そんなことをおっしゃられても。侯爵夫人、すべてあなたが望んだことでしょう?
「ああ、アイリスありがとう」
「たいしたことではございません」
「だが、余命いくばくもないと言われていたおばあさまが、食事をしてくださるなんて。アイリス、君のお陰だ。見てくれ、おじいさまも泣いておられる」
「いいえ、偶然ですわ。お役に立てて、わたくしも嬉しゅうございます」
「君は地上に舞い降りた天使なのだろう? シャーロットに意地悪をされて窮地に追い込まれていたというのに、言い訳もせず、それでも諦めることなく懸命に取り組み、おばあさまの心を動かした。本当に、なんて素晴しいひとなんだ。どうか僕と結婚してほしい。この手をとってもらえるだろうか?」
「もちろんですわ」
瞳をきらめかせるネイトと、頬を染めてはにかむアイリス。誰もがふたりを祝福している。太陽がさんさんと降り注ぐ中、お伽噺のような世界に入ることもなく影のようにたたずんでいたのは、シャーロットとその義兄だけだった。
***
貴族令嬢であるシャーロットとアイリスは、侯爵家嫡男であるネイトの婚約者候補である。婚約者ではなく婚約者候補。どちらも同じ分家とはいえ、伯爵家のアイリスと子爵家のシャーロットでは周囲の扱いも異なるものとなっている。もちろん丁重に扱われるのはアイリスで、彼女の引き立て役となるように粗末に扱われるのがシャーロットだ。
いくら家格が低いとはいえ、貴族令嬢であるシャーロットの扱いが適当なのは、彼女が子爵夫妻の養女だからだ。さる高貴なお方の血筋という話が一時流れたが、シャーロットの実の両親は結局のところ伏せられたまま。おかげでますます噂が飛び交い、他人の娘どころか実はおしどり夫婦と呼ばれていた子爵がよそで作った不義の子なのだと後ろ指をさされることとなった。
そこまで血筋にこだわりがあるのであれば、結婚相手など家格でさっさと決めればよいのにとシャーロットは思うのだが、そこはいろいろとしがらみがあるらしい。刺繍に楽器、歌にダンス、読み書き計算と散々比較され続けたあげく、最後にふたりの腕を見るために提案されたのが季節の果物を使ったパイ作りだった。
「美味しいパイを焼くことができる女性こそが、侯爵家当主の妻にふさわしい」とのたまったのは、先代当主であったとか。何せ彼が何より大切にしている奥方は、パイ作りが得意だったのだ。先代当主の胃袋を季節の果物のパイでつかみ取ったという話は有名である。
とはいえ、奥方が体調を崩してからもうずいぶんと経つ。立ち上がることさえままならない老女が、かつての得意料理を振る舞うことなどかなわない。それを嘆いた先代当主が、自身の孫の伴侶に、妻と同等のパイ作りの腕前を求めたとしても不思議ではなかった。
***
最終試験の試験場所として指定されたのは、とある夏の日、お昼過ぎの侯爵邸。子爵令嬢と言いつつ平民寄りの生活をしているシャーロットと違い、アイリスは根っからのお嬢さまだ。かしずかれる生活をしている彼女が料理なんてできるのだろうか。疑問に思いつつ、シャーロットは義兄とともに指定された時間にネイトの屋敷を訪れた。義兄を連れてきたのは、どんな嫌がらせをされるかわからないがゆえにとった唯一の自衛策だ。
ところがそこでシャーロットたちが告げられたのは、試験は本日の早朝から始まっており、お茶の時間に侯爵家の主要な人物たちとともに課題であるパイを食べることになっているという事実だった。
「お茶の時間に合わせてパイをお出しするというのに、こんな時間に来て間に合うはずがないではありませんか」
「……ですが、侯爵家からの連絡では確かに……」
「それは、我が侯爵家の使いの人間が、間違った伝達を行ったということですか?」
居丈高な侯爵家の侍女の態度に義兄は鼻白んだ。書面ではなく口頭で連絡をしてきたのはおかしいと思ったのだ。だが、何度確認しても指定された時間はお昼過ぎ。無礼を承知で少々早めに来てみれば、試験はとっくの昔に開始になっているというではないか。
