NOTHING-NESS
現場仕事から戻り、駐車場にトラックを停めた。運転席のドアを開けた途端、冷たい外気に晒される。肌寒い北海道の秋だ。
張り詰めた空気に身を投げ出すようにしてトラックを降りた。辺りはすでに暗闇で満ちている。二階建ての一軒家の、ドアを開けてすぐが事務所だった。一階右手の引き戸を開けるとそこは工場で、二階には住居を兼ねている。大晦日に一度だけ上がったことがあった。「一人じゃなんもすることないべ」社長がそう誘ってくれて、サザンの年越しライブを見たのを覚えている。
仕事が終わると事務所に戻り、皆で一杯やるのが社長の粋な計らいだった。その前は清掃車の作業員をしていた。助手席に座り、ゴミ置き場のゴミを集める仕事だ。俺はギターをやっていて、バンドメンバーだったボーカルの拓真の紹介でこのトタン屋根の会社に、ドラムの健太郎とともに入った。屋根屋とか板金屋とか呼ばれるその会社の社長が拓真の彼女が働いているスナックの常連で、誰か働けるやつはいないかということで、拓真が話を持ってきたのだ。拓真は以前は現場作業員、所謂雑工をやっていて、健太郎はペンキ屋をしていた。働き始めてもう二年ほどになるだろうか。サッポロビールとツマミの乾き物を、現場から先に戻った者が近くの商店まで買いに走った。と言っても大抵、その役目はお調子者の健太郎が担うようになっていた。酒の肴の乾き物は、“しゃけとば”か、カンカイだ。北海道では皆“しゃけとば”と言うのだ。一方のカンカイは身も皮も淡白でどこか朴訥とした装いの、氷下魚とも呼ばれる北海道の珍味である。歯が折れそうなくらい硬い。金槌で叩いてなめしてから割いて食べる。骨を折らないよう慎重に金槌を打ちつけるのは拓真が上手い。
俺はギターを弾いていて、十月のその時はすでにバンドを脱退した後だった。東京、大阪、名古屋と周る八月のツアーの、東京でのシークレットバンドに俺の好きなバンドが出て、それがやはりめちゃくちゃにかっこよかった。それと当時俺がローディ、いわゆる付き人をやっていた先輩のバンドがついこの間、東京に進出したばかりだった。そんな居ても立っても居られなくなっていた折に、一年ほど前に上京した女友達が、同居を提案してくれたのだ。彼女は夜、仕事をしており昼夜逆転の生活を送っていて、入れ違いとなるので問題ないと言った。恋人同士とかそういう関係では全然無かった。俺はプロになりたかった。迷うこと無く東京行きを決めて、飛行機のチケットを買った。
今日はしゃけとばがいいな、などと考えながら事務所のドアを開けると、いつもと違う空気を肌に感じた。蛍光灯の明かりに照らされた室内にはすでに拓真と健太郎、そして社長が突っ立っていた。テレビではいつものように、ニュースキャスターが無機質な声を放っている。突っ立ったままの三人の視線はそちらに集中していた。
見回しながら足を踏み入れると、気配に気付いた拓真が振り返った。神妙な面持ちをしている。
「宮っさんと白井さんが︙」
宮っさんと白井さんは、俺がそのローディをやっていたバンドのメンバーで先輩だった。宮っさんはドラムを、白井さんはボーカルをしていた。インディーズレーベルから声が掛かり東京へ行ったのは、ついこの間のことだ。拓真が視線をテレビに戻す。横に立つ健太郎の表情からも、いつもの無邪気さはすっかり消えていた。「ビデオ撮影中の水難事故」。「意識不明」。物騒な言葉を無機質に並べて話すニュースキャスターの声を聞いていた。画面に映る川には救助隊のオレンジ色が目立つ。
生死がわからないまま、ニュースが無情に切り替わった。俺たちはしばらく立ち尽くしていた。口を開いたのは社長で、俺たちは今日はもう、事務所を引き上げることになった。一人一缶ずつサッポロビールを受け取って事務所を出ると、吹く風がさっきより冷たい。
帰り際、俺たち一人一人の背中に手を添えてくれた社長の手が大きくて温かったのを、今も思い出す。
事務所を出ると拓真が地面を睨みながら言った。
「清和んとこ寄ってくわ」
ベースの清和は家業を継いでいる。ボンボンというやつで、三菱GTOを颯爽と乗り回していた。色気のあるイケメンで王道スタイルの拓真と、少し陰のある整った顔立ちの清和が並ぶ様は、男の俺から見てもかっこいい。
俺と健太郎は、二人で健太郎のアパートに直行した。ニュースの続報を見るためだ。健太郎は実家から職場の近くのアパートへと越して一人暮らしを始めたばかりで、家電製品などは処分する代わりに、すべて健太郎に売っていたのだ。まだスマホもケータイも無い時代である。
