七話 皇女の到着
2011.3.11 「妃殿下」を「ロベリア陛下」に訂正。王妃を「殿下」と呼ぶのはおかしいですね(汗
ケイオスの姫君が到着する日を、マリアは心待ちにしていた。
内向的な性格と身分の高さが災いし、マリアには友達といえる人物が少ない。犬や猫は多いのだが、やはり人恋しくなることもあるのだ。ケイオス皇女はどうやら後宮に住まうらしいので、毎日会えるかもしれない。
普段はかまってくれる兄たちにも、数週間前から会えていない。その数週間前に、ジクルスとエルフォードが言い争いをしていたのが目撃されているので、マリアは心配でならなかった。皇女の出迎えにはきっと、マリアも含めた家族全員が集まることになるだろうから、原因を訊けるかもしれない。
期待に胸が膨らんだマリアは、廊下をいつもより少し速く歩いていた。ところが、角の先から話し声が聞こえたので立ち止まる。
「いい加減教えてくれよ。あの子は誰なんだ?」
同腹の兄・エルフォードの声だ。平淡なように聞こえなくもないが、マリアには分かる、確実に苛立っている声だ。普段であれば兄を見つけたら抱きつきに行くのだが、流石に気まずい。マリアは人からは天然だと言われるが、空気は人より敏感に読めるのだ。
「教えられない。ロベリア陛下のご指示だ」
同じように淡々と答えたのは異母兄・ジクルス。その冷たい声は、マリアの知っている優しい兄とはかけ離れていた。マリアとエルフォードの母で、自らの伯母である女性を、他人行儀に「ロベリア陛下」と呼ぶのが寂しい。実の父親のことも「陛下」と敬称で呼んでいる。家族なのに、とマリアは思うし、エルフォードもおそらく同じように思っているだろう。
(そのうち、私やエル兄様のことも敬称で呼ぶようになってしまうのでしょうか)
悲しくなったマリアがしゅんと項垂れる間に、姿の見えぬ二人の会話は進んでゆく。
「母上の? まさか本当に父上の隠し子なんじゃないだろな」
エルフォードの言葉も刺々しかった。マリアにとっては何の話なのかまったく理解できないが、穏やかではない。
「口を慎め。誰が聞いているか……不味いな」
「何がさ」
「角の向こうに人がいる」
マリアは息を呑んでしまい、慌てて口を押さえた。遅すぎたが。
ジクルスが人の気配に敏感なことを、すっかり失念していたのだ。
これは、さっさと謝ってしまうしかない。
「あの……マリアです。立ち聞きしてしまい、申し訳ございませんでした」
エルフォードは基本的にマリアに甘いが、ジクルスは怒るときは怒る。それがとんでもなく怖い。マリアは、夜の城内で幽霊に出くわすよりも、上の兄に叱られるほうが怖かったりする。
「兄貴、マリアを責めるなよ」
「ああ、分かっている。こんなところで言い争いをした俺たちに非がある」
どうやら、叱られることはなくなったらしい。マリアはほっと息をついた。ほのかに笑ったエルフォードが、髪が乱れない程度に頭を撫でてくれた。それだけで、嬉しい。
けれど、兄たちがマリアを騙そうとしているような気がしてならなかった。先ほどまで言い争いをしていたのに、妹の目前では揃って良い兄だ。
(理由を聞けそうな雰囲気ではありませんね)
マリアは少ししょんぼりした。
――*――*――
皇女の割には少ない荷物と共に、レインはウォールディアへ来た。侍女や護衛はウォールディア王が許さなかったので、ウォールディア人の従者を連れての到着だ。遠目に見る限りでは儚げな印象を受けるが、よくよく見ると足取りは頼もしい。背筋を伸ばしてしっかりと前を向くその様子は、長旅の疲れなど微塵も感じさせなかった。
大広間の上座に設えられた壇にアラン王とロベリア妃が並び、アランの隣にエルフォードが、ロベリアの隣にはマリアが立っている。
レインはエルフォードよりも背が高いので、エスコート役はジクルスになる。パーティーは適当に抜け出して鍛錬をするつもりだったジクルスにとってはまったくありがたくない話だが、弟を笑い者にするわけにはいかないので引き受けた。
かくしてジクルスは広間の入り口で皇女の手をとったのだが、そこで職業病が出て、思わず小声で尋ねてしまった。
「皇女様は、剣をお使いに?」
触れた掌が、女性にしては硬かったのだ。特に硬い部位が、ジクルスと――剣を握る者と同じ位置であることもその予想を裏付けていた。
皇女は驚いたようにジクルスの顔を見上げたが、自分の手をとったジクルスの手を見て納得したようだった。聞いた通りの銀色の目が、妙に印象的だ。
「ええ。女だてらにと咎められますが、剣と乗馬は嗜んでおります。殿下はなんでも、剣術に明るいそうですね」
ジクルスの勘に過ぎないが、この皇女はどこか猫を被っているというか、大人しい振りをしているような感じがする。この手の硬さは、嗜む程度の剣術や馬術では説明がつかない。
「いえ、噂ほどの腕ではありません。軍籍なのは、剣しか取り柄がない者ですから」
まあ追々分かるだろうと、皇女に合わせてジクルスも、対外用の上品な言葉遣いと人当たりのよい笑顔で応えておくことにした。隊の部下に「別人じゃないか!」叫ばれたこともある貴公子面だ。
「ご謙遜を。殿下は武勇も然ることながら、優れた統率も名高くいらっしゃいますわ」
微笑む皇女は美人だったが、どことなく影があるように見えた。まあ、人質に出された姫が元気そうだったら、そちらの方がおかしい。
あまり話し込んでも要らぬ噂の種になるだけなので、皇女を促して王族の所まで行く。毅然とした歩みだ。立場の弱い敗戦国の姫ながら、皇族の威厳を感じる。
ケイオス風の、膝を折って右手を左肩に当てる礼をしたレインに、アランは壇上から声をかけた。
「長旅ご苦労であった、レイン姫よ」
目を伏せたままレインは、大人しい言葉を返す。
「陛下のお心遣いの賜物で、快適な旅で御座いました」
「慣れぬ異国の地では何かと不便も多かろう。そこにいる息子は無論、妻や娘に頼ると良いだろう」
深く考えずに聞くと優しい台詞だ。まるで親戚か同盟国の姫にでもかけているかのような。しかし、ジクルスは気付き、壇上のエルフォードも気付いた。
『そこにいる息子は無論……』――エルフォードは範囲外だ。
「身に余るお気遣い、感謝致します」
皇女は物静かな様子を保っている。この人も気付いたかもしれない、とジクルスは思った。
ジクルスが王位継承権を破棄した現在、王太子こそ決まっていないが、その候補として最も有力なのはエルフォードだ。次ぐのはマリアだろう。その後に、王弟などの貴族が入る。
つまりレインは、皇女の体面は保ったまま、権力から遠ざけられるのだ。
壇を仰ぎ見ると、伯母と目が合った。無言で「覚悟を決めなさい」と言われたような気がした。
覚悟など、既に決まっている。王位継承権の破棄を決めたあの時――いや、もっと前、己の運命を受け入れた、幼き日に。
ジクルスの脳裏に、古参の侍女に連れていかれる赤毛の赤ん坊が浮かんだ。