十一話 思案
大変お待たせしました。少し短めではありますが、お楽しみください。
2011.7.28 十二話⇒十一話 に訂正
2011.9.20 エストレジア⇒ストレイジア に統一
レインは部屋に、できるだけ使用人を入らせないようにしている。ケイオスに広く浸透する風習であるが、女性は身分が高くとも自らの手で身支度を行う。皇女たるレインも例外ではなかった。朝は自力で起床し、ほとんどの用意を一人で済ませる。流石にウォールディアのドレスを一人で着るのは困難なので、そこで侍女を呼ぶが、手伝いを頼むのは着付けのみだ。
マリアと食事をし、ジクルスと庭園を歩いた次の日も、レインの朝は早かった。
レインは床についた途端に深い眠りに落ち、その分目覚めはすこぶる良い。目が覚めるや否や起き上がり、部屋の窓を開けた。早朝の冷たい風が部屋に吹き込み、カーテンを揺らす。
窓を開け放ったまま鏡台に向かい、櫛を取り出して髪を梳かす。立てば膝ほどの長さがある髪は、高級な板張りの床に流れ、毎朝のことながら梳かしづらい。
(こんなことなら、脱走したときに切っておけばよかった)
切らなかったのは、女らしさへの執着か、捕まって嫁がされる事態に備えてしまったからか。
色合いはありふれた茶色だが、レインの髪は美しい。梳かされるに従って艶を増し、朝日を弾いた。
朝風は既に冬のもので、レインの痩身を容赦なく冷やす。しかし、レインは外気に当たるのが好きだ。人の息に汚されない清らかな風を全身で感じると、生きている実感が湧く。
ウォールディア王国での暮らしは、平和そのものだ。レインの半生を振り返っても、己の身に降りかかる危険をここまで無視できた期間はさほどない。
偽りの平和だとは、分かっているけれど。
――*――*――
逃亡が失敗に終わり、レインは為す術なくケイオス帝国城に連れ戻された。旅の汚れも落とさないまま玉座の前に引き出され、後ろ手を縛られたまま罪人よろしく突き飛ばされる。耐えられないほどではなかったが、耐えてしまえば眼前の人を怒らせるだけだ。無様に転んでおいた。ここ数日飲まず食わずが続いたせいで、身も心も疲れ果てていた。
緋色の絨毯を頬に感じながら、惨めな思いを噛み締める。彼の人はおそらく冷笑しているだろう。確認するまでもない。
抵抗しなかったせいで、口の中が少し切れた。血の味がする。
彼の人は、レインの遥か上から声をかける。
「久しいな、穢れた娘よ」
玉座に腰掛けるその男は、優越感に酔った様子で笑う。レインは思考を放棄した。上体を起こす気にもなれない。
「やはり身の卑しさは隠しきれぬか。“神の愛し子”が聞いて呆れる。どうした、口が利けないのではあるまい、こちらを見て何か申せ」
この男はレインの異母兄であり、病床のケイオス帝に代わって政治の頂点に立つ皇太子だ。名を、ストレイジアと言う。レインより十は長く生きているはずなのに、幼い感情が目立つ。
レインが無視すると、先程レインを突き倒した武官に、後ろ手の縄を引っ張って無理やり起こされた。手首に縄が擦って痛かったが、声を立てたくなるほどではない。表情すら動かない。
武官はレインの背中を蹴飛ばして怒鳴る。
「何か申せと仰っているだろう!」
レインは黙っていた。反抗しているのではなく、ただ何も考えたくなかったのだ。ストレイジアの子供じみた優越に付き合うのは億劫だった。ただ手首の痛みだけが現実で、後は夢でも見ているかのような、ぼんやりとした感覚しかない。
咳が出た。
ストレイジアは小太りの体を震わせて満足気な表情を浮かべる。それから突然、飼い猫にでも語り掛けるような薄ら優しい声に変わる。
「妹よ、お前に役目をやろう」
レインははっきりしない頭で、不審に思った。ストレイジアはこれまで、唯の一度もレインを妹とは呼ばなかったからだ。
皇太子は続ける。
「役目だ。嬉しかろう、穢れたその身も、余の役に立つのだ。お前は卑しき母親に似て容貌が優れ、武術の腕は余の近衛五人にも勝る。何より、父帝の血を引く正真正銘の皇女だ」
嫌な予感がした。これまでレインの異母妹にあたる貴族腹の皇女を引き合いに出してレインを認めない発言ばかりを繰り返してきたストイレジアなのに、レインに流れる皇帝の血を強調している。
「お前をウォールディア城に送る。そこで、彼の国の王子を二人とも、殺せ」
断ればどうなるかなど、態々想像するまでもない。レインに逃げ道はない。
これまでだって、誰かを殺して生きてきたのだ。あと二人増えたところで、何も変わらないだろう。
レインは嗄れた声で、「御意」と答えると、意識を手放した。
――*――*――
いっそのこと、このまま大人しく生き抜いてしまえるのではないか。王子暗殺などせずに。
軍属のジクルスはともかく、エルフォードの方もレインを怪しんでいる。暗殺は至難の業だ。だが、このまま暗殺などやめてしまえば?
レインの思考を遮るように、開け放った窓から一羽の鳩が舞い降りた。その足に、紙縒りが結び付けられている。
嫌な予感がして、レインは青ざめた。
鳩の紙縒りを解き、開く。
『逃れられると思うな』
その雑な筆跡には見覚えがある。
「ゼムか……。分かってたさ。私に選択権などないんだろう」
人質を取られているのだ。従うしかなかろう。
レインがケイオス帝国――ストレイジアに背けば、レインの育て親であるトアンが殺されることになっていいる。ゼムは賢くも情のない男だ。レインがトアンを慕うようになるのも、計算されていたのかもしれない。トアンはゼムの実の妹だが、宣言した以上本当に殺してしまうだろう。そういう男だ。
レインは深く深呼吸をして表情を消すと、ドレスの着付けのために侍女を呼んだ。
すぐに年配の侍女が一人、数人の若い侍女を連れてやってきた。無表情のレインにも怯まずに笑顔で接してくるこの年配の侍女には好感を持っている。ただ、これからすることを思うとあまり親しくなる気にはなれないが。
「レイン様、本日は両陛下が朝食にお呼びです。お召し物はいかがされますか?」
「では、いつも通り質素ながらも、上等の生地のものをお願いします」
「かしこまりました。色合いはどうされますか?」
「任せます」
「では、レイン様の瞳が映えるよう、深い青に致しましょう」
了解の意を込めて微笑むと、若い侍女たちがレインに見蕩れてため息をついた。レインの容貌は、傾国の美女と呼ばれた母親には及ばないものの、相当整っていたからだ。
(王と王妃が揃うとは……厄介なことになったな)
ウォールディアの王は名君と讃えられている。王妃もまた、王と並ぶ政治手腕で名高い。二人に怪しまれないようにするのは、至難の業のような気がした。