プロローグ
男は焦っていた。ケイオス帝国の宣戦布告に応えたウォールディア王国が、国境の町に侵攻した知らせを受けたのだ。なんとしても、王国軍よりも先にその町に着かなくてはならない。さもないと、せっかくの儲け話がなくなってしまう。
ケイオスの帝都から三日三晩馬で駆けてきた。疲労は大きい。男も、馬もだ。闇夜の街道で男は馬を降り、水筒に口を付ける。が、水筒からは何も出てこない。一滴くらいはないのかと振ってみても、腰に差した剣が騒がしく鳴るだけだった。
男は舌打ちをして再び馬に跨った。嫌がる馬を力任せに蹴り、走らせる。
だが男と違い、跨る馬は若くなかった。間もなく立ち止まり、催促しても一歩も進まなくなった。仕方がないので男は、悪態をつきながら馬を置いて歩き出した。今度の儲け話が上手く行けば、血統の優れた馬が何頭でも手に入るのだ。
しかし、目的の町は既に、ウォールディア軍に攻め落とされた後だった。遠目に見ても、暗がりに町の燃える明かりがはっきりと確認できた。諦めずに近付いてみても、ウォールディア兵のキャンプを見つけて足を止めることになった。
(畜生、俺は馬まで捨てて来たんだぞ!)
計画は完全に終わりだ、と思った。男の探す人物が、この戦火で生き残れるとは思えないのだ。
男がまた舌打ちをすると、遠くから女性の悲鳴が聞こえた。
「嫌っ! 放して!」
見ると兵士に腕をつかまれた若い女が、近くの森から出されている。別の兵士も数人集まってきた。女は逃げようと抵抗するが、兵士に殴られて気を失った。おそらく、捕虜にされるのだろう。助ける気は毛頭ないが、一応同情しておく。美人の捕虜がどんな扱いを受けるのか、想像するのは難しくない。
男は酷く残念だった。あと数時間早ければ、貴族の資産に匹敵する金が手に入ったかもしれない。
ウォールディア兵に見つかる危険性があるので地団駄を踏んで悔しがることこそしなかったが、代わり兵士が出て行った森の中に入った。獣でも切って憂さ晴らしをしようと考えたのだ。
森の中心部まで来ると、男の優れた聴覚が小さな泣き声を捕らえた。あの町の生き残りだろうか、子供の声だ。そういえば、男が探すつもりだった人間も子供だ。あまり期待はできないが、探してみるのも悪くない。
獣の気配はしない。近くに大勢の人間――それも、訓練された軍人――がいるのだ、息を潜めるしかないのだろう。憂さ晴らしはできそうにない。歩くうちに泣き声は近くなってきた。
泣き声の主以外の人間がいないことを確認して、男は慎重に子供の姿を探す。見つけた、大木の根元にできた空洞の中だ。
「出て来い、そのまま死ぬつもりか?」
泣き声が止まった。しかし当然ながら出て来はしない。警戒されているのだ。
引きずり出してやろうかと思ったが、やめておいた。悲鳴でも上げられたら面倒だ。
「俺はケイオス人だ。助けに来た」
嘘をつくのは得意だ。ケイオス人であるのは事実だが、助けることはないだろう。その辺の奴隷商人に売り払うだけだ。
子供は騙されて、木の下から這って出てきた。五歳くらいの少女だった。茶色の髪は短く切られ、あどけない顔を涙と泥で汚している。どこにでもいそうな子供だが、目の色だけは少し変わっている。
「銀の瞳……情報と同じだ」
男が思わず呟いたように、少女の瞳は銀色だった。そしてそれは、男が探していた人物の持つ特徴に当てはまる。
「おじさん、誰?」
予期せぬ幸運に、男は薄く笑った。利用して荒稼ぎするつもりでいた人間は、死んでいなかったのだ。そうと分かっていれば、奴隷商人などに売りはしない。
「ゼムだ。まだ二十代だから、おじさんはやめろ」
子供はこくんと頷いた。
「ゼムでいい?」
「かまわん。お前の名は?」
よく見ると、この子供は先ほど兵士に連れて行かれた女によく似ている。親子かもしれない。だとしたら美人になるだろう。重要なのは顔立ちの美醜ではなく瞳の色なのだが、容姿が優れていれば何かと重宝する。まあ、十年以上先の話になるが。長い商売になりそうだ。
「あたしはレイン。……ねえゼム、あたしのお母さん、知らない?」
月明かり逆光で、レインにはゼムの表情が見えない。
「さあ……、知らないな」
目の前の男が自分の人生を狂わせて行くことになることを、少女は夢にも思っていない。