17
ハルさんとのやり取りを思い出し、俺は再度深いため息を付いた。
目の前には匡平さん宅のドア。
ハルさんに命じられたまま匡平さんの家へと来たものの、どんな理由で訪問すべきか考えあぐねていた。
いや、そもそも律儀に訪問する必要もないんじゃないか?
何で俺は匡平さんのドア前で30分近くも悶々としてるんだろうか。いっそ一度家に戻って、無かった事にしても良いんじゃなかろうか。よし、そうしよう!
そんな後ろ向きに決定を下し、体を90度横へと向けた途端、その通路の先にあるエレベーターの扉がゆっくりと開いた。その中から、なんと匡平さんが現れ俺は目をこれでもかと言わんばかりに大きく見開いてしまった。
「なんてこった…」
どうやら俺は、たまにしか外出しないレア日を引き当ててしまったようだ。
俺と目が合い、「すまない、少し出ていた。待たせてしまったか?」と眉を下げ申し訳ないと声をかけてくれる匡平さんへ、俺はただ「大丈夫ですよ」と乾いた笑みを返すしかなかった。
「急に来るなんて、夏生君にしては珍しいな。何かあったのか?」
流れでそのまま匡平さんの部屋へと上がり、今はソファへと腰かけている。匡平さんはオレンジジュースを出してそのまま隣へ座り、心配そうに俺へ声をかけてくれる。その視線があまりにも優しくて、俺は匡平さんへ返事も顔も向けられず、出されたオレンジジュースをちびちびと飲み続けた。
その様子がどうやら気落ちして、弱り切った姿に見えてしまったのか、匡平さんの表情が深刻な物へと変わっていく。
「っ何か事件に巻き込まれたのか?!言いにくい何か…まさか痴漢か?!」
「っゲホッ!え?!ちょ、違いますよ。」
いや、飛躍しすぎでしょ。匡平さんの斜め上過ぎる心配に飲んでいたオレンジジュースが誤って気管に入り、俺はゴホゴホと何度も咳き込んだ。
匡平さんは慌てて背中をさすり、尚も「なら職場で何かあったのか?」と確認をしてくる。
「あったというか、されたと言うか…」
「された?!上司にパワハラ…いや、セクハラか?」
あながち間違ってもいないな、と一瞬反応が遅れてしまい、その俺の反応を肯定と受け取った匡平さんの表情が瞬時に険しい物へと変化していく。
額からニョキニョキと角が生えそうな勢いに、俺は慌てて訂正を試みる。
「あ、いや違います。ちょっとハルさんに告白されただけです。」
そう言葉にしてから、説明を間違えたと俺は深く後悔した。
匡平さんは今まで見た事が無いくらい目を見開き、口を何度もパクパクと動かし、俺を心配して擦っていた手すらも小刻みに震え始めた。匡平さんの口からは「っこ、こここ…こ?」と一音のみが溢れている。もはや鶏の鳴き声でしかない。
「君は、その、彼の告白に応えたのか?」
匡平さんは一度深呼吸をすると、そう俺へ聞いてきた。相変わらず視線は忙しなく泳ぎ、俺と目が合うことは無い。その様子に、俺はふとある事に気付いた。
そりゃそうか、匡平さんにとって俺もハルさんも知っている人で、且つどちらも男。もしかしたら同性同士の恋愛話に、気を悪くさせてしまったのかもしれない。
恋愛経験の無い俺には同性・異性の差にピンとはこないが、匡平さんが同じとは限らない。
「勿論お断りしましたよ。ハルさんの事は上司として尊敬は出来るけど、その、愛情とは違うので。」
俺がそう答えると、匡平さんは「そうか」と短く返答し、彼の表情には安堵の色が浮かんだ。
その変化に、やっぱり男性同士という部分に匡平さんは抵抗を感じているのだと、確信を得てしまった。
瞬間、俺の心臓がぐっと締め付けられ、喉の奥が苦しくなった。
「すみません、俺…匡平さんへ不快な思いさせちゃいましたね。」
俺は手に持っていたグラスをテーブルへと置き、背に触れる匡平さんの温もりから逃げる様にソファから立ち上がり、彼から距離を取った。
匡平さんは俺の言った意味にピンと来ないようで、数度瞬き、俺を見上げる。
漸く目が合い、匡平さんの瞳に俺が映る。それがとても嬉しくて、俺はやっとこの感情の正体に気付いた。
あぁ、俺は匡平さんが好きなんだ。