いっそのこと、試験日そのものを別日として伝えてくれれば参加せずに済んだのだが、シャーロットはあくまで引き立て役として外せないらしい。試験の終了時間には間に合うが、料理の完成はできない時間を指定してくるなんて本当に意地が悪い。
「シャーロット、試験に出る必要はない。侯爵家はもうどちらを花嫁にするかもう決めておられるようだから」
「いいえ、お義兄さま。私、両親のためにパイだけは完成させようと思うのです。このまま帰れば、子爵家は試験の時間も守れなかった粗忽者として笑われてしまいます」
「だが、今から作っては到底間に合わない」
「いいえ、どうにかいたします」
「あらわたくしはかまいませんわよ。不戦敗となっては、シャーロットさまがおかわいそう」
そこで鷹揚に微笑んだのは、自身の勝ちを確信したアイリスだ。料理をしたことがない彼女の自信に満ちた様子に、シャーロットがいない間に連れてきた料理人あたりが代わりにパイを調理したであろうことを確信する。何せ調理台には、素人が作ったとは思えない宝石箱のような完成品が堂々と並べられていたのだから。
その光景すら受け流していたシャーロットだったが、自身に与えられたパイ作りのための材料を見るとさすがに目を見開いた。義兄など怒りに口元を震わせている。
なんとそこには最低限のものしか残されていなかったのである。砂糖、塩、小麦粉、コーンスターチ、卵。バター、牛乳、酵母。それからいくつかのスパイス。パイはパイでも、パイ生地だけを作らせるつもりなのだろうか。
「……試験の課題は季節の果物を使ったパイだったと思うのですが」
「あら、シャーロットさまはアップルパイが得意料理なのでしょう? 他の果物は使ってもよいかと思ってしまいましたの。ごめんあそばせ」
なるほど、用意された果物はすべてアイリスが使い切ったというわけだ。パイに使わなかった分の果物は、わざわざジャムにしたり、フルーツティーにしたりという念の入れようだ。万が一シャーロットがパイ作りに間に合ったとしても、果物を分け与えるつもりは一切なかったのだろう。
シャーロットの様子を見ていたアイリスがころころと笑う。この国では夏にりんごは収穫できない。隣国では早生りんごが収穫できるが、基本的にりんごは秋から冬の食べ物なのだ。もとより用意されるはずがなかった。
***
残された材料を見ながら、シャーロットは頬に手を当てる。こうなったらあれを作るしかあるまい。彼女たちにとっては信じられない、けれどシャーロットにとっては何より大切なパイ。何度も聞かされて、そして何度も作ってきたパイのレシピは、シャーロットの身体に叩きこまれている。
「失礼、今からパイ作りをさせていただきます。お話はまた後で」
「シャーロットさま、まさか侯爵家の外から材料を持ち込んでいらっしゃるのではなくって? わたくし、不正が行われていないか確認する必要があると思いますの」
「承知しました。作業の邪魔をしないと約束していただけるのであれば、この部屋で作業の立ち合いをしていただいてかまいません」
「まあ、それではわたくしの侍女をつけておきましょう。わたくしは、一足先にネイトさまとお話をしてお待ちしておりますわ」
シャーロットは、高笑いするアイリスの様子など気にも留めずに淡々を手を動かす。最初にシャーロットが取り掛かったのは、クラッカー作りだった。
「パイを作るように言われたのに、クッキーを作るのだね。わたしに手伝えることはあるかな?」
「お義兄さまに手伝っていただきたいのはやまやまですけれど、これは試験ですので。そして今作っているのは正確にはクラッカーですね」
「クラッカー?」
「はい。隣国では、材料やその分量などによって細かく呼び名がわかれているのです。まあこちらの国では、すべてクッキーなのですけれど。そして今から作るパイには、このクラッカーが大事な要素になってくるのです」
解説しているシャーロットは、こんな状況だというのになぜか楽しそうだ。作業中、使用人たちが一様に驚いていたが、シャーロットは気にしないことにした。あっという間に焼き上がったのは、少しばかり塩味の強いクラッカーだ。
