丘の上の時計台
時計台の針が動いた。そろそろ起きる時間だ。今日は十七歳の誕生日だから早めに起きないと。ジョイにとうもろこしをあげたら文書室に行こう。セレスティアは、寝台の中で一つ伸びをすると、ゆっくりと目を開けた。薄茶に淡い黄緑が混じったような瞳の中に、天井の梁が映る。
シルナリア国では17歳を迎えると成人とされる。毎年冬に行われる、司書試験への受験資格が与えられ、合格すれば新人観測士として登録されるのだ。夏には、公爵家で開かれる晩餐会にも行くこともでき、娘たちは皆、17歳の誕生日を何よりも楽しみにもしていた。
寝台から降りたセレスティアは飼っている雄鶏に餌をあげるため、編み上げの革靴を履くと、ダイニングを抜けて庭に出た。白金色の豊かで長い髪が朝日を受け、艶やかに波打つ。光に当たると透けて見えるほど、色の薄いその髪は亡くなった母親譲りだ。少女の華奢な体格と相まってどこか神秘的な印象を人に与えるが、セレスティアはこの細く絡まりやすい髪に、毎日手を焼いていた。夜、どれだけ念入りに櫛を通しても朝には絡まり、なかなかほどけないのだ。いっそのこと短く切ってしまおうかとも考えるが、踏ん切りがつかなかった。
「ジョイ、おはよう。ね、見てて、今日ならできる気がする……」
セレスティアは、庭を横切る雄鶏に明るく話しかけると、柵の前に投げ捨てられた箒に手のひらを向けた。
ジョイと名付けられたこの雄鶏は、朝食に卵を食べられるよう、父レナートが買ってきた。まだヒヨコだった雄鶏に、セレスティアはジョイと名付け、大事に育てていたところ、冠が生え、立派な雄鶏となったのだ。レナートはその事実に落ち込みを隠せなかったが、雄鶏は毎朝、卵を産む代わりに朝の訪れを知らせてくれる。時々、庭の柵を抜けて脱走するのが玉にきずだが、働き者の良いニワトリだとセレスティアは思っていた。
「風を導くアウーラよ、そなたの力を我に。箒よ来い」
一言一句省略せず、はっきりと唱える。しかし、箒はびくともせず、じめりとした夏の風がセレスティアの頬を撫でていった。今日もだめか。数日前に一回できたきり、ごく簡単な一般魔法すら使いこなせない。幼馴染のカイはもう、言葉を唱えなえずとも指を動かすだけで上級魔法すら使えるのに。胸の中にこっそり抱いていた淡い希望が見る間に萎んだ。誕生日を迎えたらもしかすると、なんて思っていたのだ。カリナたちが、晩餐会で素敵な男性に見初められることを夢見るように、セレスティアもいつかの日か魔法を扱えるようになれたらと心から願っていた。
「いいかい、セレスティア。過去と現在、そして未来は繋がっている。過去の積み重ねの上に今があり、未来があるんだ。記録士は、観測士が集めた事象の全てを記録し整理することで、この国の礎を築いていると父さんは思う」
毎日の出来事を余さず記録するのはなぜか、セレスティアが幼い頃、父さんはそう答えてくれた。過去の積み重ねの上に今があるなら、ある日突然魔法が使えるようになることなんて起こり得ないではないか。セレスティアは口を尖らせ、箒を拾いに行くと一通り庭をはいた。そして台所の戸を開け、小さい果物ナイフととうもろこしを一本取った。普段は乾燥させた麦を雄鶏に与えているが、今日は主人の誕生日なのだから、特別だ。
「この間はできたのに……しおれてた花を咲かせたし、その前は冷めたお湯をあったかく戻したのよ?」
雄鶏は、待ってましたと言わんばかりにとうもろこしに飛びつきいた。時折、頭を振って喉を鳴らすが、セレスティアの問いに答えることはない。
