そう言って通された部屋は普段は客間として使っていた和室だった。
そこには押し入れだった場所を開けて入れられた真新しい仏壇が据え付けられていた。
もしかして亡くなったばかり、とか。
そんなわけないじゃない。
だって私はここにいるのに。
鼓動が急に跳ね上がった。
息が急に苦しくなった。
それでも私は仏壇に向かって一歩一歩とふらつきながらも歩き出した。
そうしてたどり着いた先に見た遺影の人は。
あれは、―――――私。
黒い額縁の黒いリボンで飾られた、一葉の写真のなかの私は、夏の暑い日差しの中で楽しげに微笑んでいた。
どさり
「伊藤さんっ?」
遠くに普の慌てふためく声が聞こえる。
落ちた身体に暖かい手が添えられて、どうしようと困惑している声が聞こえる。
―――――ああ、どうしてあなたはそんなにも。
そうして私は意識を手放した。
✦✦✦✦✦
いつの間に眠っていたのだろう。
ふと、意識の上昇を感じる。
ことんと心の奥に入ってくるのは、私の可愛い普のちょっと慌てた声。
ただ、その名前は私の名前ではなかった。
「……とうさん、いとうさん、伊藤さん?あ、気が付いた?」
額にはひやりとしたタオルが置かれていた。
客間に使っている和室の、なぜかある仏壇の前で。
心配そうに私を覗きこむ普は、この春から通う高校の真新しい制服を着ている。
どうしてその制服を着ているの。
昨日採寸したばかりなのに。
「あ……まね。 その制服、もう上がってきたの?」
「え? 何を言っているの、伊藤さん。 伊藤さんだって制服、着てるじゃない」
何を変なことを言っているのだろう。
私が制服を着ている?
そんなことをしたら犯罪じゃないの。
くすくす笑って、普の長い髪を手で撫でる。
「何を馬鹿なことを言ってるの。 さあ、早くその制服を脱いでしまいなさいな。 せっかく新しい制服なのに、入学式前に着るものじゃないわよ」
「伊藤さん?」
「伊藤?……何の遊びをしているの?実の母親に向かって何を言っているのかしら。だいたい私の苗字はあなたと一緒でしょ」
ほんと、いったい普はどうしたのだろう。
まるで驚愕したように大きく目を開けて、その細い両の手を口元で合わせている。
演出にしては凝り過ぎだというのに。
「あまね? いったい何の冗談なの?」
「……い、伊藤さんこそっ……。 酷い、酷いよ。 なっ、ん、でっ……お母さんのまねなんてするの……っ!!」
「? いったい本当になんなの? あなた、親の顔も忘れたの?」
もうここまでくるとやりすぎでしょう?
普の冗談に付き合っていられない。
外ももう暗いのにカーテンも引いていないなんて。
ああ大変。
鷹史さんが帰ってくる前に夕御飯の支度をしなくちゃ。
今日は鷹史さんと普の大好きな酢豚にするつもりだったから、豚肉に下ごしらえをしなくちゃね。
「さあ夕御飯の支度をしましょうか。 普も手伝ってね。 今日は普の大好きな酢豚だから」
「……! 伊藤さん?!」
「もう!いい加減にして。伊藤っていったい誰のことをいっているの? ほらほら、その制服を着替えていらっしゃいな。 豚肉を揚げないといけないんだから、汚れてしまうわよ」
普が何か言いたげにじぃっとしているけれど、もうこんな時間なのにご飯も焚いていないんだから、少しはお手伝いしてくれてもいいんじゃない?
