ウチの客はよく飯食う客だ
吾輩は猫である。名前はネコ吉。
当代におぎゃあと生れ落ちて早三年、半年ほど勝手気ままな野良猫ライフに現を抜かしていたがある時を境にその生活も一変してしまう。
ある雨の日のことだ。湿気に当てられぞわぞわする体毛を軒先で整えている時に、その娘は現れた。
吾輩の前にしゃがみこんだ娘を見上げる。そいつは黒く長い毛先を雨でしっとりとさせながら吾輩に傘を向け、うちに来ますか? と、妙に畏まった口調で言うのだ。
あまりにも自然に吾輩に話しかけるものだから、吾輩も最初はこの娘はただただデカい猫なのかと思った。長毛種にとって雨は特に嫌な天気だろう。なればどこかに雨風の凌げる丁度良い宿を確保しているのかもしれない。
折角声を掛けてくれたのだからお相伴にあずかろうではないか。
そう思って付いて行った先が今いるここだ。無駄にデカく四角い建物に入り、さらに四角く髭の先がピリピリする箱に乗った後、二つ目の扉を潜った所がこの娘の住処らしい。確かに雨風は凌げているが、なんとも面倒な場所に居を構えているものだ。
そして何より驚いたことに……なんとこやつ、人間であった!
しかしなんだ、こうして人間の家の中で過ごしてみると、案外悪い暮らしでもないような気がしてくるから不思議なものである。
まず第一に食事が良い。キャットフードなる固形物を出された時はこのような物を吾輩に食せと言うのかと憤りを感じたが、食べてみれば鼻に抜けるカツオが香しく、些かわざとらしい味付けだがジャンクだと思えばこれはこれで悪くない。
それに大人しくこれを食べていれば長毛種の娘、名をサヨコと言ったかが、マグロや稲葉さんなる御仁の卸す美味しいやつを吾輩に献上するのだ。
胸の内を明かすなら毎日でも献上せよと申しつけたいところだが、サヨコにも生活があるからな。献上品は受け取るが、締め付けはせぬ。圧制は反乱を呼ぶ故な、よきに計らえ。
まぁそれはさておき、この家の中は実に居心地がよい。
人の気配も薄く、吾輩にとっては最適の環境と言えよう。日当たりの良い窓辺で丸くなり、家に来る客人を持て成してやるだけの簡単な仕事だ。
あー、いや。訂正しよう。
その客人を持て成すというのが一苦労なのである。
基本的にはこの家に来る客人は少ない。というかほぼ一人しかいない。
収まりのいい箱を献上しに来る緑や青い服の者もいるにはいるが、奴らはわが居住スペースを荒らさぬ、いじらしい者どもなので今は置いておこう。
問題はあの毛の短い小娘だ。
小娘はほぼ毎日決まった時間に家にやってきて雛鳥のように姦しくサヨコに食事をねだり、吾輩の毛並みを堪能し、騒がしく帰っていく。
そう、騒がしい。騒がしいのだ。あの小娘、マヒルは何が面白いのか毎日毎秒ケタケタと笑い、一頻り話をして満足すると日の変わる前に帰っていく。全くと言っていいほどサヨコと正反対の性格の娘だ。
非常に喧しい。喧しいが、まぁ……サヨコの用意する食事を美味い美味いと言いながら食うのだから悪い娘ではないのだろう。吾輩だって美味い飯を食わせてくれる者にはそれなりの敬意を払う。しかしそれでもやはり奴はうるさいものだ。
そんなこんなで今日もまた小娘がやってきた。
玄関先で靴を脱ぎ捨てる音が聞こえたかと思うと慌ただしい足音と共にリビングの扉が開かれ、笑顔を浮かべた小娘が入ってくる。まったく落ち着きのない女だ。
吾輩はため息を吐くようにヒゲを震わせると、窓から差し込む光を避けるようにして寝返りを打つ。
……ふむ。吾輩はそこでふと違和感を覚えた。
小娘の様子がおかしい。いつもなら吾輩を見つけるなり駆け寄って来るはずなのだが、今日はなぜか吾輩の側に寄り付こうとはしない。それどころかソファーの隅っこの方へと移動し、妙にそわそわしている。
よく見ればいつもより荷物も多い。いつもの鞄の他に何かが色々詰まった手提げの鞄を持っている。丁度どこかで一泊する程度の荷物だ。
小娘の視線の先を追うとそこには何やらいつもよりも機嫌よくキッチンをうろうろしている。つまりはそういうことか、と吾輩は納得した。あの余分な荷物は俗にいうお泊りセットというやつで、今日マヒルは我が宿に泊まるということのようだ。
