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森まで

「預言……?なんのこと?」

 もう全くわけがわからない。足を後ろに滑らせ、セレスティアは危うく顔から川に突っ込みそうになった。カイが咄嗟に振り向き、セレスティアを抱きとめる。

「僕も詳しくは知らない。レナートさんは君に手紙を残した。君自身の目で確かめるべきだ。でも、ここはだめだ。もう少しだけ我慢して。この川をあと半時ほど歩けば森の北側に着く。森の中まで行けば、樹の魔法を最大限まで使える」

 水を吸って重たくなった革靴のせいで、足を上げるのも億劫だ。セレスティアは仕方なく静かに頷いた。何もわからないが、これだけは言える。

 父さんは、母さんの日記を時計台から持ち出したかった。そして、娘を置いて去ってしまった。それも十七歳の誕生日に。

「セレスティア、何を考えているのかわかる。でも、信じて」

 セレスティアの気持ちを察したのか、カイは振り向いてセレスティアの顔を覗き込んだ。

「時計台に来る前のことをカイが話したことはなかったわ。嵐の中、森で迷子になってたって、父さんは言ってた。カイもまだ小さかったし、思い出すのがつらいから話さないのかと思ってた」

 おそらくカイは自分を守ろうとしてくれている。幼馴染を責め立てる気などなかったが、胸の奥に沈む不安がセレスティアの声にかすかな非難の響きをのせた。

「嘘はついてない」

「そのぶっきらぼうな性格をなおさないと、どうなるかわかってる?」

 セレスティアの前を歩くカイの表情は見えないが、繋いだ手から幼馴染がたじろいだことが伝わった。

「わかったよ。でも、話すことでもないんだ」

「それは私が決めるわ」

 カイの言う“父さんが残した手紙”を読むまで、預言のことも、日記のことも、そしてなぜ自分たちが追われているのかもわからないだろう。セレスティアは気持ちを切り替え、別の話題でカイを問い詰めようと思った。この幼馴染は昔から言葉が足らないのだ。あの嵐の夜、幼いセレスティアはレナートが帰ってきたと気づくやいなや、大声で泣き出して不安だったと訴えた。だが、父親の後ろに隠れていた子どもを見た途端、涙はぴたりと止まり、一瞬でそちらへ興味が移った。しかし、セレスティアが何を尋ねても子どもは一つも答えなかった。聞こえているのか、いないのか。業を煮やしたセレスティアが、その手をびたんと叩いてもまるで気にしない。挙げ句の果てに、娘が子どもの服を脱がそうとするので見かねたレナートが、二人を引き離し、温かいミルクを用意してやると、子どもたちはやっと落ち着きそのまま眠ってしまった。

「君は会ったばかりの僕の服を脱がそうとしたよね」

 カイにそう言われ、セレスティアは今さら気まずく感じ、カイの手を強めにつねった。

「あれは、カイが質問に答えないからよ。父さんの帰りを待ってる間、本を読んでたの。正義の味方が悪い奴らをやっつけるお話。悪い奴らの一人がローブの内側に仕込んだナイフを投げつける場面があるのよ。私はカイが何か隠し持っているんじゃないかって調べてあげただけ!」

「なら、君はいい勘をしている。あと痛い」

 セレスティアに母の記憶はない。誰にだって聞かれたくないことはあるものだ。セレスティアはつねる手をゆるめると、おそるおそる尋ねた。

「……カイは時計台に来る前、どこにいたの?」

 仕方がないといった様子で、カイはため息をついた。夏季とはいえ、長く川の中を歩いていると冷える。つま先の感覚がもうなくなってきた。森まではまだ少しあるのだ。無視し続けるわけにはいかないだろう。

 「組織だ。正義の味方ではないだろうが、悪い奴らかだったのかはわからない。レナートさんに拾ってもらった夜、君の質問に答えなかったのは、質問に答える習慣がなかったからだ。質問することを許されなかったから、どう答えたらいいのかわからなかった」

 前を向いたまま淡々と答えるカイだったが、セレスティアは愕然とした。カイはおそらくセレスティアと同じくらいの歳だ。ぶっきらぼうな話し方に似合わず、よく見ると意外にも幼い顔つきをしているが、背はセレスティアより頭一つ分高い。一昨年の夏季に一気に背が伸びたのだ。膝が痛いと、よく愚痴をこぼしていた。まだ幼かったカイに質問を許さないとは……気になることはとことん突き詰めるセレスティアには、到底考えられなかった。確かに、これは楽しい話題ではない。