「あら? 普、買い置きしていた豚肉がないけれど。 あなた、何かに使った?」
冷凍庫に入れてあったはずの豚バラ肉のかたまりが見当たらない。
チルド室にいれたのかしら。
それとも……
ふとキッチンの調理台を見ると、滅多に食べないインスタントラーメンのカップが積み上げられいた。
栄養が偏るからってあれほど食べないようにいいつけていたというのに、鷹史さんが買ってきたのかしら。普には食べないように注意しておかなければ。
「普。 ここにあるカップラーメンはお父さんのかしら。 普は食べちゃだめよ? まだまだ成長期なんだから、栄養が偏ってしまいますからね。 ……普? どうしたの」
「おかあ、さん?」
「何をさっきからおかしなことばかり言って。 はいはい、普のお母さんは私です。 やっと伊藤って人から昇格したのかしら」
「おかあさん」
「うん? なあに? いったいどうしたの。 ……ほら、早く着替えて、手伝って頂戴」
調理器具の置き場所がなぜか変わっていたので、あちこち探しながら夕御飯の準備をしだした私に、普は背中から急に抱きついてきて身体を震えさせた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさんっ」
「もう。 どうしたの急に甘えて。 夕御飯が遅くなるわよ?」
「夕御飯なんてどうでもいいからっ! おかあさんがここにいてくれるだけでいいからっ!」
なあにそれ。呆れた。
我がままなんて滅多に言わない普が、まるで私を繋ぎとめるようにきつく私に抱きついて、わんわんと泣いている。
いったいどういうことだろう。
いつだって学校から帰ってきたら真っ先に、夕御飯のメニューを聞いているのは普ではないか。
その夕御飯をいらないなんて、普らしくない。
そして堰を切ったように涙を流し、私を離そうともしないなんて、小さなころ以来なかったこと。
どうしたのだろう。
なにがどうかしたのだろうか。
それとも私の知らないうちに、何か起こってしまったのだろうか。
泣き疲れて膝枕で眠っている普の、つややかな黒髪をゆっくりと撫でながら、私は違和感に苛まれている。
くるりと見渡した部屋の、微妙に違う装飾品。
あまりきれい好きではないものの、専業主婦の務めで毎日掃除は欠かさないはずの床や戸棚がうっすらと埃をかぶり。
冷蔵庫の中の買い置きが何もなく、インスタント食品が犇めく食品庫。
なにより、普の真新しい制服が、少しこなれている事実。
私の記憶が……飛んでいる。
高校の合格発表があったのは、一昨日のこと。
第一志望に合格した普と泣きながら喜び合い、そして翌日にはその高校の制服を注文しに近くの百貨店まで二人で足を運んだ。
女子の平均身長よりもぬきんでて高く細い普の制服は、作り置きがまったくなく、納品まで数日かかると係りの人はいう。
「まるでオーダーメイドだね」と笑いながら、必要なものを誂えていく。
楽しい、夢のようなひと時。
そのまた翌日には親子連れで向かった高校の入学ガイダンス。
学生服のメーカーが制服の正しい着方を面白おかしく、学校側が入学に必要な書類や通学用定期の購入の仕方を細かく教えてくれる。
最後に手渡された教科書が、本当に普は希望通りの高校に入学できるのだと、実感する重さだった。
その帰り道。
ああ、そこからがわからない。
どうしてそこからいきなり家に帰っているのか。
カチカチと鳴る時計の秒針の音が、静かな部屋にこだまする。
その音に合わせるように、そしてこの思考が落ち着くように、ゆっくりと普の黒髪を撫で続ける。
そうしておかないと。
そうしておかないと、私は。
普を起こさないように頭をゆっくりと床へ降ろす。
このままであったのなら、きっと普は風邪をひく。
昔から見た目は元気だけれど、どうしても精神的に弱くまたそれが身体に響く子だった。
私がいつも使っているひざかけはいったいどこにいったのだろう。
食卓の椅子の背もたれにすぐ使えるように掛けてあるはずのひざかけはそこにはなく。
テーブルの上も郵便物や書類が乱雑に置かれていた。
その一葉を手に取ると、それは電話料金の請求書。
――――――なぜ。
ひらひらと舞い落ちる紙が床にふれるとき、私はテーブルに手をついて、もよおす吐き気を抑えていた。
電話料金の請求書発行日。
それは未来であるはずの日付だった。
その時、食器棚のガラスが反射して、私の姿を映し出す。
普の通う制服を着た一人の少女。
普と同じ年頃の、亜麻色の髪をした、女の子。
