間章6
「そういえば」
見渡す限り、背の低い柔らかな草原で、穏やかな風がその表面を撫でるように吹き抜けていく。注ぐ日差しも麗らかで、遥か遠くの景色は霞む。なだらかな丘の中腹に腰を下ろしてそれを見やっていた神父は、隣に立っているだろう護衛に声をかける。
「あなたは普段何を食べているんですか?」
「あ?」
気が抜けたような護衛の声が返る。今更何を、だとか、そんなことを気にしてどうするのか、といったような心の声が透けて聞こえるような声色だった。とはいえ、不機嫌なそれではない。なんとなく、今なら何を聞いても答えが返る空気を察し、神父は続けた。
「魂を食べるのだと常々聞いています、けれど私の見えるところで食い散らかしている様子もない。時々私と普通の食事もしているでしょう?口に入ればなんでもいいのでしょうか」
「悪食みたいに言うなよ」
呆れた様子で護衛が息を吐く。いつもよりも聞こえる声の位置が高い気がした。かといって神父はわざわざ見上げて確認するのも億劫だった。そもそも自分は夜通し働いて、調子も悪い。そのはずだ。普段から目を見て話す相手でもない。
「普段から物を食う習慣はないな。俺たちは、お前ら『庇護される者』と違って、単体で完結する存在だ。外から栄養を取る必要はない」
主神の恵みによって生かされ、主神の定める理の中で生きる者たちを「庇護される者」と呼ぶ。対して、主神の定める理の外にある者共は「庇護されぬ者」とされ、常識や法則で測りかねる存在として人間には恐れられている。神父が祓うべき悪魔などがその最たるものだが、当然この護衛も庇護されぬ者である。
護衛が鼻で笑った。
「だが、娯楽としての食事は存在する」
「じゃあ、私はおやつだと?」
「ふ」
思わずそう問い返すと、妙に不満げな声が出てしまう。そのせいなのか、言い回しが悪かったのか、護衛は喉の奥でくつくつと笑った。それが一層気に入らず、神父は口をへの字に曲げる。……もう少し、必要にされる存在であるならば、あるいは──と、それ以上は考えるのをやめる。
護衛がへそを曲げた神父を宥めるように言った。
「おやつは、まぁ当たらずとも遠からずだな。強いて言えば、嗜好品の方が近いだろう。酒や煙草、賭博も似ているかもしれない。無くてもいいが、あれば気が紛れる」
「気が……」
「そうでもしないと、退屈で仕方ない。俺たちの生は永く、終わりがない」
そんなことのために、と言い募ろうとして、続く護衛の言葉に神父は口を噤んだ。理外の化け物であると分かっているつもりでも、やはり彼をまずは人の常識で測ってしまう。だが、少し考えてみれば腑に落ちる。隣に立つ護衛の見た目が、そのまま彼の生きた年数と合致するはずもない。主神の定めた寿命などという縛りにこの化け物が収まる訳がなかった。
嗜好品に溺れる人間がいる一方、息抜きのない人生は果たして豊かと言えるだろうか。人の短い一生ですらそうなのに、この化け物が生きてきた年月がどれだけ豊かであっただろう。彼が度々神父に過度な要求をして見せるのは、驚きと娯楽性とを神父に求めているが故なのだ。
同情とまでは行かずとも、憐憫にも似た感情が胸の内より湧き起こる。否、たかだか20年か30年しか生きていない神父が、悠久の時を生きる化け物の苦悩のどれだけを理解できるだろう。それさえ烏滸がましくて神父は誤魔化すように口を開く。
「……では、あなたが食べたものはどこへ行くのでしょう?」
慌てて口を開いたが故に、相当尾籠なことを聞いていると気が付いたのは、全てを言い終えた後だった。食べたものが咀嚼され、消化され、吸収された後に不要なものは排泄される。それだけだろうに、と恥じ入って身の置き場もなくもじもじしていた神父の予想とは裏腹に、護衛の返答は淡々としていた。
「どこもいかない。燃えて、おしまいだ」
「燃える?」
護衛はしばし言葉を探すように唸る。こういう時、彼は説明の労を惜しまなかった。豪快なようでいて、まめなところがあるのだなと密かに神父は感心している。そうした配慮がされているのは神父に対してのみなのだが、それに彼が気がつくのはまだ先の話である。
護衛は噛み砕くように言葉を選びながら続けた。
「食べて、味があって、そうだな、人間なり獣なりであれば、そこから生きるに必要な栄養を選り分けていくだろう。だが、俺たちにその行程はない。口の中に入れて、腹の底で燃える。そこから先はなにもない」
「……それじゃあ、あなたは用を足すことがない……?」
「いや、それを聞くか?」
「あっ」
