離婚式の司会を頼まれました。結婚式と同じ料金では足りません
「結婚式と同じ料金でよければ、お引き受けします」
私がそう口にしたとき、三十八年続いた『かめやパン店』の店主・亀山昇は、目元の深いしわを緩めて「助かるよ」と頭を下げた。横に座る妻の節子さんも、年季の入ったエプロンを膝の上で小さく畳み、ほっとしたように胸をなでおろした。
私は三十五歳、フリーランスのブライダル司会者だ。
先月、長年お世話になった派遣会社から独立し、個人の事務所を立ち上げた。だが、手持ちの顧客などろくにいない。来週には事務所の家賃支払いが迫っており、スケジュール帳の白い余白を眺めては溜め息をつく日々だった。だから「式の司会」と聞いた時点で、飛びついてしまったのだ。
だが、昇さんが小ぶりの木目机に置いたメモを見て、私は冷や汗をかいた。
『式次第:開式の辞、歩みの振り返り、最後の挨拶、ご退場』
場所は閉店したばかりの自分たちの店舗。今週末、引き渡し前の数時間だけ使わせてもらう約束になっているという。
「……あの、これはどういったお集まりでしょうか」
「離婚の挨拶会だよ、高砂さん」
昇さんは、まるで食パンの焼き加減を説明するような平然とした声で言った。
「三十八年やった店を畳んだ。協議も住まいの手配も全部終わってな。あとは役所に紙を出すだけだ。ただ、長年世話になった街の人らに、黙って消えるのは筋が違うと思ってな。ちゃんと終わりの会をやりたいんだ」
喉まで出かかった「おめでとうございます」を飲み込んだ。飲み込んだあとに置く言葉が、見つからない。
結婚式なら「誠におめでとうございます」「お二人の新たな船出」といった定番のフレーズが頭に詰まっている。だが、離婚の会で「おめでとう」は使えない。かといって「お気の毒に」と言うわけにもいかない。台本を一から起こし直す作業が発生する。
「あの、離婚の会となりますと、通常の結婚式で使う演出原稿や進行フォーマットが一切使えませんで……」
「そうか。じゃあ、挨拶の順序を仕切ってくれればいい。よろしく頼むよ」
昇さんはそう言うと、茶封筒をテーブルに置いた。結婚式の基本料金として私が提示した金額が、ぴったり現金で入っている。
私は「結婚式と同じ料金ではとても足りない」と言いかける口を閉ざした。ここで断れば、来週の家賃が払えなくなる。
「……承知いたしました。精一杯、務めさせていただきます」
その夜から、頭を抱える時間が始まった。
進行表を開く。「新郎新婦入場」を消す。「ご両家のご歓談」を「ご参加の皆様との歓談」に書き換える。「永遠の絆」を「三十八年の区切り」……硬すぎる。「感謝の贈呈」……これでは退職祝いだ。
最後に「ご両家のご退場」と書きかけて、私はペンを止めた。両家も何もない。この会が終われば、二人は別々の住まいへ帰るのだ。
翌日、詳細の詰めで再び店を訪ねると、売り場の片隅に若い女性が立っていた。
長女の由香里さんだ。腕を組み、険しい顔で私を睨みつけている。
「高砂さんですね。父と母から聞きました」
由香里さんは私に一歩詰め寄った。
「あんなバカな会、絶対にやめさせてください。二人とも店を畳んで急に暇になったから、気が立っているだけなんです」
「ですが、お二人で話し合って決められたと……」
「高砂さん、あなたプロでしょう?」由香里さんは声を低くした。「司会の腕で、うまく二人を仲直りさせてくださいよ。当日の進行で、昔の店の写真を見せて、最後にお互いへの感謝を語らせれば、絶対二人とも思い直します。そういう風に誘導してください」
由香里さんは、空になったパン棚に手を置いた。
「私、ここのクリームパンで育ったんです。学校から帰ると、ここに一個、取ってあって。父が焼いて、母が袋に入れて。……ああいうの、全部、なんだったんですか」
棚の端に貼られた『クリームパン 百八十円』の札だけが、まだ残っていた。
「……工夫してみます」
私は咄嗟にそう答えてしまった。ここで突っぱねて揉め、依頼をキャンセルされたら前払いの報酬を返さなければならない。私は「ご家族の気持ちも汲んで進めますから」と曖昧な笑みを浮かべ、逃げるように店を後にした。
だが、その日和見な返答が、自分を追い詰めることになる。
*
式当日。
