四話 レイン
度量衡はメートル法を使用しています。
ケイオス帝国とウォールディア王国の国境付近の森を、一人の娘が歩いていた。
満月は真南の空から輝くが、森において十分な光源とは言い難い。それでも、娘は街道を行くよりいくらか速い速度を保っていた。男物の衣装をまとい長い髪は服の中に隠してしまっているので、一見しただけでは森歩きになれた狩人のようにみえる。
娘は東――ウォールディア側に向かっている。
ほっそりとした体格に似合わない無骨な剣が、娘の腰に音を立てることなく着けられている。月明かりにも鈍く輝く鞘は存在感があったが、娘の影にはそれ以上に目立つ特徴があった。
輝くのは三点、不似合いな長剣と、銀色の双眸。
成長期を過ぎてなおその特徴を持つ者は、ケイオスの長い歴史の中にも二人しかいない。一人は今や神話と化した建国帝の妃、もう一人がこの娘だ。二人の名は同じく、レインと言う。ケイオス古語で「慈恵」を意味している。
そう、真夜中の森を一人歩きするこの娘こそ、ケイオス第二皇女・レインだった。
息を切らすことなく黙々と歩くレインは、荷物らしい荷物も持っていない。冬も近いのに、額には汗さえうっすらと浮かんでいる。履いているブーツはたくさんの細かい傷が付いた乗馬用のもので、森に入るまでは馬に乗っていたことを示していた。
(国境を越えてしまえば、追手も来なくなるはず。まさか王国に間諜は送れまい)
このままケイオスに残れば、皇帝の手駒にされることは避けられない。なんとしてでも逃げ切らなくては。
レインの足が自然と速くなった。飲まず食わずで丸一日歩き詰めだが、立ち止まるわけには行かない。
―*―*―
――千年の禍払ひて、英雄ラクシオ立つ。してケイオス、出来にけり。妃あり慈恵と言ふ。神の愛し子の乙女なりけり。
千年続いた災いを平定し、英雄ラクシオは皇帝に即位した。そうしてケイオス帝国は成立した。ラクシオ帝には妃があり、レインと言う。神の愛し子の乙女であった。
建造して間もない宮殿の一室は絢爛豪華な装飾が施されており、そこがラクシオの私室だった。未だに慣れない華美な服に身を包んだラクシオは、米神を片手で押さえながら嘆願書を読んでいた。
(民は勝手だ。祀り上げた英雄や王に、すべてを押し付ける)
こんなことならあの時レインを連れて行方をくらますんだった、とラクシオが後悔していると、扉がノックされた。それだけでラクシオには、訪問者が分かる。
「入っていいぞ」
姿を現したのは、細身の女性だった。装飾金属になる本物の銀より美しい、銀色の瞳。類稀な美貌が滑らかな髪に縁取られている。ラクシオと同じく豪華な衣装は好まず、着ているのは白いワンピースだ。
女性はラクシオを見て微笑み、それから真顔に戻った。
銀の瞳の子供は時折見かけるが、成長が終わってからもそうである者は珍しい。古今東西探しても、このレイン一人だろう。
レインは、名もない辺境で育ったラクシオが剣を取り、近隣の邦々を平定するまで支え続けてくれた幼馴染だった。ラクシオが皇帝を名乗ると同時に、レインは皇妃になった。レイン以外の女性を妻とすることなど、ラクシオには考え付かない。
「ラクシオ、南岸の邑で、海賊被害が深刻なようよ」
「すぐに調査をさせよう」
「もう手を回したわ。オリカを行かせた」
「流石レインだ。オリカなら信頼が置ける」
オリカは誠実な男だ。かつてラクシオが命を助けたのを恩に思い、帝国成立までの三年間、互いの背中を守りあって戦ってきた。重臣に取り立てようと思ったのは辞退されてしまったが、今もラクシオとレインに絶対の忠誠を尽くしてくれている。
「してレイン、西国との同盟は順調か?」
銀眼の神の愛し子は大抵、一つ恵まれた特徴――“神才”を生まれ持つが、レインの神才が何なのかはよく分からない。レインは類稀な美貌の持ち主だが、学問に関する才能も抜きん出ているのだ。
「ええ、抜かりないわ。北の広大なる山脈は、後回しでいいわね」
「ああ。では俺は、東地方の邑をめぐり、配下に下るように求めに行く。留守を頼んだぞ」
「任せて頂戴」