続けてシャーロットは鍋に水と砂糖、レモン汁、バター、シナモン、ナツメグを投入した。ちなみにレモンは、義兄が侯爵家の庭から拝借したものだ。使用人たちはシャーロットが庭からレモンを持ってくることに難色を示したが、侯爵家の外部から材料を持ち込んではいけないが、侯爵家の内部から材料を持ち込んではいけないとは言われていないと義兄がごり押しした。
もちろん、ここで許可をいただけなかった場合、シャーロットはアイリスが豪快に使いかけばかりにしてくれた廃棄予定のレモンを使うだけだったのだが。調理台の隅に寄せられているだけで汚くはないが、心象は悪いだろうし、何より無理矢理最後まで絞ったレモン汁は雑味が増える。なんとか言いくるめられてシャーロットはほっと胸を撫でおろした。
鍋の中身を煮詰めたら、砕いたクラッカーを入れて最後にコーンスターチでとろみをつける。しっかり冷やせばパイの中身となるフィリングの完成だ。
「コーンスターチでとろみをつけるなんて面白い」
「隣国では別のものを使いますが、侯爵家にはなさそうでしたので。代用したまでです。そもそも入れなくても作れないことはないのです」
「手に入らないことを嘆くのではなく、あるもので代用する。生活の知恵が詰まったパイなのだな」
「ええ、難しい状況でも希望を求めた人々のパイです」
鍋を煮詰める間に作っていたパイ生地でフィリングを包み、オーブンで焼き上げる。少しばかり神経を使うが、無事に焼きあがったことでシャーロットから笑みがこぼれた。
皿の上に盛り付けるが、パイの飾りとして使えそうなものももちろんない。ちらりと義兄が窓の外に視線を向けた。ありがたいことにローズゼラニウムが咲いている。シャーロットはためらいなくそれをちぎると、そっと出来上がったパイの横に添えた。薄桃から薄紫色に変わる小花たちが、恥ずかしそうにパイを彩っている。パイの完成を聞いて調理場に現れたアイリスは、目を見開いた。
「まあ、紛い物のわりに見た目はそれなりにできているじゃないの」
「おっしゃる通り、こちらは偽アップルパイでございます」
「悪びれもせずに堂々となんて。あなた、詐欺師の才能があるのではなくって?」
シャーロットは何も言わないまま、大急ぎでお茶の準備に取り掛かる。シナモンとともに、甘い薔薇によく似た香りが部屋中に漂っていた。
***
用意されたふたつのパイ。それは作り手の名前を明かされぬまま、侯爵家の面々の前に並べられた。予想通り宝石箱のようなパイは、喝采を浴びている。それはそうだろう、あれほどの材料を使って、おそらくはプロの料理人が作っているのだ。それでおいしくなければ、その方が問題である。
口を引き結んだままのシャーロットに対し、アイリスはご機嫌そのもの。名前以外、詳しい説明のないアップルパイを前にして、にこにこしている。内心、笑い出したくてたまらないのだろう。
「それで、これが偽アップルパイであると」
「偽とはどういう意味なんだ?」
現当主と侯爵家嫡男のネイトが首を傾げているのを口角を上げて見つめるアイリス。自分からシャーロットを追い込んでおきながら、なぜこうも堂々としていられるのかがシャーロットにも義兄にも理解できない。
「なんとも地味な見た目だな」
そう呟きながらパイを口に入れた瞬間、先代当主は食べる手を止めた。そして車椅子に乗ってこの場に参加していた奥方のもとに駆け寄った。食事のマナーにうるさい彼ががらにもなく、料理を取り分け、躊躇することなくてずから食べさせてやろうとしている。
「あなた」
「いいから、ほら、口を開けてごらん」
困ったような顔をした老婦人だったが、夫の誘いに根負けしたらしい。困ったような顔をしながら口に含み、そしてぽろぽろと涙を流し始めてしまったのである。
「ああ、懐かしい。懐かしいわ。そう、あなたと出会った頃、あたくしはよくこのアップルパイを作ったものだったわ」
「そうだ。あの苦難の時期を乗り越えられたのは、どんな時でも明るさを忘れない君のおかげだったのだよ」
「不思議だこと。もう食べるのも億劫だと思っていたはずなのに、このアップルパイを食べていると若い頃を思い出したような気分になるの」
