六話 月下の裏通りで
身元がはっきりしないとはいえ、ラピスは若い娘だ。さほど怪しまれることもなく住み込みの働き口を見つけた。当てにしていた通り、酒場への就職だ。中年夫婦が営業していたが、婦人が臨月に入ったので給仕を雇うことにしたらしい。働きぶりによっては、婦人が落ち着いた後も雇い続けてもらえるそうだ。
そうと決まったら張り切って働こうと、ラピスは気合を入れて酒場の床を掃除していた。まだ昼間なので店は開いていない。酔っ払いに壊されないよう丈夫な造りになっている机や椅子を除けるのは骨が折れる仕事だが、体を動かしてかく汗は嫌いではない。
カウンターでは腹の大きな婦人が料理の仕込みをしている。酒場の物なので味付けは濃そうだが、是非賄いとして頂きたい。
小一時間もするとやることがなくなったので、鶏肉をたれに漬け込んでいる婦人に声をかける。
「ハンナさん、他にやることありますか?」
慣れた手つきで仕込んだ肉を入れた鍋に蓋をしたハンナは、驚いたようにラピスを見て、少し思案する顔になった。
「そうねぇ……なら、手を洗って料理を手伝って頂戴。そろそろ旦那も戻ってくるころだから」
「はい」
改めて自分の手を眺めてみると、煤や埃で黒くなっている。服も似たような有様になっているので、着替えることに決めた。ハンナが何着かくれたので、今のところ衣服には困っていない。
小走りで店を飛び出したラピスのぴょこぴょこ揺れるツインテールを見送り、ハンナは愛娘を見るかのように微笑む。
「あの子は働き者ね……。この子も、あんな風になるかしら」
手を拭って優しく腹を撫で、ハンナは再び料理に取り掛かった。
夜になると、粗末な蝋燭の光で照らされた店内に、続々と客が集まりだした。職人、商人など様々だが、ほとんどが男に見える。ラピスは彼らの注文を取り、ハンナから酒や料理を受け取って走り回った。
カウンターから近い席はハンナが直接相手をするので、店の隅でカードを囲んでいる集団の所に向かう。
木製のやや重いトレイにビールを入れたジョッキを四つ載せ、熱気の立ち込める中を進む。初めこそ活き活きと働いていたラピスだが、閉め切った酒場には酒気が充満しており、気分が悪くなってきた。
(飲んでもいないのに酔っぱらった……。ビールとか料理とか持ったまま転んだらどうしよう)
これを配ったら少し休憩させてもらうか、と考えつつ、ビールをこぼさないよう慎重に机に置いていた。すると、その机の客の一人に声をかけられた。
「あれ、ラピス?」
聞き覚えのある少年の声だった。ラピスが驚いて声の主を探すと、すぐに黒髪と緑色の瞳が見つかった。
「エル!?」
「うん、エル。ラピスはここで働いてたんだ……て言うか、顔色悪いよ。大丈夫?」
ウォールディアでは飲酒に年齢制限を設けてはいないが、酒場の客の中ではエルが目立って幼い。それでも平然とカードを持つ姿は、板に付いていた。
しかしラピスは、そんなことに構っていられなくなった。エルの名を叫んだせいで体調は悪化してきており、頭痛やら目眩やらが大変なことになってきたのだ。根が意地っ張りのラピスでも、大丈夫だとは言っていられない。それどころか、喋ることができない。視界はぼやけて、その上で平衡感覚が掴み辛い。
ラピスは返事の代わりに、机に手をついてしゃがみこんだ。
「大丈夫じゃなさそうだね……」
苦々しく言ったエルは立ち上がりカード仲間に二、三言葉をかけると、ラピスの腕を掴んで立たせた。エルと会うのは二回目だが、二回ともこんな展開になっている。一度目と違ってラピスは酒気に酔っているのが情けないが。
ラピスが顔を上げてカウンターを窺うと、ハンナは頷いてくれた。そこまで見守ったらしいエルは、ラピスを支えて店の外に通じる扉へと歩き出した。
――*――*――
店は大通りからだいぶ離れた場所にある。夜間でも大通りは賑やかだが、その喧騒は遠い。
頻繁に開け閉めされる扉の傍では休み辛いだろうから、店の外壁沿いに裏通りに入った。ラピスを軒先に積まれた薪に腰かけさせ、エルはその近くで石を蹴っている。
「戻ってもいいよ」と言われたが、ラピスを残して戻ったらハンナに怒られるので断る。エルはこの酒場に随分世話になっており、ハンナともその夫とも顔見知りだ。
ラピスは困ったように俯いたが、すぐに眉間にしわを寄せてなにやら考えだした。おそらく、エルを店に戻すための作戦でも練っているのだろう。その間エルは、赤毛の少女を観察することにした。
背丈はエルよりも少し高い。痩身だが不健康な痩せ方ではない。赤い髪は、兄と色の濃さまで同じ。ついでに言えば、エルの父とも同じだ。瞳の色も兄と同じで、ジクルスの目色は母譲りなので、亡き第二王妃イベリアとも同じだということになる。顔は可愛いが、ジクルスと微妙に似ている。
他人の空似にしては、出来すぎている。
(まさかラピスは……)
エルの脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。そうであれば、ジクルスが頑なに会うことを禁じるのも、説明がつくかもしれない。
エルとラピスの思考は、唐突に打ち切られた。
一人の女性が、凄まじいスピードで二人の前を通り過ぎたのだ。