ふと思ったことがそのまま口に出てしまい、護衛に揶揄されるように笑われる。神父は慌てて口を押さえて肩を竦めたが、言ってしまったことは取り消せなかった。護衛も否定しないということは、そういうことなのだろう。
くつくつと面白がるように笑う声から、不機嫌の色は感じ取れない。まだ質問を許されているのだ。無論、護衛は秘密主義ではないし、いくらでも聞けば答えてくれるだろうが、なんとなく神父はこれまでその機会を逃してきた。仲良く身の上話をする間柄でもなし、それを不思議に思うことはない。それでも、今の空気を逃す手はない。神父は思い切って隣の護衛を見上げた。
「では、もし、私があなたに──」
食べられてしまったら、その後どうなるのだろう。
以前ほど、神父はこの化け物のことを恐ろしいとも悍ましいとも思っていない。勿論、恐ろしいには違いないが、それは圧倒的な強者に対する畏怖だ。基本的に彼は理性的で、神父の意図を汲んでくれる。機嫌を損ねない限りは、友好的だ。彼の永い生のひと時の暇潰しに付き合うために、神父の死後の魂の行き先を化け物に委ねることにして、それはさほど不愉快でも理不尽でもないことのように思えた。
主神に肉体と魂の服従を誓う聖職者としては、とんでもない裏切りに違いないが、そもそも既にこの化け物とつるんでいる時点で破戒も上等。そもそも神父は主神の教えに感じ入って教会に属している訳ではない。彼の欲しい地位が教会にあり、そのための才が神父にあったから聖職者になっただけ。死後の楽園への誘いは、神父にとって魅力のある褒美とは言えなかった。
ある意味、前向きに護衛の提案を受け入れようとしていることに、神父は自覚がない。ただ選択肢の一つとして勘案しても良い、と思い始めている程度だと本人は主張するだろう。かねてより、押しに弱く流されやすい男である。
見上げた先にいたのは、麗らかな景色の中にあって異質な暗闇だった。そこだけぽっかりと穴が空いたような漆黒に、金の目が六つ並んでいる。それ自体はもはや見慣れた化け物の姿であるが、彼がこの姿を晒していることに神父は今更驚く。いくら人通りがないとはいえ、こんな姿を隠す物もない草原の真ん中で、どうして──との問いかけは、化け物本人の声によって遮られる。
「おしゃべりもいいが、そろそろ起きた方がいいんじゃないか?」
「なん……え? 起きる?」
化け物の脈絡のない提案に神父は目を白黒させる。そもそも、ここはどこだろう。神父は聖水の密売を摘発するために、どこかの廃村にいたはずだ。そこで重い病を拾って、隔離されて──。
化け物が身を乗り出して、神父を見下ろすようにする。輪郭の定かでない姿であるが、実体があれば鼻先を突き付けるような格好だっただろう。微妙に追えるシルエットを見ると、化け物はどうやら四つ脚の獣のようだった。
化け物が金の目を細めて笑う。
「あんまり起きるのが遅いと、全部食っちまうぞ」
そのままかぱと口を開けて、化け物は神父に噛み付く真似をする。大きく開かれた口の奥、暗闇の更に先には仄かに揺れる灯が見える。炉心のようだ、とそれを見上げて神父は思う。なるほど、ここから化け物の腹の底に落ちていき、炉心で燃やされ、そしておしまい。
「……まだ、食べられる訳にはいきません」
すべきことがある。そのために司祭になって、司教になるべく奮闘している。なるほど、これは泡沫の夢。あれだけ苦しかった息も、痛みで割れそうだった頭も、ここでは何も異常を感じない。であれば、化け物が本性のままこの場にいる説明もつく。
神父が答えると、化け物は口を閉じて金の目を伏せた。表情の読み辛い姿であるが、恐らく人の姿であれば安堵に肩の力を抜いているところだろうか。これでも心配していたのだろうかと思うと、なんだかおかしくて頬が緩んだ。
夢だと分かれば起きるのは容易かった。神父は夢の中で目を閉じる。化け物の視線は未だ感じるので、神父が確かに目を覚ますまではここにいるつもりなのだろう。
──いつか。いつか、その炉心に燃やし尽くされた時。そこに神父の灰は残るだろうか。灰でなくてもいい、何か思念のような、そういった物が残って、それで死後も化け物と話すことができれば、あるいは彼の退屈を紛らわしてやることができるのかもしれない。
夢の中で夢想だなんて、滑稽なことだ。神父は、一瞬脳裏を過ぎったどうでもいい思い付きを早々に忘れるために目を覚ます。そこは眠りに付く前、神父が病のために隔離された小屋の粗末な寝台の上だった。
護衛はトイレ行きません




