キオクとクウハクのディクショナリー answer
若年性認知症。
カーテンの向こうにはキミがいるから、僕がしっかりしなければと思ったけれど、情けないことにその病名を聞いて、
手が震えた。
キオクとクウハクのディクショナリー answer
キミと出会ったのは、友人から声を掛けられたコンパの席だった。それまでに何人かの女の子と付き合ったりしてみたけれど、僕の性格の細かさにはすぐに辟易し、付き合いきれないと言って、大半はフラれてばかりだった。
「性格だから仕方がないじゃん」
そうは思うけれど、
「A型だから仕方がないっか」
血液型で判断するんだ。やっぱりA型ねって。付き合いきれない、だから別れて欲しいって。僕だって相当、傷ついていた。
ただ、僕は書棚の引き出しが出しっ放しだと気になるし、本は背表紙が種類別にきれいに並んでないと気持ち悪い気がするし、はたまた財布の中がレシートでパンパンってのも嫌なだけで。
けれど、それについてなにか僕が言ったことあるだろうか? こうしろああしろと強制したことがあるだろうか? それはない。
けれど、この日のコンパの時もそうだった。ひとつ前に座っていた団体のものであろうコップの跡が気になって、自分のおしぼりを犠牲にしてテーブルを拭いた。すると、女の子たちがえっ⁉︎ って顔で、ちらちらっとこっちを見る。この時点で僕は彼女たちの彼氏候補から外れることになる。そして、誰も話しかけてくれなくなるんだ。
僕の席の前に座ったキミも、最初からなにも喋らなかった。生ビールを黙々と飲んで、そして唐揚げを黙々と食べている。
僕はそんな様子をまじまじと見ていたけれど、僕の両隣の男の子たちも、キミに話し掛けたりしないし、キミもあまりに喋らない。コンパだというのに、僕とキミは喋らないという点で、同志のようだった。
けれどそれじゃちょっと寂しいし、僕はキミに話しかけるタイミングを見計らってはいたけれど、そんな隙がないとわかったので、唐揚げの最後を口の中に放り込んだ時を狙って、声を掛けてみたんだったね。
「お酒、強いんですか?」
「はあ、まあ」
「唐揚げ、もうひとつ注文しましょうか?」
「はあ、まあ、ありがとうございます」
一言二言で決着がついてしまう、その潔さ。きゃぴきゃぴした女の子がたくさんいる中で、ちょっとした変わり種だなあ、と思っていた。
お酒が強いと言う割に、飲めば飲むほどだんだんと目が座ってきて、小さなボブの頭が左右にふらふらする頃に、僕は「飲み過ぎですよ」とジョッキを取り上げた。
ビールがジョッキの底、二センチほど残っている。下げてもらいたいけれど、その二センチが異様に気になって、残ったビールを飲み干した。
「うそっ、ヤダっ」
テーブルの向こうから聞こえてくる声に、我に返る。しまった、確かに初対面で間接キスはマズイだろうし、気持ち悪うぅぅと思われるだろう。こういうところが嫌われるんだとわかっているのに。
しまったと思ったけれど、時すでに遅し。けれど、そろっとキミを見てみると。キミは手を挙げながら、近くの店員に「生中ひとつください」と叫んでいる。
僕は吹き出しそうになった。
キミはなんでもお構いなしだ。僕が机を拭こうが、空いたドリンクのグラスを店員さんが持っていきやすいようにと、取っ手を向こうへ向けて置こうが、キミが残した生ビールを飲んでしまおうが。
それがなんか嬉しくなって。
帰りは僕が送るよと言ったら、僕の隣のヤツも俺が送るとか言い出して、焦ってしまった。もし君が左のヤツを選んでしまって送ることができなくても連絡先だけでも聞きたい。
dictionary
例①
もし私が
「どっちでもいい」
と言ったなら
(それは本当にどちらでもいいってことなの。どちらか片方を気に入ったのなら、ちゃんとこっちって主張するから。あなたは気にせず、好きなようにどちらでも選んでくれていい)
連絡先を聞こうとして慌ててスマホを出したら、右側の人がいいですと言ってくれて、僕はほっと安堵したし、そしてとても嬉しかったことを覚えている。決して忘れない。
キミと付き合うようになって、わかったことがある。実はキミが他人には興味がないということが。モテないと自分で言っていたけれど、それはここに原因があるとみた。
まず友だちの車が覚えられない。あんなに駐車場で、ジュリちゃんはこのミラジーノ、ソウスケくんはこのラヴフォー、何度も何度も教えているんだけれど、キミは毎回「そだっけ?」。そんなキミに痺れを切らして、僕は車のナンバーを語呂合わせしてあげて、ようやく覚えたんだったよね。
そしてキミは友だちの誕生日を覚えられない。
だから、プレゼントを貰ったことがないと嘆くんだったら、友だちの誕生日にはプレゼントをしなければならないことを、何度となく切々とキミに説いただろうか。
dictionary
例②
もし私が
「覚えてない」
と言ったなら
(まあそれについては実際問題、私は本当に忘れっぽくて、本当に覚えてないかもだけど。でも安心して! 思い出はちゃんと覚えているから、これ反対語だから!)