ガラスに映された身長は低く、きっと普と十センチは違うだろう。
そうしてそれは私とも違う身長差。
なぜなぜなぜなぜ。
胸から苦い何かがせり上がってくる。
私は何かがおかしくなったのだろうか。
それとも私以外の何かがおかしくなったのだろうか。
ばたばたと足音高くトイレに入ると、私はその意の中にあるものをすべて吐き出した。
頬にかかる亜麻色の髪。
私の髪とは似ても似つかない、柔らかくうねる髪。
出すものを出して私は、洗面所で口をゆすぎ顔をに水を浴びせる。
無意識に手を出せばそこにタオルが置いてある。
けれど少し空振りをするその手は、この身体の身長が低いせいだと思われる。
鏡に映る、見たこともない娘。
手が頬を伝い、顔を覆い、髪をかきむしる。
「……誰、あなたは」
そう問いだす声も私のそれとは似ても似つかない高い声。
「ワタシハいおり」
勝手に口が動き私の問いに答えた。
「イオリ? あなたは誰なの」
「アマネノトモダチ。 アナタハダレ」
「私? ……普の母親よ」
「お母さん……?」
え?と振り向けば、そこには普が泣きつかれた身体でふらつきながら立っている。
衝撃があまりに強く、普が置きだしたことに全く気付くことができなかった。
「またどこかにいってしまったかと思った。 もうどこにも行かないで」
涙が溜まる瞳の、キラキラと輝く粒は美しくて悲しかった。
ゆるりと時刻が流れていく。
曖昧な世界。
ここはどこ。
ここは……私の家。
私の大切な家。
そして横には大切な普がいるはず。
それなのに。
目の前には茶色のふわふわとした少女、イオリがいる。
『アナタハワタシ』
指先をぴったりと私に向けてイオリは言う。
『ワスレナイデ。 アナタハワタシ、ワタシハアナタ。 オナジオモイヲキョウユウスル』
どういうこと?
『ワスレナイデ。アナタノオモイハワタシノオモイ』
大きな瞳からは涙が一粒ころんと落ちた。
『ワタシモワスレナイ。ダカラ』
―――――だから?だから、何。
尋ねようとした言葉は声にはならず、想いにもならず。
イオリに届かず、イオリの思いには足りない。
『アンシンシテ。 ワタシハワスレナイ』
隙間のあった立ち位置がいつの間にか詰められて、イオリは私を抱きしめる。
そうして私は悟るのだ。
私がイオリであることを。
鏡の中の私。
まるで百面相を見るように、私ではない私が私の思惑ではない表情を作り言葉を紡ぐ。
ゆっくりと頬に指が伝う。
右側に触れれば、左側をさわる。
残された片方の手のひらをゆっくりと鏡の中の私の、その白く柔らかそうな頬に触れようと伸ばす。
鏡の中の私の手のひらが、私の手のひらと合わさったその時。
お互いが溶けだすように私はイオリの中に、イオリは私の中に浸透し始める。
ゆっくりゆっくり確実に。
細胞の一つが溶け交わると、シネマの記憶がカタカタと音を出して上映する。
カタカタ カタカタ
規則正しくギアが動き、セピアに彩られた記憶の一辺が。
あの日あの時に私を引き戻していく。
イオリである前の私。
あれは普の母であったころの私。
高校に合格して浮かれて歩いている、仲の良い親子。
デパートで制服の採寸を済まし、帰宅するその時。
いつものように私は道路側、普は建物側を、楽しそうに歩いている。
その当たり前の行動が普を救い私に死を与えた。
携帯電話を片手に運転していた馬鹿な若者の安っぽい考えのせいで。
一瞬の出来事。
ブレーキ音すらなく。
私を普の前から一瞬にして連れ去って、二度と微笑むことをゆるさなった。
覚えているのは、普の声にならない声。
一呼吸の間。
そして絶叫と私を呼ぶ悲痛な叫び声。
そのすべてが遠く遠く遠く……。
音も視界も白く、終わった。
ああ、私は死んだんだ。
真っ白い世界にぽつんと立って、自分の置かれた立場を思う。
どんという音と痛みと共に空を舞い、分からないまま見開かれた瞳はフロントガラス越しに携帯電話をかけながら笑っている馬鹿な男が映っていた。
つづく二度の痛みは背を、肩を、腰を、足を、手を、頭を、人として形成する部位すべてに感じ、そしてぎざぎざのおろし金と化したアスファルトに投げ出された。
死というものを受け入れがたかった。
なぜわたしが。
いや、普でなかったことに安堵した。
けれどやはり、なぜわたしが。
死というものを受け入れるなんてできるはずがない。
飛んでいく意識と、せり上がってくる血潮。
空が見える。
それはそれは青い空。
空をさえぎる影が、ゆらゆらと揺れて、私と空の間をさえぎる―――――普。
叫んでるの?
