幼馴染
「カイもあの本を読みたいと言ってたから、すぐに持っていってあげてほしい。表紙が破れかけている。気をつけて。愛してる。L」
「どういう、こと……?」
“あの本”とはきっと書棚に置いてある、母さんが書いた日記のことだろう。セレスティアが昔、背表紙を引っ張ってしまいほとんど取れかけている。母さんが記録士だった時の出来事がいくつか記されており、本というよりも日記に近い。母さんが残した唯一の日記であり、記録でもあるため、セレスティアはそれを繰り返し読んでいた。だが、“あの本”をカイが読みたがるとは思えない。他人にほとんど興味がないし、セレスティアと違い、カイは魔法について書かれた書籍しか読まない。それに万が一、なにかの気まぐれで読みたくなったとしても、時計台へ来ればいくらでも読めるはずだ。父さんはなにか別のことを伝えたいに違いない。セレスティアはそう直感した。
文書室で何かあったのだろうか。生真面目で頑固なムクドリのことだから、セレスティア宛の伝言であることは間違いないが……ひどく、胸騒ぎがする。
町の文書室は二階建ての古い木造だ。両開きの扉を開けると、どこか懐かしいような木と古い紙の匂いが鼻をつく。東と西に大きな窓があり、太陽が出てる日はランタンをつけなくても朝日と西日が差し込む。特殊な油で表面を塗布した記録紙は、羊皮紙よりもはるかに燃えにくく、水にも強いが、それでも記録士はできるだけランタンを使わずに陽の光のもと作業をしていた。伝言を運んでくれるムクドリは、文書室を出て左側の林に住んでいる。文書室の二階から呼ぶと、飛んできてくれるので、手紙を渡して宛先を告げればいい。町中、どこへでも飛んでくれる。そういえば先日、父さんが二階に上がる階段の軋みがひどく、そのうち抜けるかもしれないと嘆いていた。なにぶん町ができた時からある古い建物だ。昨晩の大雨で何かあったのかもしれない。セレスティアはしばし逡巡し、髪を一つにくくると、二階へ駆け上がった。書斎に置いてある母の日記を手に取り、父からの手紙を中に挟んだ後、鞄に押し込む。ローブの袖をたくし上げながら階段を降りると、とうもろこし二本と小刀、ランプ、記録紙、羽根ペンを摑み、台所の脇にある戸から時計台を出た。雄鶏は相変わらず吞気に喉を揺らしながら、地面をつついている。セレスティアはとうもろこしを庭の隅に置いた。水桶はまだいっぱいだから、今晩帰れなくても大丈夫だろう。
時計台から文書室までは、大人の足でも半時ほど歩く。天気が悪い日は、馬車で迎えに来てもらうこともあったが、セレスティアは文書室までの道を歩くのが嫌いではなかった。昨夜の雨で道はぬかるみ、至る所に濁った水溜りがある。
草の葉先に朝日を映した露が光っている。セレスティアは泥を跳ね上げながら、急足で丘を下った。すると、前方から声がした。
「セレ……ィア!セレスティア!」
丘の下から、一人の少年が駆け上がってくる。寝癖のついた深い栗色の髪が風に揺れ、長毛種の犬を思わせる。頬の線は細く、顎にかけて骨ばっているのに、見る者にどこか繊細な印象を与える。
セレスティアより、年上のようにも年下のようにも見えるその少年は、ひどく焦っている様子だった。濃紺の寸足らずのローブから、骨ばった膝小僧がのぞいている。
「カイ! 父さんは? 父さんがあなたに日記をって」
幼馴染の焦った顔を見た瞬間、心の底に押し殺した不安が一気に込み上げた。
「セレスティア、落ち着いて。今朝、僕のところにも先生からムクドリが来たよ。とにかく、今は落ち着いて。町を出る方法を探さないと。日記は持ったね?」
町を、出る? セレスティアは生まれてから一度も、町を離れたことはなかった。年に数回、父さんが隣町の文書室に資料を取りに行く時も、雄鶏と留守番を言いつけられていた。
「父さんがどこに行ったのか知ってるの?」
セレスティアの質問にカイの瞳が微かに揺れる。
「セレスティア、今は話をしている時間がないんだ。レナートさんは君に伝えたはずだ。聞いて。君は今すぐこの町を出ないといけない」
こんなに必死な様子のカイは初めて見る。いや、二度目かもしれない。一般魔法でさえまともに使えないセレスティアと違い、カイは出会った時から魔法の才能があった。庭でとれた花の種を手の上で芽吹かせ、咲かせてみたり、雨が止んだ後の水溜まりを凍らせて滑ってみたり、セレスティアはカイの編み上げる綺麗な魔法が大好きだった。文書室の仕事がない日、父さんは決まってカイに魔法を教える。実の娘には、魔杖さえ買ってくれないというのに、カイは父さんから日常生活で使われる一般魔法だけでなく、魔法士が使うような上級魔法まで体系的に教わっていた。セレスティアは近頃、父さんは娘よりカイと過ごす時間の方が長いのでは、と思うことがあった。それほどカイの魔法は上達しているのだろう。
だが、すぐに頷くことはできなかった。
「父さんは何も言わなかったわ。どうして? 理由を教えて。それに、もし文書室で何かあったなら行かないと」
「先生は……もう、戻らない」