本当にキミは忘れっぽい。
けれど、そんなキミが珍しく忘れていないことがある。
それは僕と結婚して娘をようやく授かった日のこと、娘が生まれた朝のこと、娘のあまりに軽い体重(ぐ、グラム⁉︎)や、おでこにできたできものの位置、小さな白魚のような指を握ったときのこと、その手が抱っこした僕の頬をぺちんと叩いたこと、それを笑いながらも流した、嬉し涙のこと。
娘のことだけはあまりにたくさんのことを覚えているから、僕はいつもそのことでヤキモチを焼いたりしていた。
「旦那より娘!」
そう言って大口で笑った顔が、眩しかったのを覚えている。
ただね。神さまのご意向で、もし娘が授からなかったのなら、二人きりで生きていくのもいい、そう思ったのには違いない。
それほどまでに、キミのことが愛おしいんだ。
そんな愛しいキミのことでも、僕には許せないことがある。
それは、あまりに性格が雑すぎるということ。
百歩譲って、僕のことならそれでいい。けれど、娘のことならばそこは気をつけてくれたまえと何度言ったことだろう。
とにかく、娘の幼稚園の制服の、袖を肩まで無理矢理まくり上げるのはやめてくれ。暑いと言っているのだから、半袖を用意して欲しいんだ。娘の腕がボンレスハムみたいになるのを、見過ごすことはできない。
それから、娘に持たせるハンカチは、ポケットからはみ出さないように、しっかりと入れて欲しい。いつも玄関にぽろぽろっと落ちているのを見つけて、バスに乗り遅れそうになるキミたちを追っかけていって、陸上のリレーのバトンのように、走りながら娘の制服のポケットにハンカチを突っ込むってこと、もういい加減に勘弁して欲しい。
キミはいつも「はいはーい、わかったー」って澄ました顔で言うだけで、まったくもって気にしない。けれど、そんな性格だからこそ、僕はいつもアンタはいちいち細かすぎる! と怒られずに、済んでいたのだなと思うんだ。
さすがに、階段から落ちて弁慶の泣き所を押さえながら悶絶する姿を見て笑った時には、めっちゃくちゃに怒られた。けど。
dictionary
例③
もし私が
「そんなこと知らない!」
と言ったなら
(温厚な私にしては珍しいかもだけど、怒っていると思ってくれていい)
そうだ。キミだって怒ることがあるんだ。キミは僕がなにをしてものほほんだから、キミは全然怒らない仏のような人だと、僕が勝手に勘違いしていただけで。
あの時はごめん。いの一番に「大丈夫?」と訊くべきだった。それとも「大丈夫か!」と駆け寄って抱き上げ、ベッドに運んじゃうくらいじゃないといけなかったんだ。
例④
もし私が
「そんなこと言ったっけ?」
と言ったなら
(自分で言うのもなんだけど、それはなんとなく本当に忘れてそうな気がするから、覚えてないんだなって思って、スルーして。なにか決めなきゃいけないことがあったなら、どんどん話を先に進めちゃっていいからね)
「このすっとこどっこいのマヌケ男があぁぁぁ!」
このセリフを忘れるだなんて、キミの方がすっとこどっこいなんだと思う。
僕が浮気しただなんて、勘違いして!
浮気なんてするわけがないだろう。キミと娘を失いたくないんだから、そんなことをするはずがないってわかっているよね?
すぐに勘違いだとわかって、これに関して僕は絶対に悪くない、そう言い切れる。
キミの勘違いから生まれた言葉だ。僕はこれが名言(迷言)とまで思っているんだから、間違いないし忘れない。この恨みは、ぜっっったいに忘れないんだからな。
例⑤
もし私が
「あなたは誰ですか?」
と言ったなら
(これありがちだけど、いやいやもちろん、あなたは私の夫だしこの子は私の娘だし最愛の家族だからあなたは誰? なんて本当は絶対にあり得ないんだから。もし私の口がそう言ったとしても、絶対に覚えてるのに決まってるんだから。だから逆に、「俺だよ俺! キミの旦那だよ! ったく忘れっぽいんだからあ」なんて絶対に言わないでよ! そんなん言われたら、バカにすんなそれくらい知ってるし! って逆ギレちゃうからね!)
「俺だよ俺!」
なんてことをつい口走ってしまいそうな気もしている。
「キミの旦那だよ!」
これも言ってしまいそうだな。
こんな僕を愛してくれたキミが、僕や娘を忘れてしまうだなんて、考えるだけでも頭を殴られたような衝撃を受けるのだからさ。
けれど、この辞書を作ってくれたから、キミは僕らを忘れたわけじゃないってわかるし、娘にもママが娘のことを忘れたわけじゃないって堂々と確信を持って主張できるから、本当に助かるしありがとう。
この辞書があるお陰で、最後まで穏やかな気持ちで、キミの側にいることができる。
「あなたは誰ですか?」と尋ねられたときは、親愛の意味を込めておでこにキスができるし、「愛してるよ」と言ってくれたときには、きっと笑顔で愛情たっぷりのキスができるだろう。
キミと娘と僕の三人で、生きてきた証を、思い出として胸に抱いてくれるのなら。
記憶の空白には僕と娘が、たくさんたくさん詰まっているとわかるから。
例⑥
もし私が
「 」
と言ったなら
だから僕だって思い出としてこれからも抱きしめて、
(私の記憶の空白にはいつもあなたと娘がいてくれる。だから今度はあなたと娘の記憶のなかに、
私がいつまでも残りますように、ありがとう)
こちらこそありがとうと、何度も伝えるよ。
僕は細かい男だから、
何度でも何度でもありがとうって、
キミがもういいわっって迷惑そうに、笑ってくれるまで。