十話 思惑
2011.7.28 十一話⇒十話 に訂正
後宮の最上階に設えられた王妃の居室は、一人の客人を迎えていた。
「こちらに御越し頂くとは、久しゅうございますね」
第一王妃の名に恥じない優雅な礼で、ロベリアは夫を迎えた。昼下がりの、貴婦人であれば昼寝をしていてもおかしくない時間であるが、ロベリアの豊かな黒髪は几帳面に結い上げられ、ドレス姿にも乱れはない。
「急に済まん」
アランは護衛と侍女たちに下がるように指示し、ロベリアと共に細工の美しいテーブルについた。
王妃の居室では、ウォールディアのみならず、大陸の各国から最高峰の技術で作られた家具が使用されている。例えばこのテーブルは、木組みの脚はウォールディア製だが、天板のガラスは南東の小国・シスタニア公国で作られたものだ。
侍女を下がらせたので、二人分の紅茶はロベリアが淹れる。この茶葉や茶器も、王国の技術の結晶だ。
「其方とこうして茶を飲むのも久方ぶりだな」
「ええ。妹が知ったら驚くに違いありません」
「……イベリアか」
ふと、遠い過去を思い出すようにアランは目を細めた。ロベリアもティーカップを置き、同じ人物に思いをはせた。
アランの最愛の人であり、ロベリアの妹であった女性を。
「十六年。早いものですね」
ウォールディアの王は、生涯に三人の伴侶を持つことを許される。若き日のアランは、第一王妃として教養に優れたロベリアを選び、第二王妃には、派閥争いを避けるため、ロベリアの実妹を迎えた。それがイベリアだった。
学問、芸術共に優れたロベリアとは対照的に、イベリアは何を取っても平凡な娘だった。しかし、何の打算もなく微笑み、傍にいる者を魅了してやまない娘だった。立場上荒んだ人間関係を持つことが多かったアランはいつしか、彼女を本気で愛するようになっていた。
紅茶を一口飲み、アランはロベリアを窺った。
「ロベリア、余に隠し事をしているだろう」
澄ました表情で、ロベリアも紅茶を口に含む。
「いいえ」
アランは大きく溜息をついた。しかし目は穏やかだ。アランは誰よりもイベリアを愛したが、ロベリアをこの上なく信頼していた。その感情は親友に向けるものに似ている。あるいは、戦友かもしれない。
「姉妹だというのに、イベリアとは大違いだな。其方の腹は読めぬ」
「陛下こそ。ところで、ケイオスの娘のことなのですが……」
「あの“神の愛し子”か。ジクルスはよくやってくれているな」
「ええ。ジクルスは妹に似て真面目です。今頃姫を誘って庭園にでもいますよ」
――*――*――
冬も近いが、城の庭園は寒椿などの植物が彩っている。
「今朝は妹がお邪魔したそうですね」
ジクルスは温室の扉を開きつつ、当たり障りのない話題をふる。シスタニア公国の職人に建設させたガラス張りの温室の中は、外より随分暖かい。こちらには、時期をずらして栽培した春の花が咲いていた。
部下に任せきりになってしまった放火魔と、相変わらず城下町を出歩く弟のことが心配だが、今日は副官が見回りをしている。おそらく大丈夫だろう。
今は貴公子面をしてさえいれば良い。
皇女は長い髪を丁寧に梳かし、質素な模様の服を身に纏っていた。侍女頭の報告によると、身支度はすべて自分の手で行っているらしい。それはケイオスの風習なので驚きはしないが、随分と薄化粧だ。ジクルスの好みではあるが、敵国で身を守らなければならない皇女の行動とは思えない。はっきり言うと、男に取り入る気が感じられない。何か企みがあるのだろうか。
(美人を前に、こんな不毛なことを考えなきゃならんとは……)
内心のため息を悟られないように努力していると、銀色の瞳が予想外に近くに来た。
「邪魔だなど……。マリア様は愛らしいお方ですね。日溜りのような」
ジクルスの顔を真っ直ぐに見据えて微笑み、レインは応えた。
日溜りとはなかなか的確な表現だ、とジクルスも思う。年の離れた異母妹は、見ているだけで心が和む。
もっとも、異母妹の特徴はそれだけではない。
「王位第二継承者にするには不安なところも多いですが、あの子は人の感情の機微に鋭い。きっとウォールディアに欠かせない人物になる、と期待しています」
マリアは内気な分、周囲の人間の善悪を見極める力がある。それはひょっとすると、エルフォードをも上回るかもしれない。しかもああ見えて、第一王妃譲りの芯の強さがある。
レインは共感するように頷いた。
「私もあんな妹が欲しいものです。ところでジクルス様は、どうして王位継承権を破棄なさったのですか?」
「王位を巡る争いを避けるためです。それに、エルフォードは私よりよほど、王に向いている」
何気なく言っておき、この件に関しては深入りされないようにする。レインも追及することはせず、手近な花に頬を寄せた。
それから、しばし沈黙。ジクルスがガラス越しに空を眺めていると、レインは先ほどとは別の一輪を指し、
「ジクルス様、この白い花を部屋に飾りたいのですが……」
と上目遣いに聞いてくる。
花には詳しくないジクルスだが、レインの言う小弁の花には見覚えがある。
「鈴蘭ですか? その花には毒がありますよ」
王位継承権を持っていた昔、自衛の為に毒について調べていたのだ。観賞する分には可憐な鈴蘭も、使い方によっては猛毒になる。
レインは弾かれたように鈴蘭を離した。まだ手折ってはいなかったので、植えられたままの小さな白が左右に揺れた。
「……知りませんでした。お許しください」
妙に静かだ。花を手放す素早さの割に、声には怖れや驚きが込められていない。
ジクルスの勘が違和感を告げる。ジクルスは己の直感をある程度は信頼していた。その勘が、優れた剣術や並外れた膂力よりもよほど、ジクルスの命を救ってきたのだ。
「謝ることなどありません。それより、御手を失礼します。怪我をしていては大変だ」
さりげなく手をとると、やはり硬い。ジクルスの副官も女性だが、彼女と同じくらいは剣を握っているのではないだろうか。皇女が軍人と同程度の鍛錬をしているなど、考え難いが。
怪我はなさそうだ。
「大丈夫そうですね」
「有難うございます」
それなりに見目の良い男女が微笑みあう光景は、温室の外で花を摘む侍女たちを通して城中に噂を呼ぶこととなる。しかし、ジクルスの疑念は深くなる一方だった。
(おそらくレイン姫は、毒草を求めたのだ)
それが有毒だと知った上で、知識を隠して。
――*――*――
ロベリアは二杯目の紅茶を夫のティーカップに注いだ。
アランは摘んだ菓子を飲み込む。
「ジクルスが勤勉であることは疑いようのない事実だが、エルフォードはどうしているのだ?」
ああ痛いところを突かれた、とロベリアは嘆息する。
「見聞を広めております。……どうやら広い人脈を持っているようで、手を打ちにくいのです」
ロベリア自身が腹を痛めて産んだ息子だ。エルフォードは可愛い。ただ困らせられる回数は格段に多い。
ずっと澄ましていた妻の表情が苛立ったのを見て取り、アランは声を立てて笑った。
「お前をしてそう言わしめるとは、あやつには相当な人望があるのだろう。王たる身に必要なことだ」
「人望はともかく、ジクルスの半分でも王族の自覚があればいいのに」
幼いころから数えても、ジクルスの我侭はたった一つ、王位継承権の破棄だけだった。