『かめやパン店』の店内は、什器が片付けられ、パイプ椅子が十五脚ほど並べられていた。長年しみついた小麦粉と発酵バターの甘い香りが、がらんとした空間に漂っている。
集まったのは、向かいの肉屋の店主、酒屋の夫婦、近所の常連客たち。みんな「離婚の会」という妙な名目に戸惑い、居心地悪そうに腰かけていた。
開式十分前、控室代わりの奥の作業場で、二人が用意した挨拶のメモを見せてもらった。
昇さんは紺のスーツ、節子さんは控えめなグレーのワンピース姿だ。
昇さんのメモ:
『皆様、本日はありがとうございます。節子はこれから、長年の夢だった県の調理学校の夜間コースに通い、製菓の技術を学ぶことになりました。一人暮らしで慣れないことも多いでしょうが、皆様、どうぞ妻を温かく見守ってください』
節子さんのメモ:
『皆様、長い間ご愛顧いただきありがとうございました。夫はこの街のマンションに残ります。膝が悪いのに無理をする癖がありますので、皆様、どうか夫が一人で倒れていないか、時々覗いてやってください』
私はメモから目を上げた。
「あの……お二人とも、ご自分のこれからのことではなく、お相手のことばかり書かれていますが」
「当たり前だろ」昇さんが当然のように言った。「節子は昔から、自分のやりたいことを後回しにして店を手伝ってくれたんだ。やっと自由にさせてやるんだから、周りの奴らによろしく頼んでおかないと」
「違いますよ」節子さんが眉をひそめた。「あなたこそ、毎朝三時に起きて仕込みをして、自分の体のことなんて何一つ考えてこなかったんじゃないですか。私がついていないと、またカップ麺ばかり食べて体を壊します」
「俺は自分の飯くらい食える!」
「食えません! 先週だって靴下を左右履き違えて外に出ていたじゃないですか!」
「靴下と飯は関係ないだろう」
「そうやっていつも、肝心なところを」
二人の声が重なった。私はマイクの電源が切れているのを、もう一度確かめた。
そこへ、由香里さんが入ってきた。私の横を通り抜けざま、低い声で耳打ちする。
「高砂さん、頼みましたよ。途中で昔の写真を流して、二人に握手させて『やっぱりやり直します』って言わせてくださいね」
私は手元の進行表を見た。娘に言われて書き加えた『思い出の回想・復縁の呼びかけ』の文字がある。
その欄を二人に見せていない。なのに、丸で囲んで、所要時間まで五分と書いてある。
鞄の中には、もう受け取った報酬の封筒が入っていた。
「……申し訳ありません」
私は作業場で、三人に頭を下げた。
「え?」と由香里さんが眉をひそめる。
「由香里さん、先日は曖昧なお返事を差し上げてしまい、本当にすみませんでした。仲直りさせるような進行にすると期待させてしまいましたが、私にはそんな操作はできません。お二人が納得して決められた会の進行を、司会者の都合で折り曲げることはできません」
「な……何言ってるんですか、急に!」由香里さんの声が跳ね上がった。「家族の問題なんですよ!?」
私は呼吸を整え、今度は昇さんと節子さんに向き直った。
「亀山さん、節子さん。お二人のメモを拝見しました。お互いを思いやるお気持ちは痛いほど分かります。ですが、本日の会で、そのまま相手の心配だけを語られますか? それとも、ご自身の言葉で、これからのご自分の歩みについて話されますか?」
二人は顔を見合わせた。
「今のメモのままでも構いません。少し待ちますので」
私はペンの先を紙から離した。
昇さんは固く握りしめていたメモを見つめ、静かにそれを上着のポケットに仕舞った。
「……そうだな。人に自分の心配を語らせてちゃ、意味がないな」
節子さんもまた、自分のメモをバッグに入れた。
「私も……自分の口で言います」
「もう、いいです」
由香里さんは私にそう言い、客席へ戻っていった。
私は『復縁の呼びかけ』に線を引いた。手のひらに汗がにじみ、進行表の端が柔らかくなっていた。
「最後のご退場は、お二人一緒でよろしいですか」
「俺は表から。釣具屋の奴と話がある」
「私は裏にタクシーを呼んでいます。荷物がありますから」
打ち合わせのこの一項目だけは、すぐに決まった。
*
「ただいまより、亀山昇様、節子様の……三十八年の節目となります、ご挨拶の会を執り行います」
マイクを通した私の声が、がらんとした店内に響く。