絞り出すように告げられたその言葉に、セレスティアは呆然とした。カイの言葉の意味がわからない。読み書きを学びはじめる前から、一緒に育ってきたというのに、カイが何を言ってるのか全くわからなかった。
「僕が時計台に連れられてきた日のことを覚えているかい? 水澄の嵐の夜だった。僕は、ある組織に入っていて、先生は僕をそこから助け出してくれた。あの日、先生と約束をしたんだ。君を守ると。セレスティア、僕が知っていることは全部話すよ。だけど、今はだめだ。君は気づかれた。もうすぐ人が君を探しに来るはずだ。その前に町を出ないと」
そう言うなり、カイは背中に手をまわすとねずみ色の羽織を引っ張り出した。セレスティアはこの時はじめて、カイが大きな鞄を背負っていることに気づいた。
カイが時計台に来た日のことはよく覚えている。女王セレーネが水澄の始まりを告げてまだ間もない嵐の日だった。父さんは文書室を見てくると言い、雨戸を念入りに閉めた後、時計台を出た。打ち付ける雨の中、時計台と文書室を歩いて往復するのは一苦労だろうが、夕方には帰って来られるだろう。セレスティアはいつものように、書斎で本を読みながら父さんの帰りを待っていた。だが、父さんはなかなか帰ってこなかった。夕餉の時間になっても、セレスティアと寝る前にお話しをする時間になっても。このまま父さんが帰ってこなかったらどうしよう。不安でたまらなくなったセレスティアは、けれども父さんを探しに行こうとはしなかった。この雨風では父さんもムクドリを飛ばせない。幼いセレスティアは、それでも自分は時計台で待っているべきだと分かっていた。言いつけを守り、戸締まりを再度確認すると、セレスティアは台所でいつの間にか寝てしまった。明け方、父さんは一人の男の子を連れて帰ってきた。男の子は焦茶のぼさぼさ頭で、その歳の子どもにしてはひどく痩せている上、全身ずぶ濡れだった。
「これを着て。しっかり被るんだ。その髪は目立ちすぎる」
カイはセレスティアに羽織を目元まで深く被らせると、襟元の紐をしっかりと前で結んだ。羽織はセレスティアの足首まであった。
「待って、何もわからないわ。守るって何から? 私を探しに来るって、いったい……」
セレスティアが震える声でカイを問い詰めようとしたその時、丘の下から犬の吠える声が響いた。空気を裂くように鋭く、乾いた音が耳を劈く。遠吠えは短く、執拗に繰り返される——ただの犬じゃない。狩りのために訓練された猟犬の声だ。左右に少しずれて、遠吠えが聞こえるから、猟犬はおそらく二匹いる。丘の上には、時計台しかなく、レナートとセレスティアが住んでいるだけだ。セレスティアが横目でカイを見ると、幼馴染の顔は凍りついていた。しかしそれも一瞬、カイはすぐに何かを呟くとセレスティアの手を引っ張り、すすき畑に飛び込んだ。一陣の風が二人の後ろで吹く。カイは振り返ることなく、セレスティアを引っ張りながら、すすきの間を縫うように全力で走った。セレスティアはついていくのに精一杯だ。羽織が脚に纏わりついて走りにくい。耳の奥で息づかいが聞こえる。何が何だかわからず、頭の中は混乱していたが、それでも背後に感じる猟犬の気配に追いつかれまいと必死だった。
しばらく走り続け、肺がもう限界だと思ったその時、カイが突然振り向いた。
「この先に、小さな川がある。深くない。川の中を歩いて行ける。痕跡が残らないよう、細工はしといたが長くはもたない。セレスティア、僕にしっかり掴まって」
走りながら指示を出すカイだったが、セレスティアに答える余裕などない。何回か頷いてみせると、前方から確かに川のせせらぎが聞こえてきた。二人にとって、時計台のある丘はほとんど庭のようなものだ。町や森へ続く道はもちろん、そこに生える草木の名も、季節ごとに咲く花の色も知っている。丘の傾斜や、雨を避けられる岩陰の場所、森への入口まで二人とも正確に思い出せるのだ。
「さっきの風はカイが魔法で起こしたってこと?」
カイに続いて足を止めると、セレスティアは鞄を地面に一回おろした後、羽織とローブを一気にたくし上げた。腰のところできつく結ぶと、さっきより随分動きやすくなった。カイの言うとおり、川幅は狭く、場所によっては軽く跨ぐだけで向こう岸へ渡れるほどである。水は底が見えるほど透き通っており、水深は深いところでもせいぜい大人の膝ほどだろう。
「そう。犬に嗅ぎつけられないようにアウーラにね。ヴェルダに痕跡も消してもらったから、しばらくは大丈夫。でも急いで、ほら鞄を持って、濡れないよう」
カイは先に川の中に入ると、セレスティアの手を取った。夏季、天環といえど、川の水はひんやりと冷たい。十歩も歩かぬうちに革靴の中に水が入り込み、引きずられているかのような重さを伴った。川底は丸みを帯びた大小の石でぬめって滑りやすく、これでは走るのは無理だ。
「ねえ、説明して。父さんはもう戻らないってどういう意味?」
カイが振り向かないので、その手をこれでもかと握りしめる。カイは少しの間考えると、観念したように口を開いた。
「預言士アウレリアは君に関する預言を残した」