とうもろこしから粒を全て削ぎ落とすと、セレスティアは庭に背を向けダイニングに戻った。テーブルの上にある、記録紙を手繰り寄せ、「夏季 天環十六、7つの時、風」と書く。宮廷文書院が定める記録書式は厳格だ。女王セレーネが告げる暦を記録紙の上部に、定められた順序で記し、その下に記録を行う。必要事項は一つとして抜けてはならず、誤りがあった際も定められたやり方で訂正をする。記録士が使う記録紙は決して安くはない。父レナートが記録士だった頃に使っていた紙の裏や、町の文書室で半端に余った紙をセレスティアは使っていた。
日付と天気を書き終わると、セレスティアは朝食をとることにした。一般魔法が使えないセレスティアでも火がつけられるよう、カイが細工をした炉に灰を少しだけ撒く。灰は炉の中に落ちる寸前でぱっと赤く燃え上がったかと思うと、一瞬で炉に火がついた。大きめの浅い鉄鍋を取り出し、昨日買っておいたパンを二枚、軽く焼く。パンに焼き色がついたら皿に取り出し、戸棚からベーコン四枚と卵二個を取った。この時期、バターは希少なのでできるだけ節制したい。冬季までの我慢だ。セレスティアはベーコンを先に焼き、次にベーコンから出た油を使って卵を焼いた。卵が黄身までしっかりと焼けたら、鍋から全て取り出し、パンの上にのせる。黒胡椒を少し回しかけたら完成だ。今日はチーズもバターもないから、ずいぶん質素だが……リーフレタスを少し添えて、父さんに一つ持っていこう。
もうすぐ実りの季節。地穣に入ったらすぐに作物の収穫がはじまる。レナートはすでに記録士を辞していたが、それでもよく依頼があった時は観測や記録の仕事を引き受けていた。都から離れたいわゆる片田舎である。町に観測士はおらず、中年の記録士が一人で文書室を切り盛りしていた。今年も地穣の間は文書室へ通い、記録を手伝うのだろう。レナートは早朝から町の外れにある文書室に行き、これまでの記録を整理しているはずだ。畑ごとに収穫数を記録し、さらに品目ごとに集計して中央文書館に報告するため、記録しなおす。骨の折れる作業だったが、全てが終わった後の温かいワインが何よりも楽しみなのだと、レナートは言っていた。
セレスティアは朝食を食べ終わると、残りを手早く包み、水筒と一緒に鞄の中に入れた。洗面台で顔を洗い、軽く化粧水をつけたあと、乾いたローブに袖を通す。身支度を終え、戸締りをするため台所の窓に手をのばした。
その時、一羽のムクドリが窓から飛び込んできた。ムクドリは、近距離で手紙を運ぶのに重宝されている伝書鳥だ。町の文書室でも数羽飼われており、帰りが遅くなる時や伝言がある時など、父さんが飛ばすことがあった。短い伝言であれば足に結び、長い封書の場合は嘴に咥えさせる。宮廷や中央軍部では黒羽のフクロウや鷲が、沿岸部ではカモメやウミネコが伝達に使われるらしいが、セレスティアはムクドリと中央文書館から記録を届けてくれる鳩のほかに伝書鳥を見たことがなかった。父さんがこの時間にムクドリをよこしてくるのは珍しい。朝早くに出かけたようだったから、何か忘れ物でもしたのだろうか。
セレスティアはムクドリを捕まえ、足に結びつけられた記録紙の切れ端を丁寧にほどいた。手紙を運ぶ鳥たちは大抵わがままだ。個性はあれど、手紙を結びつけるときにうっかり足を引っ張ろうものなら、次頼む時は苦労するだろう。そして、仕事を終えた鳥には褒美をやるのが決まりだ。セレスティアは記録紙を机の上に置くと、台所から水差しを持ってきた。とうもろこしを一本取り少し切って、水差しに入れてムクドリの前に置く。朝一でお腹が空いているだろう。午後に手紙を受け取る時は、花の蜜や木の実をあげるようにしていた。
ムクドリは水を少し飲み、とうもろこしをくわえるとピーと一声鳴き、窓から飛び立った。
記録紙を開くと、父さんの筆跡で短く伝言が書かれていた。セレスティアは、さっと読んだあと目を見開いた。
「……本? 」
父さんからの伝言は忘れ物ではなかった。




