第1話
蝉が鳴き止んだ。
それは、断末魔のような静寂だった。
八月、午後二時。コンビニの自動ドアが開いた瞬間、蓮の肌を撫でたのは熱風ではなく、鼻を突く「獣の臭い」と、肺の奥にこびりつくような湿り気だった。
「……おい、蓮。空、見てみろよ。マジでヤバいって」
隣でタカシが、飲みかけのコーラを落とした。パシャリと黒い液体がアスファルトに弾け、炭酸の弾ける音がやけに大きく響く。
北の空から、地を這うような「緑の質量」が迫っていた。雲ではない。それは、意志を持った何兆もの「胞子」だ。街を、ビルを、信号機を、音もなく飲み込んでいく緑の津波。
「逃げるぞ、タカシ! 店の中に――」
蓮が叫び終えるより早く、世界は塗り替えられた。
緑の霧が、音を奪い、光を屈折させる。視界は一瞬でエメラルドグリーンの地獄へと変貌した。
「ガハッ、ゴホッ……! なんだ、これ、喉が……焼ける……ッ!」
肺腑に流れ込む粒子が、遺伝子の螺旋を直接掻き毟る感覚。蓮は膝をつき、熱せられたアスファルトに指を立てた。爪が剥がれ、血が滲む。だが、その痛みすら霧に溶けていく。
「タカシ……ッ!」
隣で親友が、短い悲鳴と共に崩れ落ちるのが見えた。タカシの肉体が、ボコボコと不自然な隆起を繰り返し、服を引き裂きながら「縮んで」いく。骨が軋み、再構築される嫌な音が、静まり返った街に響き渡った。
直後、蓮の背中が爆発した。
いや、内側から「突き破られた」のだ。
メキメキと肩甲骨が横に開き、Tシャツの背中が裂ける。そこから二対の、透明で強靭な「翅」が、濡れた産声を上げて展開した。
激痛は一瞬。直後、脳に流れ込んできたのは、狂気じみた量の「映像」だった。
(見える……全部、見える……!)
視界が数万に分割された。前、横、後ろ、上、下。三六〇度、死角という概念が消滅する。
空中を漂う緑の胞子の一つひとつ。電柱に止まった蝿の足の毛。三〇〇メートル先で逃げ惑う人々の絶望的な表情。
複眼――「空中の暗殺者」オニヤンマの視界。
蓮の口内に、鈍い衝撃が走った。奥歯が根こそぎ抜け落ち、代わりに漆黒の大顎が、鋭利なボルトカッターのような鎌となって歯茎からせり出す。
喉の奥から、自分のものではない「カチカチ」という威嚇音が漏れた。
「……れん……たすけて……」
足元から、情けない、聞き慣れた声がした。
そこには、一匹のパグがいた。二十年来の腐れ縁、ガサツで皮肉屋のタカシが、いまや鼻を鳴らして震える「犬」に成り果てている。
「タカシ、お前……その姿……」
「わかってる! 言うな! 絶望してるのは俺の方だ! なんでお前は強そうな虫で、俺はこれなんだよ!」
パグの口から、タカシの野太い声が漏れる。シュールだが、笑えない。複眼が、霧の向こうから迫る「捕食者」を捉えたからだ。
それは、かつて人間だったものたちだ。
緑の霧に適応できず、ゴキブリの「眷属」と化した異形の群れ。肌は黒い甲殻に覆われ、眼球は退化して白濁している。彼らは蓮の翅が放つ虹色の反射に反応し、重機のような速度で四つん這いになって襲いかかってきた。
「タカシ、俺の首に捕まってろ!」
蓮は無意識に、工事現場のバリケードに転がっていた一本の鉄パイプを掴んだ。
それを、自分の「大顎」に運ぶ。
――ガリィッ!!
火花が散り、鋼鉄が飴細工のようにひしゃげた。人間の筋力では不可能な圧力が加わり、無骨なパイプは先端を鋭く尖らせた「黒い槍」へと変貌する。
(殺せる。いまの俺なら、一閃だ)
蓮は地面を蹴った。
いや、四枚の翅を高速駆動させた。
瞬間、時速一〇〇キロを超える爆発的加速。世界がスローモーションに沈む。
複眼が導き出す「最短の殺害軌道」。蓮は先頭を走る眷属の眉間に、鉄パイプを深く突き立てた。
緑の体液を撒き散らし、敵が沈む。その感触を脳が「快感」として処理した瞬間、蓮の背筋が凍った。
(俺は今、笑ったか……?)
「ぎゃああ! 後ろ! 六体、死角から来てるぞ!」
タカシがパグの短い脚で蓮の首にしがみつきながら叫ぶ。空中戦のナビゲーター。パグの視力は弱いが、代わりにその嗅覚と聴覚が、死角からの奇襲を察知していた。
「どけ、蓮! 鼻が……鼻がムズムズするッ! ヘッ、ヘックショオオオイッ!!」
パグの全力のくしゃみが、大気を圧縮する物理的な衝撃波となった。
ドォォォンッ! という爆音と共に、背後の六体が木っ端微塵に吹き飛ぶ。
「……タカシ、お前、それ」
「俺にもわかんねえよ! でもこれ、一発撃つたびに脳みそがシェイクされる……ッ、鼻が、鼻が死ぬ……」
タカシが涙目で鼻をこすっている間に、霧がわずかに晴れた。
路上には、かつての「人間」だった肉塊が転がっている。
蓮は自分の手を見た。鋭利な爪。虹色の翅。そして、鉄パイプを握る異様な力。
もはや、自分は「人間」という枠組みから外れてしまったのだ。その厳然たる事実が、夕闇の迫る街に突きつけられる。
「……研究所だ」
蓮は低く、自分に言い聞かせるように呟いた。
「あの霧の源流へ行く。そこに、お前を戻す薬があるはずだ」
「お前だって……その羽、どうすんだよ。会社、クビになるぞ」
「空を飛べるんだ。満員電車よりはマシだろ」
軽口を叩き合い、蓮はタカシを――親友だったパグを、力強く抱き上げた。
背中の翅を震わせ、重力から解き放たれる。
上空から見下ろした街は、すでに巨大な虫たちが支配する異形の狩場へと変貌していた。電柱には鋼鉄の糸が張り巡らされ、ビルを縫うようにして一〇メートルを超えるオオスズメバチが、警戒フェロモンを撒き散らしながら巡回している。
「おい蓮、あそこ……野球場の屋上を見ろ。何か動いてる」
タカシの言葉に従い、蓮はズームするように複眼の焦点を絞った。
垂直の壁を自在に駆け上がる、蜘蛛の脚を持った少女。
そして、その傍らで白い繭の盾を編み上げる、蛾の翅を持つ少女。
自分たちと同じ、孤独な「異形」が、あそこにもいる。
「……行くぞ、タカシ。一時間で着かせてやる」
蓮はオニヤンマの咆哮――人間の声帯では出せない高周波の叫びを上げ、夏の空へと加速した。
それは、いつか失われるはずの「空」への、最初で最期の挨拶だった。




