猫を被る男
大通りから少し離れた、古めの石畳が敷かれた馬車がぎりぎりすれ違うことができる程度の静かな通りに神父の住居はある。寂れた二階建てのアパートの一室が、彼が安い賃料を理由に選んだ場所だった。招く友人がいるでもなし、尋ねる恋人がいるでもなし。手狭な部屋ではあるが、一人で過ごすのに不自由のない寝床と、食事を取るためのスペースがあれば他は気にしない神父である。古い木造住宅故に、少々隙間風と隣室の物音が入ってくるのが玉に瑕だが、それはそれ、慣れてしまえば大きな問題でもない。
霧の立ち込める早朝、神父はアパートのドアに据え付けられた郵便受けに紙の束が押し込まれる音を聞いて目を覚ます。寝起きはいい方ではない。重い頭を何とか起こし、手を伸ばして壁を伝う。途中床に転がった銀の首飾りを踏み付けて呻く。眼鏡がないと足元に何が落ちているかもろくに見えない程度には、彼は強度の近眼だった。
麻の紐で括られた紙の束を拾う。ほとんどが教会本部から届く任務報告書に関する事務的な通達だった。封筒の色は辛うじて分かるので、申請した報告は全て円満に受理されたらしい。書類に不備があると黒い封筒が届くが、束ねられた紙の中にそのような色合いのものはなかった。これでまたまとまった報酬が手に入るだろう。ぼんやりと封筒を仕分けては放り投げていた神父は、その内の一つに目を留めた。濃い赤色の封筒に、金の蝋で封印がなされている。これは神父の師匠でもある司教がよく使うものだった。
赤い封筒だけを握り締め、他は早々に放り捨てた神父は、慌てて眼鏡を探し出すとそれを掛けて封筒の宛名と差出人の名前を確認する。第三位司教より、親愛なる弟子に向けて、と蝋と同じ金のインクで書かれた筆跡は間違いなく師の流麗な文字である。うっかり破いたりしないよう、慎重にペーパーナイフで封蝋を砕く。赤い封筒から出てきたのは簡素なデザインの白い便箋だったが、それを食い入るように見つめて書かれた文面を熟読する。
手紙は、神父に新たな依頼を斡旋するというような内容だった。どこそこという街で、急な聖水の需要増加のために、聖成の補助に付いて欲しいという依頼である。主神信仰の盛んなこの国では、通常街と呼ばれる規模の集落には一つ以上教会が存在する。そこには神学校を卒業し、聖水を作る許可を与えられた修道士、修道女が駐在し、市民に主神の教えと慈悲を説くのである。聖水は悪魔を祓うのみならず、場の穢れを清め、人体の澱みを洗い流すとされ、日頃から聖水を求めて教会を訪う信者は多い。神父は聖水を作り出すのに苦労といった苦労を要さないが、地方の教会に派遣されるような下位の修道士にとっては聖水を小瓶一つ生み出すのに数日かかることはざらで、小さな教会であれば、一度悪魔憑きでも出た途端、作り置きの聖水すら使い果たしてしまうことも少なくはなかった。
斡旋するということは、司教から直接下された命ではなく、他所から持ち込まれた依頼だろう。街の名前を地図から探し出してみると、なるほど随分僻地である。大体の事情は察しが付いた。先日レオンハルト神父の任務を横取りしたことが原因だろう。悪魔祓いの仕事は割がいい。無論、伴う危険も大きいが、得られる報酬も名声も時間当たりに換算すれば破格である。対して、聖水作りの補助となると、地味な上に内輪の依頼のために奉仕の意味合いが強い。報酬があってないようなものなのだ。表面上、今回の件は教会本部よりお沙汰無しとなった訳だが、レオンハルトの上司に当たる他の司教と、神父の上司であるダミアン司教が穏便にこの件を収めるために話し合った結果がこれだ。つまり、地味で辺境まで赴く必要のある面倒くさい仕事はこちらで貰って、反対に華々しい悪魔祓いの仕事は一つ向こうに譲る──恐らくそんな交渉が水面下であったのだろう。師匠には悪いことをした。当然、地味だからといって神父に断る権利も資格もありはしない。金にならない仕事は嫌いだが、師匠の体面に泥を塗るのは論外だった。
そういった言外に含められた事情を、司教の穏やかな表情を思い浮かべながら読み取る。もちろん分かっておりますとも、とその場にいない司教に対して頷きを返しつつ、しかし、本文の後ろにまだ続きがあり、神父は訝しがりながらその追記に視線を落とす。
──追伸。辺境の街からの依頼となります。今度は馬車代を節約して歩いて現地に向かうことのないように。
ばれていた。近場の移動なら日数もさほどかからず問題ないが、いくつも街を越えた先への移動となると、さすがに移動だけで時間を食い過ぎる。さすがの神父もそこまで出費を抑えようとは思っていなかったが、これは司教からの忠告であると肝に銘じる。
──追伸2。馬車はこちらで手配してあります。指定の日時に教会本部の前に迎えに来るよう指示してありますので、遅れることのないように。
笑顔で念を押されている気がした。
指定された日時の半刻前には、既に悪魔祓いの黒い装束とその上から羽織る外套を纏い、教会本部の正面に位置する広場に到着していた神父である。その横には知らせた訳でもないのに護衛の男が並んで立っている。どうして、だとか、いつからここに、といったことを今更問い詰めるのも面倒で、神父は溜息を吐くに止める。護衛がいつものように忍び笑うのが分かった。
暫く待っていると、教会本部が手配したのだろう上等な客車を引いた二頭立て馬車が広間に乗り入れる。御者の着ている服ですら神父のものより上等そうで、これに乗っていくのかと思うと気後れしてしまう。しかし、その馬車から降りてきた人物を見て、神父は目を剥いた。