妻は華奢な腕を腰に当て、無邪気な笑みを湛えた。
賢いレインは、他人の前では滅多に笑わない。一度見知らぬ男に不用意に微笑みかけ、危険な目に遭ったことがあった。そのときは幸いにも、ラクシオが助けて事なきを得たが、気丈な幼馴染が声を上げて泣いた姿はラクシオの目蓋の裏に焼きついている。
だからラクシオとしては、妻を残して旅立つのはとても気がかりだったりする。
「何度も言うようだが、市井には絶対に行くなよ。それから……」
「兵舎には近付かないし、厨房には長居しないし、部屋の外に出るときは動きやすい格好で武装。分かってるわよ。ラクシオは心配性ね」
さすがに呆れたレインは、ため息をついた。
だがラクシオとしてはずっと、自分、百歩譲ってオリカを、レインの傍に置きたい。
ただ剣の腕が立つだけの青年が一国の主に成り上がれたのは、偏に愛しい妻のおかげだった。そして、無学な男が皇帝をやっていられるのも、レインがいるからなのだ。
―*―*―
二人目のレインは、森を早足に進みながら自嘲気味に笑った。
(何が神の愛し子だ。私の知る限り皆不幸じゃないか)
声に出せば無駄な体力を消耗するので、毒づくのは心の中でだけだ。
(皇帝の思い通りにはさせない。私は母とは違う)
レインの記憶に、母親に関するものはほとんどない。ただ、皇帝の妾ともなると一応記録には残るので、それを調べることはできた。母は強い人物ではなかった。そして、決して恵まれた人生ではなかった。
森の外れまであと二キロメートルほどの地点でのことだった。
人の気配を感じたレインは立ち止まり、剣の柄に手を添えた。周囲を見渡しても人影はないが、レインの聴力が下草の揺すられる音を捉える。複数だ。
追手か、盗賊か。
レインは一人がいるであろう場所に向かって声をかけた。
「私の正面と左に一人ずつ、右に二人、後ろに三人。囲んだつもりか?」
相手の敵意は明確なので、剣を抜いて構える。貴族の子女が護身用にするような細身のものではなく、戦場でも使われるような頑丈なものだ。それを、重みを感じないかのように片手で構える。
正面の一人が立ち上がった。みすぼらしい身なりの男だ。下品な笑いを浮かべ、ショートソードを見せびらかしている。歳は三十くらいで、呼吸が荒い。
「盗賊か」
レインが確認する。男が頷く。命令された者でないとなれば、手加減をする必要はない。
男は酔いが回っているのか赤い顔で、それでも異常に光る目でレインを見た。
「こんな夜中に森を歩く若い女がどうなるか、分かっているだろう?」
どうやら薄暗いおかげで、瞳の色は悟られていないようだ。
「貴様こそ、追剥の末路を知らないわけではあるまい」
レインは力強く地面を蹴り、大上段から剣を振り下ろした。あまりのスピードに男は反応できず、口元に笑いを残したまま倒れた。肩から腹にかけて深い切り傷が刻まれ、大量の血を流している。
はみ出した臓腑にも眉一つ動かさず、レインは逆手に持ち替えた剣を男の心臓に振り下ろした。同時に残りの男たちが一斉に立ち上がり、弓を持っていた者が射掛けてきた。
しかし、十メートルもない近距離だったにもかかわらず、レインは飛来した矢を剣で叩き落した。そして男たちが驚愕するよりも早く、弓を使った一人の首を刎ねる。近距離とはいえ、十歩以上はある間合いを一瞬で詰めて。
血と脂で光る剣は片手で構えたまま、顔に付いた返り血を手の甲で拭って残りの盗賊を見た。
やや細められた目は、感情を一切映さない。
ひい、と悲鳴を上げた男たちは、脱兎のごとく逃げ出す。レインは追わず、首のない男のズボンで拭った剣を鞘に収めた。
一連の動きを終えてようやくレインの顔に表情が戻った。下唇をかみ締めて痛みに耐えるような顔をする。そして俯いて歯を食いしばり、搾り出すように言った。
「……結局私は、この道でしか生きられない」
数秒地面を凝視するが、視界の端に先ほど葬った男が映り、自嘲気味に笑った。
「今更だな。自分を嘆くには、多く殺しすぎた……」
月明かりが二つの死体と、その間で立ち尽くす血まみれの娘を照らしていた。