15
「君はもう少し危機感を持った方が良い。」
寒川さんが俺にそう話しかけたのは、彼の部屋へ上がってからだった。
それまで終始無言。道を歩いても、電車に乗っても、俺が何度声を掛けても兎に角無言。一応頷いたりの反応を見せてはくれるものの、ほぼ気持ち程度で、視線も合わない。家に辿り着くまで俺は大いに混乱した。
その大混乱中に言われたのが「危機感を持て」だ。何に対しての危機感かもいまいちピンとこない。
だから俺の口からは「はぁ」とあやふやな返事しか出てこなかった。
俺の様子に納得がいかないのは寒川さんも同じようで、大きなため息を付つかれてしまう。
「君は人に対して好意を持つのに、他者からの好意にはえらく鈍感なんだな。」
寒川さんはガシガシと頭をかき、それからリビングにあるソファへと腰かけた。再度俺を見て指を数度折り俺を手招きする。
大人しく寒川さんの近くまで行き、伸ばされた寒川さんの手を不思議に思いつつ掴めば、ぐいと引っ張られた。
「うへっ?」
一歩前へと足を踏み出せば、寒川さんのもう片方の腕が俺の腰を掴み更に一歩進む。
気付くと、俺は寒川さんに抱きしめられるような状態になっていた。
「例えば、俺が君に無体なことを働いたとする。怖いとか、嫌に思わないのか?」
寒川さんは腰をがっちり捕まえたまま、俺へと視線を上げる。その表情はなぜかとても真剣で、声も若干固い気がする。
寒川さんが無体を働く?俺の嫌がることをするってこと?
俺は自由に動かせる手で首をかき、うーんと唸る。
「正直想像できないです。だって寒川さんは優しいから、俺が嫌がるような事をするイメージすら沸かないです。」
俺はへらりと笑って見せれば、寒川さんの目が大きく見開かれた。
「以前、俺が君に近づき過ぎた時は驚いていたし、距離を取れば安心していたじゃないか。あれは嫌だったからじゃないのか?」
「え、そんなことありました?」
その時の説明を更に加えられ、どうやら俺が寒川さんへ名前を伝えた時の事らしいと分かった。
当時を思い出そうと目を瞑り、再度うんうん唸りながら記憶の引き出しを引っ掻き回す。
確か、寒川さんが名前を忘れてしまったと謝りながら、何度も教えて欲しいと聞いてきた気がする。それで、今みたいにぐいぐい近付いてきて、俺は動けなくて…
「あ」
そうだ、そんなことも有った!
寒川さんが真剣な表情で、とてつもなく甘い声を出しながら、何度も俺に名前を言うように迫っていた。
その場面を俺は唐突に思い出した。
「嫌じゃなかったですよ。どちらかと言うと、寒川さんの顔が近くて、緊張で心臓がドキドキしてました。」
確かにあれは吃驚したし、普段見る寒川さんとのギャップがあって凄くドキドキした。でも嫌かと言うとそんな事は無い。
俺は思うまま伝えれば、寒川さんは「そうか」と返し、ホッと力が抜たように感じた。
そのまま寒川さんは視線を下げ、俺の胸元に額を押し当て「嫌われてなくて安心した。」と零した。
なんで寒川さんはそんな事を聞くんだろうか。
視線の先には、寒川さんの旋毛があり時折ふよふよと髪が揺れる。
その髪を見ていると、唐突に触れてみたいという気持ちが込み上げ、俺はそっと髪に触れた。
艶のある黒髪は想像より柔らかく、量も多いのか撫でる度に俺の指がするすると髪を梳く。これは、癖になる気持ち良さかもしれない。
「俺、寒川さんと一緒に過ごす時間が凄く好きなんです。一緒にご飯食べるのも、こうやって話すのも、何だか心がぽかぽかして気持ちが温かくなるっていうか。」
俺は髪に触れながら思っていることを伝える。が、当の本人は何の反応も示さない。あれ?