馬車の扉を御者が開き、降り易いように足台を用意する。まずは屈強な体躯の聖騎士が顔を出し、鋭い視線で辺りを一瞥すると素早く馬車を降りて扉の横に控えた。もう一人、こちらは長身の女騎士が素早く降り立ち、扉の反対側に控える。最後に御者に手を添えられながらゆっくりと顔を出したのが、見間違えるはずもない、神父に今日の依頼を任せた司教その人であった。
反射的に、神父は踵を返して逃げ出そうとする。それを護衛が外套の襟首を掴まえて押し留める。大聖堂の正門に近い場所に停められた馬車から神父らのいる広場まで、距離は随分あるものの、司教の目線は既に神父らに注がれていた。
「こら、こら。お前の上司なんだろ?どうして逃げ出す」
「あなたがいるからですよ!」
首根っこを掴まれたままの神父は、絞り出すような声で抗議して護衛の男を睨み付けた。
「司教様に、あなたといるところを見られたらおしまいです」
「じゃあもう終わってんだろ」
「あああ、どうしましょう、どうしたら、ちょっと今からでも遅くないです、他人のフリをしてもらえませんか」
「遅いだろ」
相当に狼狽えている様子で、神父は支離滅裂なことを口走る。頭を抱える神父が逃げ出さないように捕まえつつ、護衛はちらりと遠目にこちらを見つめる司教らの姿を見やる。司教が親切で馬車を手配したのみではないことは、神父も察するところであったが、その真なる狙いは彼が護衛を伴って現れることを見越した上で、護衛がどのような人物かを確認するためであったのだ──と今なら神父にも分かる。もっと早く気付くべきだった。護衛に興味と関心のある風な師匠の口ぶりであった。優しい笑みと柔らかな口調に絆されて、司教が教会内では狸爺と揶揄されていることを度々忘れる神父である。
「もし」
遠くから司教が呼びかける。はっと顔を上げる神父が条件反射のように背筋を伸ばした。
「仲が良いのは結構ですが、いつまでもそんなところにいないで、こちらにおいで」
「は、はい!」
歯切れのいい返事で応え、神父は護衛を見上げる。てっきり普段の威嚇するような顔で睨んでくると思っていた護衛の予想に反し、神父は本気で困り切った様子で、護衛が何を言い出すのか怯えてさえいるように見えた。
護衛に背中を押され、神父はぎくしゃくと広場を突っ切って司教の元へと歩いてくる。「おはようございます」と蚊の鳴くような声で神父が言うのを聞いて、司教も苦笑せざるを得なかった。
「そんなに驚かせてしまうとは思っていませんでした。騙すような真似をして悪かったね」
「……いえ」
そわそわと落ち着かない様子の神父は司教の足元を見つめて首を振る。今の彼には何を言っても逆効果だろう、と司教は敢えて隣の護衛に話しかける。
「それから、初めまして、護衛殿。私は主神教第三位司教です。いつも我が弟子が大変お世話になっています」
微笑みかける司教に対し、護衛もまた朗らかに相好を崩して見せる。
「お初にお目にかかります。神父様より司教様のお話は常々伺っております。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
聖騎士に比べて、随分粗野な風体の男である──というのが司教の抱いた第一印象だった。防具の類もなく、武器は腰に提げた一振りの剣のみ。これも先日、神父が騎士団から調達したものであるだろうから、これまでの彼は丸腰だったのだろう。厚みのない服の上からでも鍛えられたしなやかな肢体はよく分かったが、特別屈強という訳ではない。どちらかといえば、チンピラと呼ぶのが一番近かったかもしれない。
その護衛が、礼儀正しく挨拶を述べ、司教に向かって会釈して見せる。神父が会わせたがらないのでどんな無法者かと思えば──と、司教は神父の様子を見て小さく笑みを零す。神父もまた、護衛の様子を見てぽかんと口を開けていた。それでは、彼がせっかく猫を被っているのが丸分かりになってしまいますよ──。
「気にしなくて良いのですよ。寧ろ、挨拶に伺うのはこちらの方でした。何度も弟子の命を救ってくださったと聞いています」
「いえ、当然のことをしたまでです」
護衛が笑顔を崩さず神父の脇を肘で突く。はっと我に返った様子の神父は慌てて居住まいを正し、ようやく開けていた口を閉じた。司教は改めて護衛の男を見やる。男はまっすぐに金の瞳で司教を見返す。
「少し気難しいところのある弟子ですが、上手くやってくれているようで安心しました」
「司教様がそう仰ってくださるということは、俺もそれなりに護衛が板に付いてきたということでしょうか」
「い、依頼先は随分遠いと聞きます。出立を遅らせては任務に支障が」
当初ほどの狼狽は呑み込んだ様子の神父が、とはいえだいぶどもりながら司教と護衛の会話に割って入る。苦し紛れの言い訳ではあったが、今回のところはこの位で勘弁してやろうと司教は敢えてその言い訳に納得して見せる。護衛の男は、司教に向ける愛想笑いとは違った種類の笑みを堪えるように神父の言葉に頷いた。
「おや、これは引き止めてしまってすまなかったね。では、二人とも、長旅になるだろうが、道中気を付けて」
「はい、司教様」
「失礼します」
神父と護衛が揃って頭を下げる。そうして、司教が乗ってきた馬車にそのまま乗り込んだ。御者は二人が乗り込むのを確認すると、丁寧に扉を閉めて、留め具を掛ける。足台を片付け、司教と控える聖騎士らに一礼すると、御者台に乗って馬に鞭を入れた。
広場を通り抜け、大通りに向かう馬車を、その姿が通りの向こうに見えなくなるまで、司教は見送っていた。