第2話
野球場が見えた。
廃墟と化した街の中で、そのスタジアムだけが、異様な白さに染め抜かれていた。
外壁を覆う無数の白い糸。それはビルとビルの間を粘つく血管のように繋ぎ、巨大な「繭」をいくつも吊るしている。
蓮の複眼が、その繭を透過した。
中にいるのは――人だ。
まだ生きている。だが、全身を糸に食い込ませ、排泄物と腐臭を垂れ流しながら、ただ「保存」されていた。蜘蛛の餌として、鮮度を保たれたまま。
「……趣味が悪いな。あれ、エサか?」
蓮は翅の羽ばたきを最小限にし、高度を落とした。
「蓮、見ろ。屋上に誰かいる。……いや、一人は壁に張り付いてるぞ」
タカシの指摘通りだった。一人は屋上の縁で、内臓を吐き出すような不気味な手つきで糸を紡ぎ続けている。もう一人は、垂直な外壁を文字通り「走って」いた。
その少女が、向かってくる巨大ゴキブリ――眷属の脳天に、握り拳大の石を叩き込む。
ドシュッ!
乾いた打球音ではない。濡れた肉が爆ぜ、硬質な甲殻が粉砕される、暴力的な破壊音だ。
「……どっちも、人間じゃない」
「でも、話し合いはできそうだ。蓮、降りろ。……あと、その大顎は引っ込めとけ。女の子に嫌われるぞ」
「この顔で好かれると思ってるのか」
蓮は無機質なアスファルトの屋上へ、爪を立てて着地した。
瞬間、外壁を走っていた少女が、跳躍した。
重力を無視した軌道で屋上の縁に降り立つ。彼女の顔には、人間の目のほかに、六つの小さな複眼が蠢いていた。アシダカグモの変異体だ。
少女は三つの石を指の間に挟み、すでに「投球フォーム」を完成させていた。指先のタコ、引き締まった肩。それは紛れもなく、修練を積んだアスリートの構えだ。
「……動くな。ここはあたしたちのナワバリだ。羽虫が迷い込む場所じゃない」
「待て待て! 休戦だ!」タカシが蓮の首元から身を乗り出し、短い前脚を必死に振った。「俺たちは味方だ! このパグを見ろ。俺を食っても、鼻ペチャの脂身と絶望しか取れないぞ!」
少女の八つの目が、同時にタカシを凝視した。
「……喋る、パグ」
「そうだ。名前はタカシ。こっちのオニヤンマは蓮だ。……あんた、いいフォームだな。野球部か?」
少女はゆっくりと石を下ろした。だが、殺気は消えていない。
「みゆき。元・社会人チームのエース。……蜘蛛になったせいで、指のかかりが異常に良くてね。どんな変化球も投げ放題だよ」
みゆきが視線を向けた先には、もう一人の少女――綾がいた。
彼女は蚕蛾の真っ白な翅を震わせ、黙々と糸を編んでいた。その指先は摩擦で血が滲んでいるが、彼女はそれを気にする様子もなく、編み上げた防壁の端に、小さな「ピンクのリボン」を結びつけていた。
「……綾、何をしてるんだ」蓮が問いかける。
綾はおっとりとした、しかしどこか虚ろな瞳で振り返った。
「……可愛くないと。こうして飾っておかないと、私……自分が、あの繭の中の人たちを食べる『虫』になっちゃう気がして。……蓮さんも、リボン、いりますか?」
その言葉の重みに、蓮は沈黙した。彼女の「可愛い」への執着は、人間としての尊厳を繋ぎ止めるための、血を吐くような抵抗だったのだ。
「……研究所に行く。薬剤があれば、戻れるかもしれない。あんたたちのその能力、無駄にするな」
蓮の提案に、みゆきは自嘲気味に笑い、手の中の石を弄んだ。
「行くよ。あたしも、いつまでこの石投げで正気を保てるか分かんないしね。キャッチャーがいない野球なんて、つまんないでしょ」
綾も立ち上がった。「それなら……蓮さん。そのパグさんのために、ハーネスを編ませてください。空中戦をするなら、今のままだとタカシさんが落ちてしまいます。……ちゃんと、肉球の刺繍も入れますから」
三十分後。
蓮の胸元には、鋼鉄の強度を持つ絹糸で編まれた、愛らしい――しかし不気味なほど頑丈なハーネスが装着されていた。
タカシは蓮の胸にしっかりと固定され、鼻息を荒くしている。
「……おい蓮、これ、ピンクのフリルがついてるぞ。俺のキャラじゃないだろ」
「我慢しろ。命綱だ」
四人はスタジアムを後にし、研究所へと続く高架橋に差し掛かった。
「蓮、前方三〇〇メートルだ。オオカマキリが三体、擬態してる。コンクリートの色に溶け込んでやがるが、フェロモンの臭いでバレバレだ。右に一体、左の柱に二体」
タカシの鼻が、空気のわずかな変質を感知する。
「見えた」
蓮の複眼が、陽炎のように揺らぐ景色の中から、鎌を研ぐ捕食者の姿を鮮明に捉えた。
「あたしが眼球を潰す。あんたは突っ込みな!」
みゆきが四足歩行に近い姿勢で壁面を蹴り、並走する。彼女の放った石が、160km/hを超える豪速球となってカマキリの顔面を粉砕した。
綾が空中に鋼鉄の糸を網状に展開し、カマキリの退路を断つ。
「蓮」
タカシが、蓮の耳元で低く囁いた。風圧の中でも、その声だけははっきりと届く。
「翅があるから強いんじゃない。俺たちがまだ、人間として抗ってるから強いんだ。……忘れるなよ」
蓮は答えず、ただ顎で噛み砕いた鉄パイプを強く握り直した。
背中の四枚の翅が、猛烈な高周波振動を始める。
その翅が、役目を終えて消えるまで――あと、三時間。