「だから、俺が寒川さんを嫌うことはないですよ。」ともう一度話せば、「だから君は…」と呟き、盛大にため息を付かれた。何でぞ。
その後、一度強く腰を抱きしめられ、それから俺を掴んでいた両手がゆっくりと離れていった。
その動きを見ていると、寒川さんは再び顔を上げた。目が合った瞬間、寒川さんの目が細められ「夏生君」ととても柔らかい声音で名前を呼ばれる。
「君に謝りたいことが有る。」
そう言うや否や再度腰を掴まれ引き寄せられ、寒川さんの膝へ座るような形になった。
寒川さんはソファへ深く凭れかかり、俺もまた寒川さんに身を預けるように寄りかかる。俺の腰を掴んだ手は離れる様子は無く、俺は急な出来事に動けずにいた。そこへ、寒川さんのもう片方の手が伸び、ゆっくりと俺の頬を撫でる。再度「夏生君」と反対側の頬辺り、むしろ耳元で名前が呼ばれる。その吐息が耳にかかり、くすぐったさに肩へぐっと力が入った。
「最近、君に対して少々不審な態度をとってしまい済まなかった。」
そのまま寒川さんは耳元で話し続ける。穏やかで、落ち着いた声音で安心するはずなのに、あまりにも近くで話すから、くすぐったいし落ち着かない。
「どうやら、俺も夏生君ともっと一緒に居たいと思っていたようだ。だが緊張で上手く言えず、あんな態度をとってしまった。」
どうやらここ最近の言動に対して、寒川さんは謝っているらしい。寝起きどっきりみたいになった日も、驚きが勝って大声が出た、と頭を下げられた。
「それと、俺も君に名前で呼ばれたい。」
ダメだろうか?と言いながら、そっと俺へ視線を向ける。じっと見つめてくる視線が、最近俺へ何度も向けられていた物と同じだと気づき、あの視線はこれか!と納得した。
「もちろんですよ。俺も匡平さん、って呼びたいです。」
その位お安い御用です!と再度名前を呼べば、匡平さんは満面の笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
「あともう一つ。」
それから匡平さんは再度俺の頬を撫で、そのまま指先で俺の耳たぶをやんわりと摘んだ。指先が耳の輪郭をゆっくり撫で擽ったい。
「俺は君にもっと触れたいし、甘やかしたい。」
「甘やかす?」
「ああ、夏生君は誰よりも周りの人に対して優しくあろうとするが、君自身に対しては疎かに思う。だから、そんな君を俺は優しくしたいんだ。」
「甘やかす、優しくする」と俺は何度も口の中で繰り返す。そんな事、初めて言われた。
誰か困っている人を助けることは当たり前だと思っていたし、逆に自分の事は大概何とかなってきた。だから、俺から助けてと発信する概念がそもそも俺にはなかった。
だから、匡平さんの言葉は初めて聞くような感覚で、俺は何度もその言葉を咀嚼する。
すると、段々その言葉がじんわりと俺の心に沁み込み、体がぽかぽかと温かくなった気がする。
きっと、匡平さんが言うことだから、こんなにも俺の心に響くのだろう。
「それってなんだか凄く魅力的です。」
自然と頬が緩み、俺はへにゃりと笑って見せれば、匡平さんは満足そうに頷き、俺の頭を優しく撫でた。
「それと、君を甘やかすのは俺一人で十分だ。だから、君は上司の相手なんかしなくて良いからな。」
そう話す匡平さんの表情は、ハルさんを思い出しているのか少し眉間に皺が寄る。もしかして、俺が匡平さんよりハルさんを構う、という表現も何だか失礼か。ハルさんばっかりを相手にすることが嫌なのか?別に構ってもいないけど。
匡平さんは口を尖らせ、視線はふいと横に逸らされる。表情もどこか面白くない、という不機嫌さを表しているようで、何だか子供みたいな仕草に俺はプッと笑いが込み上げた。
「分かりました。ハルさんには、ふざけないようにちゃんと伝えますね。」
俺は「任せて下さい。」と姿勢を正し、拳を胸元にトンと当てて見せれば、匡平さんから「ああ」と穏やかな声が返ってきた。それと一緒に匡平さんの顔が近づき、そっと俺の頬に匡平さんの唇が触れた。
お読みいただきありがとうございました。
ゆっくり更新ですが、頑張って書いていきますので、ぜひ二人の展開を見守っていただけると幸いです。