故にサヨコはいつも以上に気合を入れて食事の準備をしているというわけか。若さ故か、生まれ持っての性質かは知らぬが、マヒルはよく食うからな。
だがここまではいつもと変わらぬことだ。であれば何故、小娘はここまでそわそわとしているのだ?家に来て飯を食うなどいつもやっていることだろうに。
仕方なしに窓際に置かれた棚の上からのそりと起き上がる。二年半たってすっかり我が家となり得たリビングを縦断し、ソファーの真ん中を陣取った。
隅で制服とかいう珍妙な衣服に付いた赤いリボンを触っていたマヒルがちらりとこちらを見やる。
「ネコ吉さん。どうしよう……」
随分とか細い声である。一体何が普段は騒がしいこの娘をそのようにさせるのかはわからぬが、こうもぎこちない態度を取られると調子が狂う。
何かあるなら吾輩が効いてやるから早う話せと髭を揺らすも、マヒルが口を開く前に向こうから放り込まれたサヨコの声に遮られてしまった。
「マヒルちゃん、もうすぐご飯出来るから手を洗ってきてね」
「え、あ。うん!」
変に上擦った無駄に大きな声で返事をして、マヒルが慌ただしく部屋から出て行く。
なんとも忙しい娘よ。
小さく鼻を鳴らせば小娘と入れ替わりサヨコが良い匂いのする小皿をもって現れる。ほぉ、今日はマグロを献上するとは随分と殊勝なことだ。ソファーから降り立てば目の前に小皿が差し出される。
さて、では頂くとするか。吾輩は差し出された小皿の上に顔を突っ込み、舌で掬いとった魚介の旨味を堪能しはじめる。
むぅ、美味い。実に良い色の切り身である。サヨコを褒め称えてやろうと顔を上げると、サヨコが何か言いたげな表情をしていた。お前もか。
ほれ、仕方がないから吾輩が話を聞いてやろう。マグロ分は相談に乗ってやる。そうヒゲを動かしてみれば、サヨコが少し躊躇いがちに口を開いた。
曰く、今日は私とマヒルちゃんが同じ部屋に寝ることになりました。とのことである。……ほう? それはまた、どういう風の吹き回しだろうか。と、言うかそれが吾輩にどう関係があるのだろうか。
所謂今日はお泊りと言うやつなのだろう? それならば別に同じ部屋で眠ることぐらい普通ではないか。
それをどうしてそんなにも気にするのだ。吾輩の疑問を感じ取ったか、サヨコがぽつりと呟いた。
「だからね。今日はリビングの方で寝てもらえませんか?」
見上げた先にあったのはカーテンのように落ちてくる黒く長い毛と赤く染まった頬。そして潤んだ瞳であった。……なるほど、そういうことであるか。吾輩は理解した。この娘、番う気か。
賄賂とばかりにマグロが入っていた小皿に稲葉さんの美味しいやつが追加される。
無言のままこくりと首を縦に振ると、小皿の上に出された賄賂を受け取った。かたりと音が鳴ってマヒルが手洗い場から戻ってくる。
時刻は夜の七時三十分。
テーブルの上には吾輩の者ではない食事が並べられている。
何、心配することはない。吾輩は出来る猫であるからな。空気というものも簡単に読めるのだ。
吾輩はふっと息を吐くような仕草をする。吾輩なりの了解の意だ。
サヨコは小さく礼を言うと椅子を引いて席に着く。マヒルの前にはサヨコが作った料理が並び、吾輩には当然の如く追加された美味しいやつがある。
最初こそぎこちなく始まった食事だが次第にいつもの調子を取り戻し、あれやこれやとマヒルが話し、サヨコもそれに相槌を打つ。時折、サヨコがマヒルに話を振って、嬉しそうな反応を引き出すという場面も見られる。
マグロを飲み下しながら吾輩はしばらくの間二人の様子を眺めていたのだが、小皿を空にし終えると、すっかり定位置である窓際の棚の上に戻った。
柔らかいクッションの置かれたそこで収まりのいい体制を模索してから、欠伸を一つ。
何? その後の二人の様子だって?
吾輩はこう見えて紳士であるからな。一つ扉を挟んだ向こうのことなど何にも見ていないのである。ただまぁ、何があったかを察するに。
いつも食わせている側の者が、今日は美味しく頂いた、というところである。