第6話
研究室の最深部。巨大な霧散装置から、白く冷たい薬剤の霧が、静寂を切り裂いて噴き出した。
それは「ガイア・フェロモン」を中和する、人類最後の切り札。
窓の外、研究所を取り囲んでいたサバクトビバッタの軍勢が、一斉に方向を失い、地上へと墜落していくのが見えた。彼らは瞬時に本来の小さなサイズへと縮み、ただの「虫」へと戻っていく。
街を覆っていた緑の霧が、夕暮れの赤に染まりながら、ゆっくりと霧散していった。
「……戻った、のか?」
みゆきが自分の手を見つめる。
八本の蜘蛛の脚は消え、人間の腕が二本。だが、その肌は以前よりも硬質で、指先には岩をも砕く力が宿ったままだ。
綾もまた、背中の白い翅が砂のように崩れ落ちた。しかし、彼女が紡いだ「鋼鉄の絹糸」は消えることなく、その手元に光るリボンとして残っていた。
そして、蓮。
背中を焼くような熱さが引き、二対の透明な翅が、音もなく消失した。
複眼は消え、視界は元の「狭い」人間のものに戻る。だが、体内に満ちる重機のような怪力と、動体視力だけは、彼の肉体に深く刻み込まれていた。
「……おい、蓮。俺はどうだ。イケメンに戻ったか?」
胸元のハーネスから、聞き慣れた、しかし「低すぎる」声がした。
蓮は、ゆっくりと視線を落とした。
そこには、以前と変わらぬ――いや、より一層しわくちゃになった顔で、首を傾げる一匹のパグがいた。
「……タカシ。お前、そのままだな」
「はあ!? なんでだよ! お前らは人間に寄ったのに、なんで俺だけ100%パグなんだよ!」
パグがジタバタと短い脚を振る。その姿に、みゆきが堪えきれずに吹き出し、綾が優しく微笑んだ。
「でも、喋れるし。……それに、その顔の方が、タカシさんらしいですよ」
「綾ちゃん、それフォローになってねえから!」
蓮は、ハーネスからタカシを解放し、自分の肩に乗せた。
翅を失った背中は、驚くほど軽い。だが、地に足をつけた足取りは、かつてのどの瞬間よりも力強かった。
研究所を出ると、世界は静まり返っていた。
巨大な蜘蛛の巣も、ビルを回遊するスズメバチも消えた。残されたのは、ボロボロに破壊された街の骸と、そこかしこで立ち上がり、空を見上げる人々。
「……これから、どうする?」
みゆきが、拾い上げた硬球を弄びながら聞いた。
「とりあえず、腹が減ったな。特大のドッグフードを探さなきゃいけない奴もいるし」
蓮が肩のタカシを小突くと、「俺は高級なササミがいい!」とパグが吠える。
復興には、気が遠くなるほどの時間がかかるだろう。
自分たちの身体も、完全に元通りにはならなかった。蓮の怪力、みゆきの投力、綾の糸。そして、知性を持った最強のパグ。
この「異形」の力は、これからの過酷な世界を生き抜くための、呪いであり、贈り物だ。
「……行こうぜ。家まで、歩いて帰るんだ」
蓮は、残った怪力で仲間たちの荷物――そして綾が編み上げた「思い出のリボン」を軽々と担ぎ上げた。
夕日が、四人の影を長く伸ばす。
空を飛ぶことはもうできない。
けれど、彼らには、共に地を歩む仲間がいる。
蝉の声が、再び聞こえ始めた。
それは断末魔ではなく、新しい季節の始まりを告げる、騒がしい生命の歌だった。