泣いているの?
あなたは悲しまないで。
今の私があなたでなくて、本当によかった。
ああ、私の人生は、あなたが産まれてくれたことがすべてだった。
だからあなたはそんなに悲しまないで。
あま、ね――――――
白い空の中で、私は涙した。
意識の中の普は以前の普とは別人のよう。
あれほど活発で、あれほど充実した人生を歩んでいた普の、あまりの変わりように涙した。
助けて。
私の大切な普が壊れていく。
その時、白い空に一つの光が導かれた。
その時、私は突然に悟った。
私は次の人生を歩まなければならないことに。
空の中の一筋の光は、私に近づき、私を取りこんで、一つの新しい魂へと生まれ変わらせた。
「はあっはあっはあっ……!」
がちゃがちゃと金属が煩く鳴り響く。
生ぬるくぬっちゃりとした感触が皮膚を覆い尽くしている。
「ほら、産まれましたよ。 お母さん、お疲れ様」
「ああああああっっ! なんて、なんて可愛いんでしょう」
「さあ、抱っこしましょうね。 お乳も吸わせてあげましょう」
ぬっちゃりとしたものをごわごわしたもので拭きとられたと思ったら、身体に暖かくて優しくてよい匂いのするモノの上にうつぶせに置かれた。
「お母さん。 この子の名前はもう決めていたんでしたよね」
「はい。 夫と二人で決めていました。 この子の名は、」
『イオリ』
「イオリ、イオリ。帰るわよ。こちらにいらっしゃい」
甘い香りのする母が、公園の砂場で山を作っている私を呼びにやってきた。
家に帰ると美味しいおやつが待っている。
私は嬉しそうに飛び上がることをわすれない。
子供であることはたやすいことではなかったが、それでも優しい母を悲しませたくない一心で自分が自分であったことをできるだけ忘れるように心がけていた。
私は私である前の記憶を持った子供だった。
あの日あの時あの場所で命を落とした私は、もういない。
新しい命となってこの世に産まれ、新しい人生を歩む一人の子。
それが今の私だった。
ただ以前の私の中の常識では、私の死のそのあとで生まれ変わるものだと思っていた。
実際産まれてみれば、驚くことにイオリは私の大切な娘であった普と同じ年の同じ月の同じ日にこの世に生を受けている。
これはいったいどういうことだろう。
それともこれは神様の思し召しかもしれない。
このまま成長すれば、きっと私は普と同じ高校にいけるだろう。
そのことだけを思って、将来きっと普と和えることだけを胸に、私は成長する。
一年、また一年と、月日はめぐり。
小学生の私、中学生の私となったその時に、私はどうしてあの高校に進学したいのか理由を忘れていた。
人の成長とは怖ろしいもの。
記憶があったことすらも、遠い過去の夢としか思えなくなっていた。
成績からいけば私はもっと上の高校にいける。
もったいないから考えを直せ。
担任や塾の先生は口をすっぱくして私につめよったが、私はただ一途に希望する高校を目指していた。
そうして念願の合格。
記憶を失った私は、それでも嬉しさのあまり涙した。
その涙がどういう意味を持つのかわからぬままに。
入学ガイダンスのあの日。
私は何かの期待に胸を躍らせていた。
何を期待していたのか、今ならわかる。
けれどもあの時の私には、それは高校に入学できる喜びのほか思いつくことはなくて。
それが誤りであることにいまさらながらに気が付くが、それは言ってもせんないこと。
あの日にもし普と私に出会えていたなら、イオリという存在はなかっただろう。
出会えなかったことは、必然。
出会えなかったことは、当然。
そして運命の環はめぐり、あの時へと導いていく。
