八話 英雄譚
レインがウォールディアに到着してから数日経ち、ようやくレインの身辺も落ち着いてきた。
「レイン様の瞳って、とても綺麗ですね」
テーブル越しにぐっと近づいてくる深緑の瞳は、ウォールディア王女・マリアのものだ。黒い髪がふわりと揺れて、愛らしい。
朝食を共にしようと、マリアがレインの部屋を訪れてきたのは、数十分前の話になる。食事は終わらせて、今はお茶を飲んでいるのだが、どうやらこの王女は喋るのが好きらしく、城の噂話や兄たちのことなどをずっと喋り続けていた。
レイン自身は、この銀の瞳が嫌いだ。
「マリア様の翡翠の方が素敵では?」
自分の目に関する感想はさておき、レインは本心からそう思っている。エルフォード王子とロベリア妃もそうだが、吸い込まれそうな緑は印象的だ。
マリアは照れたようにはにかんで、先ほどから足元にいる犬の頭を撫でた。その犬はネイという名前だと、食事前に教えてもらった。
「ありがとうございます。でもやっぱり、翡翠は月に勝てませんわ。……そういえば、ケイオスの建国帝妃様も同じ色の瞳だったそうですわね。えっと、“神の愛し子”でしたっけ?」
少し驚いた。マリアはケイオスの伝承について知っているらしい。
「はい、正確に言いますと、銀眼の子供のことを“神の愛し子”と呼びます。彼らの瞳は成長期に色が変わってしまいます。しかし、建国帝妃と私だけは何故か、この目のままだったのです」
「不思議ですね……。そういえば、その建国帝妃様の名前も“レイン”でしたね」
「よくご存知ですね。私の名はそれに倣ったと聞いています。……もっとも、ケイオスの女を百人集めれば、二人は“レイン”ですが。意味は、ケイオス古語で“慈恵”あるいは“雨”です」
「“慈恵”と“雨”が同じなのですか?」
くるくるとよく変わる表情が、マリアを幼く見せている。とはいえ知的好奇心の強さを窺わせる言葉に、レインは好感を抱いた。
「ええ。ケイオスは砂漠の国ですので、年に一度の雨は、神からの慈恵に他ならないのです。それにしても、ケイオスについてよくご存知ですね」
するとマリアは、また照れたらしく、ネイを膝に抱き上げた。
「実は、レイン様がいらっしゃると聞いて、ケイオス歴史書の写しを取り寄せたのです。夢中になって読みましたわ」
夢中になったということは、マリアが読んだのは、民衆向けに書かれた建国帝の英雄譚だろう。レインも何度か読んだ。
「『ラクシオ伝記』ですね。私もよく読みました」
微笑を浮かべて言い、上品な香りのする茶を口に含んだ。ウォールディアの茶は種類が豊富で、香りもよい。作法はケイオスを出る前に習った、ウォールディア流のものにしている。傍目に見る分には完璧なはずだ。
目を輝かせたマリアは「まあ!」と驚きの声を出し、再びテーブル越しに身を乗り出した。
「読んでおいて正解でしたわ! レイン様、私はラクシオ帝様がレイン妃様に求婚する場面を、本が皺になるまで読み返しました!」
頬に赤みが差す様子がなんとも愛らしい。
その書物には書かれなかった部分まで知っているレインとしては、同じように頬を染める気にはなれないが、王女がレインと親交を深めようとしているのは分かるので、黙っておく。
マリアが話す場面は『ラクシオ伝記』の中でも名場面と名高く、多くの絵師が絵にしており、歌劇に必ずといっていいほど取り上げられてきた。内容は、ケイオス人なら誰でも覚えている。
実際にそんなやり取りがあったのかはさておき、英雄譚であるにもかかわらず娘心も掴むのは、このシーンがあるからだ。
「『私は一人の男として、レインと共に在りたい』」
ラクシオ帝が言ったと伝わる台詞を、レインは呟いた。同じなのは名と目の色だけで、それ以外は全く己と重ならない建国帝妃の想いを、レインは理解できない。しかし、これは名台詞だと思う。
続きはマリアが引き取った。
「『レイン、私と結婚して欲しい』。うふふ、こんな風に言われたら、それは幸せでしょうね」
――*――*――
館は湖が東なり。ラクシオ、レインが肩を抱き告ぐ。
―――建国を決意したラクシオは、オアシスに臨む館の窓辺で、レインの肩を抱いて告げる。
「レイン、私は帝国を築きたい。忌まわしき“影”どもが引き裂いてしまった人と人との信頼を、取り戻せる国を、創りたい」
長く続いた戦いが、二人を少年少女から大人に変えていた。残る幼さはレインの銀色の瞳のみだが、それすらもレインの美貌を引き立てていた。
レインはそっとラクシオにもたれかかり、そのたおやかな手を恋人の手に重ねた。
「十年前“影”が変えてしまったものは、あまりに大きいわ。ラクシオ、貴方は剣を置いても闘い続けるというの?」
その声が帯びるのは、愁いと諦め。返事など、分かりきっていた。
ラクシオは深く頷いた。
「誰かがやらなくてはならない事だ。しかし、誰にでも出来ることではない」
それまでは二人揃ってオアシスに映る夕日を眺めていたが、ラクシオはレインの腕を優しく引き、向かい合わせにさせた。とはいえ、レインの視線は床に向いている。
「国創りには、レインの力が不可欠だ。そして何よりも、私は一人の男として、レインと共に在りたい」
その言葉に弾かれ、レインは顔を上げた。様々な感情が溢れた。しかし最も強い感情は確かに、幸せだった。
返事をしようと開いた唇が、震えた。
ラクシオはレインを見つめたまま、再び頷く。
「レイン、私と結婚して欲しい」
夕日の差し込む館の窓辺で、二人の影が重なった。
――*――*――
(建国帝妃は、幸せだったのだろうか)
夢見る乙女さながらにため息をつくマリアとは対照的に、レインの心は冷めていた。
建国帝妃は、物語ではこの上なく幸せな女性として書かれている。しかし、物語に書かれた内容は必ずしも真実ではない。
いきなり「あ!」と声に出して、マリアは居住まいを正した。
「突然押しかけてしまって、ごめんなさい。最近、兄様たちは何かと忙しいらしくて、寂しかったんです。ジクルス兄様はお仕事で、エル兄様は立太子の準備があって……」
しょんぼりするマリアに微笑みかけて、レインは皇女らしい返答を返すことにした。そろそろこの長い朝食を終わらせても良いころだ。
「私でよければ、いくらでも話し相手になりますよ。今日はご足労頂きありがとうございます」
窓に目をやれば、すでに太陽はかなり高くにある。随分長く喋りこんでいたらしい。
マリアの表情が花が開くように、嬉しそうに変わる。そして王女はその表情のまま、意図せずしてレインの心に漣を立てる言葉を口にした。
「いえ、私はただ、レイン様とお友達になりたかったのです」
「……私と、友達にですか?」
声は柔らかく聞き返したが、レインの胸中は酷く落ち着かなかった。
しかし動揺は隠しきれていなかったらしく、マリアの笑みが引っ込んだ。
「ええ、お友達です。レイン様がよろしければ、ですが」
このままでは不味いと思ったレインは、微笑の仮面を付け直した。
「勿論、私もマリア様と友達になりたいと思います」
言いながら内心で、途方も無い虚しさを押し殺していた。
(マリア姫は、私の正体も、これからの行動も知らない。知れば、友達など……)