俺も、普段口数の多い健太郎も、部屋に着いてもほとんど言葉を交わさなかった。健太郎がテレビの電源をつける。この時間、大抵はニュースを放映していたが映ったのは、当時流行っていたアニメだった。健太郎がつい今しがた事務所で見ていたのと同じものにチャンネルを合わせる。事務所とアパートは目と鼻の先だ。見逃していなければよいのだが。
「プシュッ」
いつの間に手にしていたのか、画面を見つめたままの健太郎がビールを開けている。不釣り合いなほど小気味いい音だ。俺も飲もう。そうビニール袋に伸ばした手が止まった。続報だ。
「死亡が確認されました」
先ほどのニュースキャスターがそう言った。
ローディをしていた先輩が、死んだ。
白井さん(Vo.)、二十八歳。宮っさん(Dr.)、二十五歳。俺が二十三の歳。
身近な人間を二人、亡くした。
白井さんの葬式は北海道で行われた。俺は拓真と行った。宮っさんは東京だったので行かなかった。その後すぐに北海道を発ち、東京へと居を移した。
チェーン店の居酒屋の狭苦しい店内は、黒光りするような熱気にゆらゆらと、所構わない蜃気楼のようだ。
その日のライブの打ち上げは四、五十人くらいいただろうか。あまり酒に強くない俺は、それでも三杯めのレモンサワーに顔を赤くしながら、近くに座る仲間たちと音楽談義の即興バトルに興じていた。誰かがビートルズの歌詞の話をし始めて、尿意を感じてきた俺は完璧な、さり気なさを身にまとい席を立ち―――粗相の音。周囲の耳目が一気に中腰の俺に集まる。立ち上がろうとする際、皿に渡していた箸に腕がヒットして、盛大なる音を撒き散らしたのだ。
―――好都合。
俺はその二本の木の棒が奏でた、すっとぼけたようなふてぶてしい音と、皆の注目の熱いんだか冷たいんだか生ぬるい視線に背をベトベトさせて、酔いのせいなのかなんだか少しふらつく足で辿り着いた扉の男子トイレ象徴マークを目で殺しながら、ドアは勢いよく開けたほうがいい気がしたのでそうした。すると目の前に飛び込んできた見覚えのある顔がしかめっ面をしている。押すほうのドアじゃなくてよかった―――。反射的に頭を下げて、シ、ラ、イ。そのコードが、宇宙一速い俺のシナプスたちの伝言ゲーム連携プレイによって、愚鈍になりかけている我が脳内映写機のハンドルをたどたどしくも確固たる意志の音を立てながら回し始めた。元来飛び込まれるはずのトイレから飛び込んできたこのすっとこどっこいスカしっパイセンボーカル白井さん。わかる。わかるよ。相当酔ってる。
「お疲れっす」
私は至って常識人だ。ちょうどいい。酔って火に入る酔っぱらい。
「おー。お前もいたんかー」
「ちょっ、さっきそこであ、挨拶したじゃないすか〜。白井さん。大丈夫すか白井しゃん」
「︙︙︙」
バレたか―――。俺より酒に弱い白井さんである。金髪革ジャンスリムジーンズサングラス。打ち上げは不参加がデフォ。今日参加しているなどとは露ほども思わない。失態。刹那俺の脇を華麗に速攻! していこうとする白井。さん。慌ててドアを後ろ手に閉めた。身体ごと白井ごと、男マーク扉と個室扉の中間地点に、仮止め。
「白井。さん。ちょっとだけ話、いいすか」
「︙︙︙」
「俺今のバンドやめたんす。東京行くっす」
東京へ行き、プロになる。プロに俺はなる。そう決めていた。
「︙︙ああ?」
「アパートも今月いっぱ」
速攻。俺は胸ぐらを掴まれた! え? 身体をドアに叩きつけられる。先程白井さんと自分を閉じ込めた積極的トイレ扉。白井さんがそんなことをするなんて。俺は度肝を抜かれた。
「お前今なんつった」
その剣幕に、俺の酔いの醒める速さ、メジャー級。
「︙…︙」
「今なんつったかって聞いてんだよ!」
怒声の衝撃。いたい。俺は光るのをやめた。
「︙やめんじゃねえよ」
胸ぐらが解放された。俺は動けない。
「なんでだよ。なんでやめんだよ」
まばたきも出来ない。
「ちゃんとやれ。ちゃんとやれよ︙」
息の一つすら吸えなくなる。先輩は俺をどかしドアを開けて出て行った。ドアの閉じた音。開けっぴろげの個室。その空間を俺はどのくらい、凝視していただろう。
がらんどう。十畳のワンルームが四角い。あるのは電話機だけ。やけに明るい日差しにさらされた真っ昼間の空間をギターの旋律が、時折自分のもので無いかのように、流れていく。
「ピン、ポーン」
呼び鈴がいつもより大きく響いて、手を止めた俺はギターを置いた。誰だろう?