そう、私が死んだあの瞬間に。
とうとうあの時がやってきた。
一瞬にして私を普の前から連れ去った、あの無情の時。
その時のことを私は忘れない。
背が、肩が、腰が、足が、手が、頭が。
一つ一つの細胞が、泡立ち壊れるあの瞬間を。
その時刻が近付くと、ぞわりと身体に震えが走る。
意識を失うあの瞬間、イオリである私の意識も持って行かれそうになる。
急激な急降下。
母と歩いた道端に倒れこむようにしゃがんで。
ぼろぼろ涙を流していた。
心配した母が何度も理由を尋ねるが、私自身なぜ身体が震え涙するのかわかってはいなかった。
どれほどまでに遠くなった私とイオリ―――――。
母がしつこく病院に行こうと誘う。
真っ青で震えている身体を心配して。
病院は嫌。
病院だけは嫌。
嗚咽で枯れた声で母に言うと、母は黙って身体を温めてくれた。
大丈夫。伊織、もう大丈夫だから。
意味がわかっていっているのではないと、わかっていた。
母の言葉には何の意味もない。
けれども私はこの時に、この母の子に産まれたてきたことに感謝した。
私は大丈夫。
私はもう、大丈夫。
だから、今度はあの大切な―――――
何に?
それとも、誰に?
そして私は何をしたかったのだろう。
柔らかい布団をすっぽりと頭から被せて、私は一人考えた。
受験が終わって何もすることのなくなった中学三年生には時間がたっぷりとあった。
けれどどんなに考えても答えは見つかることはなく。
気がつけば時間ばかりが過ぎていき。
とうとう新しい世界へと飛び込む日となった。
そしてそこで私は見つける。
私の唯一の人を。
高校の門の前には人だかりができていた。
『入学式』と書かれた看板を背に、真新しい制服を着た生徒がフラッシュを浴びる。
はにかんだ笑顔、ふてくされた顔、眉をひそめ下を向き歩く姿、足取り軽く門をくぐる人達。
その中を母と一緒にすりぬけて、校門横に提示されたクラス分けを確認する。
真横で奇声があがる。
たぶんあれは同じ学校からの来た人たちなのだろう。
嬉しそうに抱き合う姿はほほえましいものだった。
大丈夫。
私はここで私の何かを見つけるのだから。
皆がまだ校舎に向かうその前に、一人で教室へと赴いた。
初めて入る建物、初めて入る教室。
からりと軽い音と共に扉を開けて教室を覗く。
「……あ」
思わず両手で口を塞いだ。
目に飛び込んできたものは、乳白色の波打つカーテンとその隙間から魔法のように現れた長い黒髪。
私はこの人を知っている。
―――――いえ、全く知らない人。
けれどその人を見た瞬間に、名前が口から洩れそうになる。
あまね。
全く知らないその人の、名など知る由もないというのに。
あまね、あまね、あまね、あまね。
ああ、この名を私は呼びたかった。
優しいあなたに会いたかった。
大丈夫。
あなたには私がいる。
だから、そんなに悲しい顔をしないで。
だから、そんなに苦しまないで。
大丈夫。
あなたには私がいるのだから。
✦✦✦✦✦
「普。遅くまでお邪魔して、ごめんなさい」
驚愕に目を見開いた普は、何がいったいどうなったかとばかりに頭を振る。
「なんだろう。 私、ちょっと混乱していたみたい。 ……普を送ってきたはずだったのに、私のほうが心配をかけちゃったよね。 ごめんなさい」
「え。 おかあ、さん?」
「ええっ? 何それ。私、おかあさんっぽいかな? せめて伊織って呼んでほしいな」
さきほどまでの私をおくびにも出さず、イオリとしての私を押し出した。
そうでなければいけないのだから。