客席の最前列で、由香里さんが固い表情でこちらを見つめている。
「まず、昇様より皆様へご挨拶がございます」
私はマイクを昇さんに渡した。昇さんは少し咳払いをし、集まった近所の人々を見渡した。
「皆様。長年『かめやパン店』を可愛がっていただき、ありがとうございました。毎朝三時に起きる生活は終わりましたが……俺はまだ隠居するつもりはありません。明日からは地域の防犯パトロールに参加します。それと、若い頃にやっていた釣りを再開します。自分の飯くらい自分で作れるようになって、一人でしっかりやっていきます」
「まずは、卵焼きだな」
「お前、パンはあんなに焼けるのに」と肉屋の店主が言った。
「卵は店で売ってなかったからな」
昇さんは笑った。節子さんも何か言いかけて、マイクを待った。
続いて、マイクを受け取った節子さんが一歩前に出た。普段の丸まった背中ではなく、筋の伸びた姿勢だった。
「私は……来月から、県の調理学校に通うことになりました。若い方々に混ざって、洋菓子の基礎を一から学びます。この歳で新しいことを始めるのは勇気がいりましたが、ずっとやってみたかったことです。いつか小さくても、自分の作った焼き菓子を並べられるようになりたいと思っています」
客席の肉屋の店主が、ぽつりとつぶやいた。
「そうか……節子さん、頑張れよ」
酒屋の奥さんも深く頷いている。
由香里さんは膝の上で拳を握ったままだった。隣の席の人が拍手をしても、その手は動かなかった。
「それでは」
私は進行表の最後の項目に目を落とした。そこには『ご退場』とだけ書かれていた。
「これにて、ご挨拶の会を終了といたします。皆様、本日はありがとうございました」
店舗には、表の通りへ出る「正面入口」と、裏の住宅街へ続く「勝手口」があった。
昇さんは正面入口へ向かって歩き出し、アルミドアの取っ手を掴んだ。
節子さんは勝手口へ向かい、木枠のドアに手をかけた。
二人は同時に足を止め、振り返った。
互いに軽く頭を下げた。
「体に気をつけろよ」
「あなたも、カップ麺ばかり食べないでくださいね」
短く言葉を交わすと、二人はドアを開け、それぞれの外の光の中へと出て行った。
*
参加者が去り、静まり返った店内で折りたたみ椅子を片付けていると、由香里さんが戻ってきた。
「高砂さん」
「はい」
「……できないなら、最初にそう言ってほしかったです」
由香里さんはそう言うと、かばんの紐を固く握った。
「父も母も、あんなふうに自分のことばっかり話して。私の帰る家のことなんか、誰も」
そこで声が途切れた。私は、途中まで畳んだ椅子を戻した。由香里さんは座らなかった。
「最初に、ちゃんとお返事するべきでした。すみません」
私が頭を下げると、由香里さんは小さく息を吐いた。
「……まだ、応援なんかできません」
彼女はパン棚の前で足を止めた。
「あの札、もらってもいいでしょうか」
私は答えかけて、口を閉じた。
「節子さんに、聞いてみましょうか」
「自分で聞きます」
由香里さんはスマートフォンを取り出した。しばらく画面を見つめてから、耳に当てた。
「お母さん。私。……まだ店にいる。ねえ、クリームパンの」
声が少し小さくなった。私は、椅子を片付けるために店の反対側へ行った。
電話を終えた由香里さんは、値札のセロハンテープを爪ではがし、鞄の内ポケットに入れた。正面入口を出てから、立ち止まって左右を見た。その先は、棚に遮られて見えなかった。
一人になって、最後の椅子を畳んだ。
通常の結婚式より打ち合わせは二回多く、原稿は三度書き直した。さらに椅子の片付けまでしている。料金は同じだ。
スマートフォンの料金表を開き、『その他の式典』の欄に『内容により応相談』と打ち込んだ。
保存しようとしたところで、昇さんから短いメッセージが届いた。
『今日はありがとう。次に結婚するときも頼む』
私は画面を二度見た。
続けて、『冗談だよ』。
『その際は、新しい料金表をお送りします』
送信すると、笑っている顔が一つ返ってきた。
鞄から進行表がはみ出していた。『ご両家』を消し、『お二人』を消し、最後には名前だけになった紙だった。
いつものように丸めかけて、やめた。
昇さんの名前と節子さんの名前の間で、二つに折った。




