聞いてはいけない話
その少年――小学五年生の、忘れがたい夏の話だ。
猛暑のさなか、風邪でもないのに高熱を出して、彼は布団の上でうなされていた。
意識は朦朧とし、夢と現実の境界がとろける。
「……おばけ……」
少年は、窓際の洗濯物がふわりと揺れるのを見てそう呟いた。
白く、人の形にも見えたそれは、まるで宙に浮いた幽霊のようだった。
息が詰まる。心臓が跳ねる。だが――
それは、ただのバスタオルだった。
風に揺れていただけの、母が干した布。
少年は安堵し、汗ばんだ額の冷たいタオルに母の優しさを感じながら、ゆっくり目を閉じた。
だが――
視界の端に、何かが立っていた。
部屋の四隅すべてに、ひとりずつ。
赤黒い着物をまとい、異様なほど長い髪を垂らした女たちが、無言で彼を見下ろしていたのだ。
血のような赤、焦げたような黒。
まるで肉が焼け焦げた跡のような質感が、闇の中に浮き出していた。
怖い、怖い、怖い――
少年は目をぎゅっと瞑り、全身を硬直させた。
そのまま、眠りに逃げ込むしかなかった。
朝になると熱はすっかり引いていた。
だが、記憶の中にはあの『髪の長い赤黒い女』の姿が、焼き付いたまま離れなかった。
それから数年後――その少年は中学三年になった。
林間学校の夜、友人たちと「怖い話」を語り合っていた。
気がつけば夜も更け、布団の上に残っていたのは、幼いころからの友人・S君だけだった。
「もうネタ切れか?」とSが言う。
少年は、小五の夏に見た『髪の長い赤黒い女』の話をした。
「……で? ただ見ただけかよ。オチねぇのかよ」
実話というのは、話としては盛り上がらない。
だから笑い話のように流された。
すると先生の見回りの足音が近づき、二人は黙ってそのまま布団に潜り込んだ。
林間学校が終わり、いつも通りの学校生活が戻ってきた。
だが……教室で、S君の後ろに“それ”がいた。
あの『髪の長い赤黒い女』が、Sの背にぴたりと張り付いていたのだ。
笑っていても、怒っていても、授業中も、休み時間も。
少年は声をかけられなかった。
そのうち卒業式を迎え、Sは都内の高校へ、少年は地元に残った。
高校生になった少年は、外見を気にする普通の青年になった。
そして、高三の夏、はじめて彼女ができた。
Tさん。
容姿端麗で聡明な、まるで陽だまりのような女性だった。
三度目のデート。ようやく手をつなげたその帰り道、ふと、彼はあの「赤黒い女」の話をしてしまった。軽い気持ちだった。
だがそれ以来――Tさんの背後に“彼女”が立つようになった。
彼女がノートに何か書いている時も、笑っている時も、制服の背中のすぐ後ろに、赤黒い影が張りついていた。
その存在は、じわじわと距離を詰めてくる。
触れるほど近く、耳元に何かを囁くかのように。
恐怖に堪えかねた青年は、Tさんと距離を置き、やがて別れを選んだ。
それから数年後――彼は成人式に出席した。
会場は同窓会のように懐かしい顔であふれていたが、S君とTさんの姿はなかった。
「S君、来てないな」と青年がつぶやくと、近くの同級生が小さく答えた。
「……おまえ、知らないのか?」
「S、死んだんだよ。高校入ってすぐ、トラックに轢かれて……。顔もわかんないくらい血まみれだったってさ」
――ぞわっ、と皮膚が波打つ感覚が走った。
そして、すぐ後ろから声がかかった。
「お前と付き合ってたTさん、あの子もさ……」
「えっ……?」
「一年前、西上線の柳川駅で飛び降りたって。こっちも、原型がなかったらしいよ……」
「ああああ――!」
青年は胃の奥から込み上げるものを抑えられず、トイレに駆け込んだ。
赤黒い女……
あの服は血を流しそれが酸化して黒く染まったからか…
あれは――呪いだ。
そう確信した。
時は流れ、彼は四十歳を迎えた。
母が膵臓癌で亡くなり、父が喪主を放棄したため、自らが喪主となった。
姉の助けもあり、無事に通夜が執り行われたその夜――
片付けを終えた後、
「なあ、今になって知ったんだけど、実家…事故物件だったんだって?」
「さっき、親戚のおじさんが話してたね。あんた今頃知ったの?」
と姉は笑いながら言った。
彼はふと思い出し、実家で見たあの「髪の長い赤黒い女」の話を姉にしようとした。
「ちょっと……やめて。あんた、私を殺す気?」
「え……?」
「私もね……同じ経験があるのよ」
姉の顔は蒼白だった。
唇が震えていた。
「私も……その話をしただけで、三人の友人を亡くしてるの」
「しかもそのうち一人は、“その話を文章で読んだだけ”で死んだのよ」
「だから……もう、これ以上、誰にも話さないで」
「この話を“読ませる”のも絶対にダメ。伝染するから……」
彼は、何も言えなかった。
唾を飲み込み、ただ、うなずくしかなかった。
……
この主人公の男性
誰だか知ってますか?
そう
この人物は
私なのです。
そして今――あなたは、その「文章」を読んでしまった。
そう、あなたの背後に……
血にまみれた、赤黒い女が立っているかもしれませんね。
……
どうか、振り向かないでください。
あなたの後ろに、“何もいない”と、信じられるうちは。