ドアを開けると、隙間からビニール袋が不躾に差し出された。サッポロビールの黒が透けている。
宮っさんと、ベースの堀田さんだ。二人の佇まいに、見たことの無い穏やかなものを感じる。近くでライブでもあるのだろうか。宮っさんが俺の肩越しに部屋の中を覗き込む。
「なんもねえな!」
言おう。
「俺、バンドやめたんすよ。東京行くことにしました」
穏やかなほころびを浮かべながら宮っさんが口を開いて、言った。
「お前は好きなことやればいいよ」
突如白井さんの険しい顔が浮かぶ。それはよく白井さんに言われていた台詞なのだ。堀田さんも、その言葉にゆっくりと頷いている。
「いてっ」
突っ立っていた俺に宮っさんが軽く蹴りを入れた。よくそういうノリで、白井さんにやっているのを見たものだ。
「とりあえず飲もうぜ」
言いながら宮っさんは俺をすり抜けて、部屋の奥へと行ってしまった。じゃまするねー、堀田さんが、後に続いた。
つるりとした床に座り、一時間ほどだろうか、取りとめのない話をして、解散した。
「大丈夫?」
目を覚ますと、目の前に不思議そうに覗き込む孫の顔があった。俺は泣いていたのだ。泣くなんて、どのぐらい振りだろう。
「じーじ、ギターは?」
ギター? そうだった。昨日の夜孫にせがまれて、もう遅いのでまた明日、と約束していたのだ。いたたた…ついうたた寝をしてしまっていたみたいだ。俺は寝室に置いてあるギターを取りに立ち上がった。
おはよう、よく眠ってたね
大丈夫 みんないってしまったよ
大丈夫 ここには俺と君だけさ
物語の 続きを
もう忘れたのかい?(笑)
また最初っから?(笑)
なんて これは 新しい本
ごめんごめん 顔 あげて
ほら? 俺のほうが 情けない顔 してるぜ
蝶に花なら 蛾には歌を?
俺は何を思う? 「君には翼を?」
なんて 時間稼ぎさ
もしも俺が道に迷ったとして
朝起きたとき ひとり だとしても
大丈夫 君は物語を思い出す
大丈夫 君は物語を紡ぎ出す
水平線の彼方 宇宙の奥の向こう側
そこまでいけば 必ず会える
会えるさ だから今は
そのままの君で どうか振り返らないでほしい
そんなに見るなよ? 恥ずかしいだろ
もう一度言うよ 君のために
ただ君だけのために
ただ君だけのために
ただ君だけのために
『DIVE!』
孫がシャウトした。何度もジャンプしながら、きゃははと笑う。開けっ放しの窓の向こうで娘が洗濯物を干している。どうもひんやりしていると思った。ポケットからスマホを取り出す。耳にあてて、ケラケラと笑い楽しそうだ。きっとパパからだろう。
「じーじ今度はあれ! なんだっけ! あれ、あれ?」
何だろう? 孫のよくわからないヒントを頼りに二人しきりに考えていると、娘が縁側をぴょこんと上がってこちらへ歩いて来た。
「今日お土産あるって。鮭とばだって」
「しゃけとば?」
孫がキョトンとして、窓の向こうの空を見上げた。雲一つない、高い高い秋の空だ。気の早いカラスが一羽、カァと鳴いて飛んでいくのが見えた。