けれど普は戸惑うばかりで、私がにっかりと口に笑みをのせると、その笑い方があまりにも違うことに気づいて涙を流した。
「もしかして、私の名前を呼びたくないから泣いている、とか? それだったら悲しいな。 私は普って呼びたいよ」
「……違う。 全然違う」
「うん?」
ほろほろと泣く普の冷たくなった手をそおっと握って、力をこめてギュッと握る。
大丈夫。
あなたの混乱は私のせい。
ごめんね、普。
やっと、わかったの。
私はあなたに会いにきたの。
あなたに幸せになってほしくて、ここまできたの。
だけども私は私ではなく、私は伊織で。
以前の私をあなたに示すことができないの。
許して、普。
わかっていてもあなたには会うことができない。
だけども私はあなたに。
私はあなたを。
アイシテル。 私のすべてをかけても。
✦✦✦✦✦✦
あの日を境に、私たちは急速に親しくなった。
翌日の教室は見物だった。
いつもなら朝一番に教室に入る普が、遅刻すれすれに登校し教室に現れた時。
下向きがちな普がまっすぐ顔を上げて教室に入ってきたときのどよめきが。
それほど印象の違う普が、さらにおずおずとしながら私に挨拶をしたときのあの大騒ぎ。
昨日の今日でまさかの急展開。
私と普を賭けの材料にしていた人たちの狂喜と落胆の声が教室に響き渡る。
その中をはにかみながら席に着く普を背後から抱きしめたいのをこらえるのに一苦労した。
休み時間には私と普を取り囲むように環ができて、あれやこれやと質問をする。
そうして普は遅ればせながら学校に溶け込んだ。
だんだんと笑うようになった普に友人が増え、私と二人で立ち上げた料理研究部の活動も充実して、あの四月の暗さはほとんど見えなくなっていった。
料理研究部では、昔の私の記憶があるかぎり私が一番の料理人だった。
まだ料理を始めたばかりであぶなかしげな部員たちにあれこれと教えていたが、そのなかでも料理のできる普は必ず私と組みたがり、私の作った料理のレシピをこまめにメモしていた。
「どうしてそんなに細かくメモをとるの?」
あるときそう聞くと、普はちょっとだけ切なさをにじませて言った。
「伊織の味は、うちの母の味そっくりなの。 私、一緒に作ってたけれど、味付けまでしていなかったからどうしても母の味がだせなくて。 だから伊織のレシピを取っておこうと思ったの」
私は愕然とした。
そうだ。私は一緒に台所に立ちはしたものの、まだ教える時間があると、味付けまでは教えてはいなかった。
なんてことだろう。
私はまだ普のためにできることがあったのだ。
私が私の記憶を持つ限り、普のためにできることはまだあった。
今度こそきちんと普に伝えよう。
私とあなたは繋がっているということを。
私は私だけれど、私は私ではない。
あなたのための私は、まだできることが残っていた。
「そうなんだ。 じゃあいつでも聞いてきて? お母さんの味に似てるっていわれたら、なんだか照れくさいけれど、すっごく光栄」
「ありがとう。 他の子には悪いけれど、ずっと伊織と組みたいな」
「ふふ。 今度普の家で一緒に作る? リクエスト、聞いちゃうよ?」
「うれしいっ! いつがいいかなあ」
スケジュール帳を広げて、お互いの時間を確認し合う。
おでこをつきあわせて考える楽しいひと時。
大丈夫。
あなたには私がいる。
けれどあなたはもう大丈夫。
私の死を乗り越えて、あなたはあなたでいなくてはいけないの。
友達を作って、勉強に励んで、悲しみに押しつぶされずに生きてほしいの。
手助けが終わるそのときまで。
私はあなたのそばにいる。
これからもずっと。
ずっと。
あまね。
私の大切な娘。