「レナートさんが僕を見つけた時、僕が答えたのは、うちにおいで。それだけだ」

「迷子になってたのは本当?」

 セレスティアは自分の手を引く幼馴染の背中を見つめた。なんだかいつもより遠く感じる。兄妹のように一緒に育ったのに何一つ知らなかった。

「半分、本当。レナートさんを探してたから」

「父さんを?」

「そう。でもここまでにしよう。森が見えてきた」

 そう言うと、カイは足を止めてセレスティアを川岸に引っ張り上げた。そのまま地面に左膝をつき、セレスティアの膝に手を当てる。すると、温かい風がセレスティアの膝から下を柔らかく撫でていった。冷えて感覚を失った足にじんわりと温もりが戻ってくる。カイは風の女神アウーラの力を借り、革靴を乾かしてくれたようだ。川の中を歩いたことなんて嘘だったかのように、革紐の先までしっかり乾いている。

「カイ?」

 地面を片膝をつけたまま、じっと動かないカイにセレスティアは声をかけた。

「追手の気配はない。でも森の奥に入ろう。どこか落ち着ける場所を探さないと」

 初めて見る幼馴染の慣れた仕草にセレスティアはふと、戸惑いを覚えた。気配を探る動作があまりに堂に入っている。時計台に来る前、カイはどんな風に暮らしていたのだろう。幼子にとって、決して穏やかで楽しい生活と言えるものではなかったに違いない。

 二人は森に足を踏み入れると、木の幹に生えた苔を確かめながら、東の方角へと歩き出した。鬱蒼と茂った森は、奥へ進むほどに昼でも薄暗く、ほとんど陽の光が届かない。それゆえ、北側の幹だけが湿り気を保ち、苔が繁る。水に葉を浮かべて方角を示す、一般魔法もあるにはあるが、セレスティアにとっては無理難題だった。

「いつから知ってたの?預言のこと」

 カイはすぐには答えなかった。

「……僕が、時計台に来て3回目の冬季だ」

「そう」

 セレスティアはカイのローブの裾を握った。だけど、それ以上何か聞くことはなく、二人は森の中を黙々と歩く。

 不意にカイが口を開いた。

「ブナの木を探すんだ。背が高く枝葉も茂っているのを。何かあっても守ってくれるように、その下で少し休む」

 別名“母なる木”、ブナから得られる魔力は確かに身を守るのに適している。その丸みを帯びた葉に魔力を集めれば、二人を包むような盾を作ることができ、周囲に落ちている枝や枯葉さえも、必要となれば追手の目を欺いてくれる。魔力の媒介を習い始めたばかりの子どもにも、扱いやすい樹木とされていた。一方、カラマツやモミといった針葉樹は攻撃的な魔法に使われることが多く、イチョウやナンテンといった樹木は葉を採取し、調合した後治癒に用いられることが多い。


 「風を司るアウーラと違って、樹の女神フェリアは気難しい。身近な存在に思えても、植物の特徴を正しく理解し見分けられなければ、木々は決して魔力を分け与えてはくれないんだ。とくに治癒魔法を使うには、木々の性格と調合の知識を完璧に覚えておくことが大切だ。……まあ、それでも石の女神オルドと地の女神ヴェルダに比べれば、フェリアは優しい方だ」

 

 昔、父さんがそう教えてくれた。

 レナートは娘に魔法の代わりに、植物の特性と森の歩き方を叩き込んだ。複雑な魔法薬でなければ、セレスティアは一人で調合することができる。今になって思えば、それもこの日が来ることを考えてのことだろう。セレスティアは握っていたカイのローブの裾を引っ張り、足を止めると、カイに一歩近づいてからまた歩き始めた。カイは少し驚いたようだったが、何も言わず前を向いた。セレスティアの手を取ると優しく包み込むように握る。

 獣道をしばらく歩いていると、幹が太く、枝葉を豊かに広げたブナの木を見つけた。ブナの周りには、ナラやカエデ、トネリコなどの樹木がまばらに混ざって生えている。カイはもう一度周囲の気配を探った後、「ここにしよう」と言って背負っていた鞄を下ろした。鞄の中をガサゴソとかき回し、茶色い小瓶を取り出す。小瓶の中には、筒状に丸められた記録紙が入っている。父さんの書いた、おそらく手紙だ。

 町の文書室や、それらを統括する中央文書館では、記録紙は書棚に直接収められている。棚は暦に沿って仕切られ、さらに分野ごとに細かく分類されていた。整然と並ぶ記録紙の束は、この国の記録士たちの几帳面さを物語っている。一方、国の最も重要な記録を扱う宮廷記録院では、記録紙は瓶の中に収められていた。茶色もしくは灰色の瓶には魔法がかけられており、宮廷記録士と預言士、そして瓶の中に収められた記録に関係すると瓶が判断した者だけが栓を開けられる。女王セレーネといえども、閲覧できるのは己に関係する記録だけだ。

 レナートは、宮廷文書院のやり方を踏襲し、時計台に小さな書棚を置き、記録紙は全て小瓶に入れて保管していた。あの薄いコーヒーのような色は、時計台にある小瓶だ。カイは小瓶の栓を開けずに、そのままセレスティアに渡した。セレスティアは少しの間、小瓶を見つめた後、瓶の栓に指をかけた。やはり、栓は簡単に抜けた。

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