不器用ながら、一生懸命に行動する寒川匡平という人物をもっと知りたいし、もっと俺を見て欲しい。
だから、匡平さんが同性への恋愛に否定的だと気づいてショックを受けたんだ。
どうやら俺は自分の初恋の自覚と同時に、失恋してしまったようだ。
「ジュース、ごちそうさまでした。匡平さん、俺ここにお邪魔するの止めますね。今日は鍵を返しに来たんです。」
嘘だ。そんな気は全くなかった。
でも、俺はもう前みたいに気軽に匡平さんの元へ通う自信が無い。失恋してしまったけど、この感情を無かった事になんて出来ない。
今だって、俺は匡平さんと一緒に居たいという欲が止めどなく湧いている。こんな状態で会い続けて、もし匡平さんに対する恋心に気付かれ嫌われでもしたら…俺は想像しただけで胸が苦しくなった。
ぎゅっと胸元を押さえ、俺は匡平さんへ向かって軽く頭を下げた。
「そもそも匡平さんと関わるようになったのも、俺が何度もご飯を作って上がり込んでたからで…最初から迷惑をかけてましたね。」
説明をすればする程、己の自己中心的な行動を自覚し、俺の視界がぼやけていく。こんなにも勝手をして嫌われていないのは、匡平さんの寛大さのおかげだ。
その優しさに胡坐をかいて、俺は随分と勝手をしてしまった。
俺はポケットに手を入れ、鍵を探す。けれど目的の物は見つからない。
「あれ、カバンの中だったかな。」
俺は顔を上げ、カバンを取ろうとして手を伸ばしたが、俺の手はカバンには届かなかった。代わりに、手首を匡平さんに掴まれた。
なぜ掴まれたのか意味が分からず匡平さんを見ると、今までに見た事が無い程険しい表情を浮かべていた。「夏生君」と俺の名前を呼ぶ声も、硬くとても低い。いつも優しい声音で俺を呼ぶ匡平さんとは真逆の態度に、思わず俺は身を縮こませた。え、怒ってる?なんで?
「君は…俺のことを嫌いになったのか?」
「そんなことないです!むしろっ…」
好きです、とは言えず俺が口ごもると、「ならどうして」と匡平さんは短く返し、俺の腕を掴む彼の力がぐっと増した。視線はずっと俺へ向けられ、説明をしろと訴えかけてくる。
その視線に耐えられず、俺はふいと顔を反らした。すると再度「夏生君」と俺の名前が呼ばれる。俺はぎゅうと目を瞑り、首を左右に振り「手を離してください」とだけ返した。
しかし、俺の要望が聞き入れられることは無く、反対にぐいと強く腕を引かれてしまった。
その勢いによたよたと匡平さんへ近づいてしまう。
彼から離れたくて立ち上がったのに、腕を掴まれ引っ張られたことで、結局俺は匡平さんの眼前へと戻されてしまった。
匡平さんは尚も俺の名前を呼び、視線も外れない。俺は敢えて目を合わせず、手首を掴む匡平さんの指を外そうと試みるも、もう片方の手もまた捕まってしまった。
「君とは随分仲良くなれたと思ったが、俺の勘違いだったか?」
小さく、まるで独り言のように呟かれた言葉はとても弱々しく、俺は耐えられず彼へと視線を向けた。
いつもなら不機嫌そうに眉間には深い溝が作られるのに、今日は一切なく、代わりに眉はこれでもかと下がり今にも泣きそうだ。何で匡平さんがそんな顔をするんだろう。
俺はそんな顔をさせたい訳じゃないのに。
だから、匡平さんが再度「夏生君」と弱々しい声で呟く姿に、俺は堪え切れず「違います!」と反論してしまった。
「俺だって、匡平さんと一緒に過ごす時間は楽しいし、もっともっと仲良くなりたいと思ってます。」
「ならどうして、俺から離れようとするんだ?」
俺の両腕を掴む手にグッと力が入る。
その手を見つめ、俺は一度ゆっくりと深呼吸をした。言いたくはない…でも、それよりも匡平さんを悲しませてしまう方がもっと嫌だ。
俺は覚悟を決め、顔を上げ匡平さんを見つめる。ぎゅっと拳を強く握り、もう一度大きく息を吸う。それからゆっくりと、出来るだけクリアに聞こえるように意識を集中させる。
「俺、匡平さんに嫌われるのが怖いんです。だって、…匡平さんのことが好きだから。」
お読みいただきありがとうございました。
次回で最終回です。