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≪寒川視点≫
「たいっっへん失礼しました!!」
隣人の体は大きく跳ね、次いで俺の隣で深々と頭を下げた。それはもう深々と、そのまま前転するのではと心配になるくらい前のめりに。
「いや、君は悪くない。俺も聞くタイミングを逃してしまっていたからな。」
だから頭を上げてくれと伝えると、隣人は顔を上げた。だが、その顔色は未だ血の気が失せ青白く、目は左右に忙しなく揺れていた。気の毒なほど狼狽えている。
それもそうか、希薄と言えどお互いに関わりをもったのはもう1年以上も前だ。そうなるのも当然だろう。
だが、休日の日中、大人二人がベンチに座り、片方が頭を下げている。これは好ましくない。
傍から見ても非常に良くない光景だ。遠目にこっちを窺う母子の表情に、困惑が浮かんでいることが見て取れた。
俺はそっと隣人の肩に手を添え、噛んで含めるように再度ゆっくりと話しかけた。
「話すようになったのは最近なんだ、知らないのは当然だろう。」
だが、どれだけ伝えても隣人の目は定まらず顔色も悪いまま。
ああ困らせてしまったな。俺は落ち着かない隣人に、質問のタイミングを間違えたと後悔した。
それからもう一度、「君、」と声をかけながら隣人の冷え切った両手に触れ、少し力を込め、俺よりも一回り小さく柔らかい手を握りこんだ。
ピタリ、そこでようやく隣人の動きは止まり、目が合った。
「すまん、別に困らせるつもりはなかったんだ。」
そう、別に名前など今まで必要なかったのだから、今後も不要でも何ら問題はなかった。
ただ、あの榛名という男を見てから、俺も少し気持ちがざわついてしまったようだ。
気安く隣人の名前を呼び、俺へ見せつけてくる態度に、強く不快感を持った。
そもそも、出会った瞬間からあの男は俺に対して面白くないとでも言うように、好戦的な視線を寄こしていた。
あの男の言動を、隣人はふざけていると思っていそうだが、あれは俺に対するあからさまな牽制だ。
あの男が牽制するような事は、俺たちの間には何もない。にも関わらず警戒されたことに、当然俺は面白くはない。だが、我が物顔で隣人に近づかれるのは良い気がしない。
だからなのか、俺も隣人の名前を呼びたい、そう強く欲が出た。
「それに、俺も名乗ってはいない。」
「え?でも、俺寒川さんの名前を知ってますよ。」
「それは医者が俺の説明時に見せた書類や、やり取りで知ったんだろう。」
「あ…」
そう、この結果になった原因には、俺も大きく関与している。そもそも、当初は隣人との関係を続ける気はなかった。だから、意図的に俺は名乗らなかった。それ以外にも、彼への対応だってあまり良いとは思えないことをしていた。
…いや、もしかしたら、その当時隣人から名乗られていたかもしれない。しかし興味もない人間の名前を覚える事に利を見出せず、聞き流した可能性もありうるな。いや、この律儀で面倒見の良い隣人のことだ、名乗らず関わるなんてあり得ない。…とすると、やはり原因は俺にあるだろう。
「すまん、違うな。君と会った最初の頃、君は絶対名乗っているはずだ。だが俺は、君の名前を記憶に留められなった。」
こちらこそ失礼なことをした、と頭を下げ返せば、隣人が「顔を上げて下さい」と慌てる声が返ってきた。
俺は触れたままの隣人の手に再度力を込めて握り、そっと彼の顔を見つめた。すると、今度はしっかりと彼の瞳とかち合い、そしてまた忙しなく揺れ始めた。だが、彼の青白くなっていた頬には赤みが差し、冷えた指先も段々と温もりを取り戻し始めた。
あーだとかうーだとか、彼の口からは言葉にならない声が何度も溢れ、掴んだ手も俺から離れようともぞもぞ動く。
その全てに俺は気付かない振りをしてじっと待つ。
きっと隣人のことだ、俺が名前を忘れたと伝えたとて、彼自身が言い忘れたと思い込んでいるのだろう。その上で、俺の言葉をどう受け止めるか、分からなくなっているのではなかろうか?
「だから、改めて名乗らせてくれ。俺の名前は寒川匡平という。今日まで、俺の事を気にかけてくれて深く感謝する。どうか、もう一度君の名前を教えてはくれないだろうか?」
俺は再度、隣人の手を優しく引き寄せ、グッと体を彼に近づけながら顔を覗き込んだ。
「ひえっ」と弱弱しい声とともに、ボンッと顔を瞬時に赤くさせ、隣人は腰をのけ反らせた。
「……っ浅海 夏生、です。」
ようやく隣人が名乗ったことに満足し、口内で何度も浅海夏生と呟き確認していると、「だからもう勘弁してください」と彼から必死に声が絞り出された。
見ると、俺は彼から名前を聞き出そうとするあまり、手を掴み至近距離まで体を寄せ、無意識ではあるが彼が逃げ出さないように捕まえていたのだと気づいた。
彼は必至に顔を横に逸らし、ギュッと目を瞑っている。その顔すべてが赤く染まり、心なしかプルプルと小刻みに震えていた。
瞬間、俺の腹部にぐっと力が入った。
「っすまん、つい力を入れすぎた。」
パッと手を離し彼から一人分距離を後方へと退き、俺は再度彼へ謝罪した。同時に、今味わった自身の感覚に混乱した。今のは、なんだ?
「いえ、大丈夫です。」
そう言いながら彼は顔の近くで手をパタパタと仰ぎ、顔の熱を下げようとしている。その姿に、胸の奥がぐっと何か圧を感じ、彼の姿が非常に好ましく見えた。
さっきまで何とも思わなかったのに、彼を見るだけで今は心臓が勢いをつけ脈が速くなる。
急な変化に俺は内心驚き、あぁこれはあながち榛名の見立ては間違いではなかったのだと思い至った。
「あの男…君の上司は、人を見る目があるな。」
「え?あ、まあそうですね。仕事に関しては本当に力のある人なので。」
急に榛名の話を受け、彼はぽかんとしつつ、直ぐに感想を返してくれた。ただ、自分で振った話とはいえ、あの男を誉めるのは面白くない。
俺はこんなにも狭量だったのかと自分に呆れながら、じっと彼を見つめた。
理由が分かっていない彼は、何度か目を瞬かせる。その仕草すら可愛らしい。
「さて、美味しい飲み物も頂いたし、そろそろ帰ろうか、夏生君。」
俺はベンチから立ち上がり、ぽかんと見上げる彼の頭を優しく撫で、愛しい気持ちを込めて彼の名前を口にした。
お読みいただきありがとうございました。
ゆっくり更新ですが、頑張って書いていきますので、ぜひ二人の展開を見守っていただけると幸いです。