先代当主の奥方は、すっかり体調を崩し、余命いくばくもないと言われていたはずだった。ところがなんということだろう。今、彼女の頬は薔薇色に染まり、生き生きと瞳を輝かせている。
「今なら、車椅子がなくても動けるような気がするわ」
そう言って老婦人が震える足に力を込める。慌てて制止しようとした先代当主の前で、今にも天に召されそうだった奥方はしっかりと自身の足で立ち上がってみせた。にこりと、穏やかに微笑み、ふたりして見つめ合う。
それは、シャーロットの偽アップルパイが起こした奇跡だった。まあ、その手柄は、なぜかシャーロットではなく、たちまちアイリスのものとなってしまったのだけれど。
「まあ、わたくしのアップルパイにこのような力があったなんて」
声をあげかけた義兄を制し、シャーロットはあくまで神妙な顔で黙って座り続けた。アイリスがシャーロットにした嫌がらせも、自分がアイリスにした嫌がらせだと認識されてもまったく訂正などしないままで。さらには、散々馬鹿にされた偽アップルパイのレシピまで、シャーロットは言われるままにアイリスに差し出したのだった。
***
ネイトとアイリスが結婚をし、侯爵家の当主となったさらにその数年後。
隣国に移住したシャーロットは、今までにないほど穏やかで充実した暮らしを楽しんでいた。愛する夫に、大切な両親と優しい義両親。可愛い子どもにも恵まれ、気の合う友人たちとは淑女たちのお茶会と称して楽しいティーパーティーを開催している。何不自由のない生活。そこへ、招かれざる客はある日突然やってきた。
「……お引き取り願おう」
家令からの連絡を受けた夫が顔をしかめている。普段は誰よりも穏やかな彼がそこまで嫌悪感を出すのは非常に珍しい。それゆえに来客が誰であるかを理解しつつ、シャーロットは客人を招き入れることにした。
「シャーロット!」
「まあ、アイリスさま。お変わりなくお過ごしだったでしょうか」
「あなた、わたくしのことを馬鹿にしているでしょう! わたくしがあの家でどれだけの理不尽に耐えていると思っているのです!」
いらいらとした様子のアイリスは、目の下にひどいくまを作っている。髪につやもなく、酷く疲れているようだった。
「あれほど盛大に迎え入れられて、どうしてそんなことになったのです?」
「知りませんわ。ただもうとっくに寿命を迎えてもおかしくのないネイトさまのおばあさまが、今もぴんぴんとしていらっしゃる。それだけは揺るぎようのない事実です」
「まあ、喜ばしいことではありませんか」
「何が喜ばしいことなものですか! 毎日、毎日、息子大好きの姑と、孫大好きの大姑、兄大好きの小姑に絡まれて、ネイトさまはちっとも庇ってはくださいませんし」
濃い化粧でも隠し切れないほどの心労を抱えた妻に気づかない夫がいるものだろうか。のほほんとした様子のネイトを思い出し、彼ならばありうるかもしれないとシャーロットは嘆息した。
「それで、本日は何の御用でしょう?」
「ちゃんと偽アップルパイの作り方を教えなさい。あなたのレシピ通り作っても、同じものはできあがらなかったわ。わたくしがあの屋敷で認められないのは、あの日のパイを上手に作ることができないからよ。パイ作りの腕さえあがれば、ちゃんと嫁として認められるはず」
持っていた扇を苛立たし気に握りしめながら、アイリスは言い放った。だが、シャーロットは困ったように首を横に振る。
「それはもう練習するしかございません。何せあのレシピは、この地域の女性であればみな作ることができる類のもの。特別な材料や工程などは必要ないのです」
「いいえ、何か秘密があるはずよ。だって、あなたはあの短時間でパイを焼き上げたじゃないの。本来であれば出来上がりようがないほどの速さで。その秘密を知れば、わたくしにだってあのパイを再現できるに違いないの」
「ああ、調理時間を気にされていたのですね。それであれば、私と同じように調理することはなおさら難しいでしょう」
「何よ、やっぱり秘密があるのね。いいから、わたくしに教えなさい」