女性は決してエルのすぐ傍を通ったわけではないのだが、エルの前髪が風にふわりと舞い上がった。裏通りとはいえ、大人が二人両手を広げられる程度の幅はある。
「速い……」
「速……」
ラピスはエルと、同時に同じ感想をこぼした。互いの声が混ざって響くのが可笑しかったのか、ラピスはエルの方を見て破顔した。
女性の後姿は既に消えていた。
和やかさを装って笑い返しつつ、エルはその女が帯剣していたことにも気付いていた。不用意に怯えさせないためにラピスには黙っておいたが、無言で店の中に戻るように促す。
その判断自体は正しかったのだが、如何せん遅かった。
女を追うように、商人風の中年男が一人走ってくるのが見える。こちらは人並みの速度だが、やはり帯剣している。
男はラピスとエルの十メートルほど手前で走るのをやめ、肩で息をしながら歩み寄ってきた。確実にこちらを見ている。
嫌な予感が働き、エルはラピスを背に庇う。ラピスが息を呑むのが聞こえた。
正直に言えば、男に対抗する術はない。ラピスは運動能力に優れているようだが、今はふらふらだ。一方でエルは喧嘩にこそ滅法強いが、それは相手が非武装のときの話だ。
(ラピスだけでも逃がせないだろうか)
上手く立ち回れば少女が店に駆け込む時間くらいは稼げるかもしれないが、小さな店には扉が一つしかない。男がラピスを追えば終わりだ。
考える間に、男が抜剣する。その剣先はエルの顔に向かっていた。
エルは意識して無表情を保った。ここで死ぬわけにはいかない。
「何の用だ」
白状すると結構怖いのだが、声に怯えは出さない。
剣の男は、嘲るように笑った。
「冷静だな。だが……」
台詞を切ると同時に、剣先をラピスに向けた。ラピスが小さく悲鳴を上げた。
「これでどうだ?」
「……その子に手を出すな」
「耳を貸すとでも? 人質にするなら、弱い方だ」
男は少女の襟首を掴み、強引に立たせた。
先ほど女性が走り去った後を、男は歩いて進んだ。その自信に満ちた歩はラピスとエルにとっては不吉でしかなかったが、エルは気付かれない十分な距離を保って尾行し続けた。
住宅地の広間にまで出たところで、男は立ち止まった。エルは路地の家屋の陰に隠れて見張っている。
剣をラピスの首元に当てた男が、一点を向いて話しだす。
「出て来い。そこに居るんだろう」
問いではなく、確認。それを裏付けるように、建物の隙間から先ほどの女性が姿を現した。
月明かりに照らされた女性は、体格から察するに、エルやラピスよりも二、三歳年上。滑らかな髪が膝の辺りまで伸びている。容貌はよく見えないが、その手には抜き身の長剣が握られていた。痩躯に似合わない重厚な剣を、軽々と持っている。
男は人を見下したような笑みを絶やさない。
「剣は置け。見知らぬ子供とはいえ、見捨てられるお前ではないだろう」
女性は歯を食いしばり、剣を捨てた。一瞬だけラピスに向けた視線は、謝罪しているようにも見えた。
ラピスの表情は角度的に見えない。
「俺から逃げられると思ったのか? 次こんなことがあれば、トアンの命はない」
「なっ……!? ゼム、トアンは貴様の妹だぞ!?」
「だから何だ? それと念のためにいっておくが、俺が殺されたらトアンを殺すように指示してある。確かにお前は強い。俺程度から逃げるのは、造作もないだろう。だが、お前は情に厚すぎる」
数秒硬直した女性が、ぎこちなく頷いたのを確認し、男はラピスの腕を強く引っ張った。ラピスはバランスを崩しかけたが、体の向きを変えて立ち直した。ようやくこちらを向いたラピスは、目を閉じていた。男にそうするよう指示されていたのだろう。
次に口を開いたのは、意外にも女性だった。
「そのまま真っ直ぐに歩いて。絶対に振り返っちゃ駄目よ」
優しい声音だった。例えるなら、幼い妹に言い聞かせるような調子だ。先ほどまでは男のような話し方をしていたのに、この台詞は女らしい。
ラピスは腕を解放されると同時に歩き出した。目を閉じている割には真っ直ぐに、エルの隠れる方に向かっている。微かに震えているように見えるのは、エルの気のせいではないだろう。
放した人質に一瞥をくれた男は剣を鞘に収め、女性に「行くぞ」と言ってラピスとは反対方向に歩き出した。女性はその後に続いた。
男は振り返らなかったが、女性は一度だけラピスを確認した。その時一瞬だけ、エルと目が合ったような気がした。
「ラピス、怪我は!?」
命の恩人を危険な目に遭わせてしまい、エルの良心はかなり痛んでいる。
「……ない、と思う」
見ていたエルでさえ恐怖に足がすくみかけたのだ。実際に剣を当てられたラピスが平気だったはずはない。それでも、ラピスは泣かなかった。一見どこにでも居そうなこの少女は、実は暗い過去を持っているのかもしれない。
「ごめんな。何もできなかった」
「そんなことないよ。迎えに来てくれたでしょう? さ、店に戻ろう」
逆に励まされる自分が情けなくて仕方なかった。だが、そろそろ戻らないと大変なことになりそうだ。
「ハンナに怒られる……」
「え? ハンナさんが怒ることなんてあるの?」
「あるさ……思い出したくもない」
去った狂人より、これから会う鬼のほうが怖い。酒場の女主人が本気で怒ったときの剣幕を知っているエルは、一秒でも早く新人ウェイトレスを送り届けなければと思った。