出るとは聞いていない
あれは、入社三年目のことだった。
私は都内某所にある不動産会社に勤めている。
三年も経つと、不動産業者の間で顔見知りも増えてくる。この業界の空気にも、それなりに慣れたつもりだった。
その日も朝から、レインズを眺めていた。
不動産屋しか閲覧できない――いわば裏側の、物件情報が集まるシステム。日課のように画面を流していると、ある物件がふと目に留まった。
担当は、よく取引しているH日本住宅のSさん。
そして、何より目を引いたのは――異様に安い価格。
不自然なまでに、相場よりも安い。
「ああ……これは、事故物件だな」と、瞬間的に直感した。
この仕事をしていると、そういう物件は決して珍しくない。
いや、むしろ“多すぎる”とすら思う。
入社三年以内に一度は事故物件に出会う――そんな確率、私の肌感では**90%**を超えている。
正直、怖がりな人にはおすすめできない仕事だ。
……だが、不思議なことに、そのSさんこそが筋金入りの怖がりだった。
「よくまあ、そんな性格で事故物件を扱ってるな……」
そんなことを思いながら、受話器を取った。
「お世話になります。Aリビングの双水です。Sさんはいらっしゃいますか?」
「お待たせいたしました、Sです」
「あ、Sさん、お疲れさま。例の“告知事項あり”の物件なんですけどね……」
私は笑いをこらえながら、軽口を交えて話を切り出した。
「もう、双水さん……私が怖がりなの、知ってるでしょ!」
「はは、ごめんごめん。でも、どんな内容なの? 詳しく教えてよ」
電話の向こう、Sさんの声が、ほんの少しだけ――上ずっていた。
「ええと……あのマンションなんですが、入ってすぐ右側の部屋で……所有者の息子さんが、首をつって……」
「へぇ〜それは怖いねぇ」
私は、冗談めかして返したが、Sさんの声は笑っていなかった。
* * *
それから二週間ほど経ったある朝――
レインズをチェックしていると、あの事故物件のステータスが【成約済み】に切り替わっていた。
「お、売れたんだ」
私はすぐさまSさんに電話をかけた。
「売れたんですね! まあ、あの値段なら早いですよね!」
「ええ、おかげさまで。霊感とかない方らしくて、あまり気にしないって。それに現金だったので、決済は二週間後の予定です」
「いや〜よかったですね。決済終わったら、飲みにでも行きましょうよ」
「はい、ぜひ!」
Sさんの声は、あの時とは打って変わって、安堵に満ちていた。悩ましい物件をようやく“手放せた”という、そんな感じだった。
……だが、それも束の間だった。
* * *
約束の決済日を迎える少し前。
レインズに、再び――あの物件が、掲載されていた。
しかも、再登録扱いになっていた。
「……あれ? 解約、されたのか?」
私は慌てて、Sさんに連絡した。
「Sさん、もしかして……契約、流れちゃいました?」
「ええ……実は、決済の前に、買主様が寸法を測りたいとおっしゃって……」
声のトーンが、一段階低くなるのがわかった。
「本来なら立ち会うべきだったのですが、契約も終わっていたし……正直、私も、例の件で中に入るのが怖くて。鍵をお貸ししたんです」
「それで……?」
「2時間後に、その買主様が、お店に戻ってきたんです」
「真っ青な顔で……手が震えていて……そして、こう言いました」
――『亡くなったのは知っている。しかし――』
――『出るとは聞いていない!!』
買主が見たというのは、ただの幻覚だったのか。
それとも――
「……現れたらしいんです。首を吊った状態で。斜めに傾いだ首の角度も、苦悶の表情も……そのまま、だったそうです」
ゾワリ、と背筋を何かが這い上がった。
契約済みであれば、本来ならば違約金を支払っての解約になる。
だが、この件については、あまりにも“事情が事情”ということで――売主の厚意で、白紙解約となったという。
そのあと、あの物件は長く市場に残り続け、誰にも買われることはなかった。
不動産の世界にいると――
嘘みたいな本当の話、ありますよ。
心霊スポットなんて、わざわざ行かなくてもいい。
日常のすぐ隣に、気づかれずに、そっとそれは棲んでいるんです。