ぎらぎらと目を光らせ、今にもとびかからんばかりのアイリス。シャーロットは自分を庇おうとする夫を制し、アイリスの扇にそっと触れた。ゆっくりと扇が劣化し、羽の先が崩れ落ちる。
「何、これ……」
「この魔法は、血に宿るものなのです。訓練でどうこうできるものではありません」
「……血に宿る、魔法。そんな、この国の王族だけに伝わる時魔法をどうして?」
悲鳴のような声をあげるアイリスを見て、シャーロットは困ったような顔で愛する夫――かつての義兄――を見上げた。
***
この国の王弟は穏やかな人物である。王位争いに巻き込まれることを避けるために、真っ先に臣籍降下していたくらいなのだ。それにもかかわらず国内情勢がきな臭くなった結果、王弟は昔からの信頼できる友人である隣国の子爵夫妻に愛娘を預けたのである。かつてともに通った魔法学園での縁だった。
情報が漏れることを防ぐため身分を明らかにしなかった結果、シャーロットは相当に軽んじられる生活を送ることになる。だが事実を出したところで、今度は命を狙われるだけ。大切なことは自分たちだけが知っていればよいと彼らはわかっていたが、うっかり侯爵家の嫡男の婚約者候補――しかも明らかな当て馬――となってしまったときには、全員が頭を抱えてしまった。特にシャーロットと将来を誓い合っていた義兄は、本気で駆け落ちを計画していたほどだ。だが、シャーロットは諦めなかった。
自分がいかに軽んじられているかわかっていたからこそ、シャーロットは最終試験のパイ作りに真剣に望んだのである。シャーロットが作ったパイは、二国間の国境付近でその昔盛んに作られていたものなのだ。
かつて砂糖も小麦もバターもあるのに、りんごだけは手に入らないそんな時代があった。戦争と魔獣の大発生により信じられない苦境に立たされていた彼らが、いつかの平和を想い、大切な家族のために作った希望のパイ。
先代当主がこの辺りに昔住んでいたことまでは知らなかったが、あの時代の生き残りであれば口にしたことがあると踏んだのだ。そしてこのパイを作ることができるということは、味と記憶による絆を結ぶであろうことも理解していた。狙い通りこのパイが良い評価をもらえたならば、アイリスが自分の手柄にするとわかっていた。さっさとネイトとアイリスが結婚して、当て馬役を下りられるようにシャーロットは一生懸命だったのである。
先代当主の奥方は、懐かしいパイで記憶を刺激されている。苦難に立ち向かった時と同じ強さを、国と家族のために立ち上がる力をアイリスに求めてくるだろう。ちゃっかりおいしいところだけをさらっていく夢見る乙女なアイリスとネイトの祖母が本質的に合わないことはわかり切っていた。
「時を操れるのでしょう! それならばお願い、わたくしの時を戻して。ネイトさまと結婚する前に。お願い!」
「私にできるのは、ほんの少し時を進めることだけ。せいぜい生地を寝かせたり、発酵を促したり、あるいは焼き時間を早めたりすることくらいにしか役に立ちませんよ」
「ならせめてあのおばあさまを」
「私の魔法は生き物には使えません」
「お願い、後生だから!」
「そんなことをおっしゃられても。侯爵夫人、すべてあなたが望んだことでしょう?」
シャーロットのパイにネイトの祖母を若返らせる力があったのか。そればかりはシャーロットにもわからない。けれどもしもそんな力が宿ったのならば、それはシャーロットのご先祖さまが力を貸してくれたのかもしれなかった。自分たちの末裔がなんとか幸せになれるように。だって、シャーロットの幸せは義兄だった今の夫とともにあるのだから。
「かーさま、おはなし、おわり?」
「おきゃくさま、かえった?」
「ええ。だからみんなでおやつの時間にしましょうね。ばあばとじいじ、四人とも呼んできましょう」
「みんなでたべると、おいしいもんね」
「ぼく、よんでくる!」
「わたしも!」
偽アップルパイは、その当時の人々にとっては何よりの希望だった。そして今、シャーロットは大切な家族のために、りんごがたっぷり詰まった黄金のアップルパイを作るのだ。